【兵庫】古代に活躍した渡来人、秦氏の軌跡や実像に迫る 赤穂で特別展「謎の氏族−秦氏」
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古代に活躍した渡来人、秦氏(はたし)の実像に、考古学の研究成果から迫る特別展「謎の氏族−秦氏」(神戸新聞社主催)が11日、兵庫県赤穂市立有年考古館(有年楢原)で始まった。秦氏と旧赤穂郡(赤穂市・相生市・上郡町)との関わりを紹介。人の形をした装飾付き須恵器(東有年・沖田遺跡)や金銅製冠(相生市陸・狐塚遺跡)など資料約350点で、渡来人の軌跡や秦氏の実像を探る。
渡来人の考古学研究が飛躍的に進んだことを受けて赤穂市教育委員会が企画した。秦氏は中国大陸に起源を持ち、朝鮮半島を経て日本にやって来たという。世阿弥は「風姿花伝」に「(能楽の祖とされる秦河勝が)播磨の国しゃくしの浦につく」と記し、赤穂の坂越浦に着いたと伝わる。秦河勝を祭る大避神社が赤穂郡には約20社あり、秦氏の伝説が多数残る。
展示では5〜6世紀の古墳時代に渡来人が播磨に多くいたことを示す。5世紀の古墳からひつぎに使われたくぎなどが出土。渡来人が葬られた可能性があることや朝鮮半島の埋葬の風習が播磨に現れたことも紹介。6世紀に増えた金ぴかの馬具や装身具も朝鮮の新羅や加耶の影響だという。
秦氏の存在を示す最古の資料は平城京から出土した木簡(8世紀)で、赤穂郡大原郷(有年原か西有年)に多くいたことを示す。赤穂郡に新たな集落が次々と現れた7世紀初頭には秦氏がやって来て古墳などを築いたとみられ、9〜11世紀には地方官人集団として耕地開発や塩・陶器作り、寺院建設などに携わった。
秦氏は7〜12世紀(飛鳥−平安時代)に赤穂郡にいたと結論付け、貴族や大寺院に利権を奪われた後、農民になったと紹介。山中良平学芸員(32)は「秦氏の存在が忘れられた地域もある中、赤穂郡には大避神社があり伝説を残し続けていて興味深い」と話す。
神戸新聞NEXT 2019/9/11 21:20
https://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/201909/0012690794.shtml 下請けに秦さんって居るけどルーツは支那なんだな。南方系の顔してるけど うちの近所じゃ秦氏と言えば縫製、衣類関係に従事
している人が多いイメージだわ 京都の八坂神社は新羅系。
当社は慶応4年(1868)5月30日付の神祇官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していた。
創祀については諸説あるが、斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が
新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。
http://www.yasaka-jinja.or.jp/about/
http://i.imgur.com/NfonxPW.jpg
八坂氏は朝鮮渡来系 >>4
自分は秦始皇帝の末裔って信じる人間達の集団だから
実際に把握出来る起源は朝鮮半島南部時代の記録まで
それ以前どこいたか不明 >>8
実は金姓は昔から日本にいた。
山城国 諸蕃 新羅 真城史 史 出自新羅国人金氏尊也
新撰姓氏録(1200年前に作られた日本の姓氏の集まり)
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/syoujirokusiragimimana.html
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/syoujirokumokuji.html
ヤマトの国は奈良県だが、すぐ近くの山城国(京都)には新羅国王の子孫の金氏が住んでいた。 天皇には新羅王子の血が流れている
アメノヒボコ(天之日矛、天日槍)は、『古事 記』、『日本書紀』に見える新羅の王子。『播 磨国風土記』には神として登場する。
古事記においてアメノヒボコと阿加流比売神の 子孫・曾孫が、菓子の祖神とされる多遅摩毛理 (たぢまもり・田道間守{日本書紀})であ り、
次の代の多遅摩比多詞の娘が息長帯比売命(神 功皇后 )の母、葛城高額比売命であるとされて いる。
しかし日本書紀において結婚したのはアメノヒ ボコでなく意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等 (つぬがあらしと)とされている点で異なる。
また古事記ではアメノヒボコの話は応神天皇の 段にあり、応神天皇の治政を述べるくだりで出 現する。
日本書紀では応神天皇は神功皇后の子であり、 神功皇后の母はアメノヒボコの末裔の葛城高顙 媛(かずらきのたかぬかひめ)であるため、
古事記と日本書紀では系譜(アメノヒボコが出 てくる話の時系列)が逆転している。
http://i.imgur.com/E3linwh.jpg >>8
http://emisi.jp/swfu/d/auto_c0UCtd.jpg
※ 続日本記・天平5年4−7月記【参考文献】
出 典 続日本記 二 271頁 抜粋 金徳師 項
【金 氏】
持統4年(695)、新羅王家後裔の許満等12人が京より武蔵国に下向居住するに始まる。
天平5年(733)、徳師の代にさらに新羅人男女53人が武蔵国埼玉郡に居住、子の知仙は陸奥国美原郡伊治城に遷る。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03021.htm 秦氏って始皇帝に不老不死の薬を探して来いって言われて
富士山のふもとまで来たけれど、薬が見つからなかったので
帰るに帰れなくて、そのまま住み着いちゃったんでしょ? BC770年 春秋戦国時代
│
BC221年 秦(キングダム)
│
BC206年 漢(項羽と劉邦)
│
184年 三国時代(三国志)
│
265年 晋
│
439年 南北朝(蘭陵王)
│
589年 隋
│
618年 唐 >>1
【ミス・ジャパン東京】土屋炎伽が選ばれた理由は芸能界とのコネ?
http://meiyouwenti.net/2187/ 他にも東漢氏とか百済王氏とか、渡来系は色々いたな
というか飛鳥時代までのテクノクラート層の大半は渡来系だったのでは >>23
実はそれほどの勢力ではなかったとか?
だいたいそれを言うなら蘇我氏のほうが不思議。 秦うじは大集団だから赤穂にいただけではないだろ
島津なんてのも秦うじの末裔 >>23
滅んだのではなく同化した
いかに文化水準で優位でも多勢に無勢、地政学的に本国軍の動員もままならないし 針間の初期開拓者は出雲系、その後応神とかに奪われた。聖徳太子と秦河勝はずっと後にやってきた。 秦氏は中国大陸から直接渡って来たので朝鮮とは何の関わりも有りません それから渡来人でなく帰化人というべきだろ
安易に歴史ある言葉を変えるべきでない 秦=china
つまり兵庫県は現在の中華人民共和国が歴史的に支配する領土であることは確定的に明らか! >>4
仮に渡来人の子孫だとしても千年以上前から混血しまくってるんだから当たり前 >>1
そういえば世阿弥、観阿弥は服部の一族だったな。
秦氏は養蚕の一族だけど、服部氏の先祖ではないって姓氏の本に書いてあったな。 >>32
逆じゃないか?
兵庫が中国を支配する権利を持っているのでは ┏( .-. ┏ ) ┓
【飛び出る、3D〜立体映像の使用構想】
*私の構想「120」、二眼カメラ搭載スマホ等で立体撮影をした後に
・ゲーム、メッセンジャー的アプリ
・EC、ニュースサイトや、ミュージック・ビデオでも
飛び出る映像を楽しむ事が出来る
*テレビ、携帯、パソコン、ゲーム機、紙(誌面)等でも応用可能である bj
https://mobile.twitter.com/prettypumpkin71/status/1172149492814008320
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>37
ググって出てきた情報をさも自分は知ってましたよとでも言いたげにドヤ顔で書き込むキチガイ
キモすぎて虫酸が走るわ 秦氏はヒッタイトの末裔じゃないの?
なんか、ゴルゴ13でそんな話があったような。
確か、インド海軍がロシアの中古原潜を買う話。 秦の時代、焚書坑儒で儒学者は弾圧されたが、徐福と言う方士は
「いつ、自分たちが殺されるかも知れない」として秦の始皇帝に
「宝来島には不老不死の霊薬がある」と吹き込み、数百人の一族郎党を
率いて日本に亡命したとされる「徐福伝説」がある。
時期は違うが、秦王朝が項羽に滅ぼされた後、秦の末裔が日本に渡来した
可能性はある。日本では秦(シン)と呼ぶが中国読みでは「ティン」
それが古代ローマでは「ティナ」と呼ばれ、後の「チャイナ」「支那シナ」
の語源となる。
飛鳥、古墳時代にはタタール人の末裔「多々良」人が製鉄技術を伝えたと言われ
日本独自の砂鉄を使った「たたら銑鉄」を生み出す。この製鉄技術は朝鮮半島よりも
早く、中国の古文書「隋書」にも「倭の国の兵士は鉄の矢じりを持っていたので
百済や新羅の民は大いに尊敬した」とされる。
古代日本は様々な渡来人が来ていたみたいです。蘇我氏もペルシャ系だったと言う
説もある。 人は記憶型と思考型に大別できる
大陸が乱れ国が滅ぶと難民が日本に渡ってくる
項羽と劉邦、紀元前だな
垓下の戦い
https://www.youtube.com/watch?v=lF37YlQfgMo
この戦いで敗れた楚、当然難民が日本に押し寄せたであろう んもー 日本の文物99%が半島起源ですからねぇ
≡ ミ永遠の師匠 ≡=-|創価は朝鮮が 大好きだから
─ | <・> | ̄|<・> | 挑戦人 TRY人 なんてね!
・トランプ】ボルトン大統領補佐官退任
政策の影響は?【政権
http://bokengima.web.fc2.com/bo1.html
・米中制裁関税 クロスカウンター炸裂! 韓国経済は焦土化
http://bokengima.web.fc2.com/ko4.htm 稲荷神社が秦氏由来なんだけどな
いなくなったとか笑わせるわ >>1 >>2
パンスト朝鮮顔を整形しまくったネトエラ(ネット工作の在日朝鮮人)がわきまくってるしな。
日本に密入国してきて図々しく居つき、
生活保護を受給しながら凶悪レイプ性犯罪を繰り返し
日本人になりすましネット工作を続ける在日朝鮮人。
チョンポップの人気偽装を繰り返してるのもこいつら在日朝鮮人・帰化人
在日 朝鮮人はスパイそのもの。
帰化人を含めて朝鮮人全員をいったん強制送還するしかない。
●●● ネトウヨ連呼厨(ネトエラ)の正体 ●●●
http://karutosouka2.tripod.com/uyokusyoutai.htm
. >>53
しらんけど色目人とかの噂は有るね
始皇帝自体俗に言うシナ人では無い見たいだし いよいよ令和にパンドラの箱が開くね
大和朝廷とは朝鮮人だよ >>56
古代中国の国家運営に大きく関わったコーカソイド系のソグド人と
関係あるのかな 播磨風土記なんかには渡来系氏族がやってきて大国主ともめた話もあるんだが、それと同じ話かね >>37
長宗我部は藤原純友の末裔だっつの
知ったかぶりで適当なこと書いてんじゃねえよ蛆虫 5世紀頃のどう見てもユダヤ人としか言いようのない埴輪が茨城で大量出土もされてるな
>>53
西から流れてきたルートの途中が朝鮮半島だったとも言われてる 広隆寺だっけ?建築様式がユダヤ的な技術があったとか言われてるな
神社にユダヤ的なモチーフがあるのも秦氏の影響とも言われている
八幡神社が特に秦氏的
文字の記録とか文官としても活躍してたみたいだな 中世の混乱期に各地の豪族がこぞって平氏だの源氏だのの子孫を自称したように、各地の有力土豪が渡来系を自称するのが流行した時期があったんだろう 日本書紀と古事記が基本になってるが
日本書紀に関しては編纂側の意図があると思われる
古事記以外の記紀神典の類はある
そういうもんにももっと光を当ててほしい
神代文字だってあったんだし
神社の禁則地にはぺトログリフが多く眠っていて海外の学会に衝撃与えたとか面白い話もたくさんあるのに >>41
>>60
なんでその人にだけそんな辛辣なのw 仕事で中国人に「中国人ですか?」って言われたことが数回あった >>63
遺伝子で日本人のDNAは、特殊な古ユダヤ系列だと判明してる。
中国や韓国には全く存在しないDNA。 半島南部は新羅ができる以前から大陸末端の僻地として秦の万里の長城建設の労役から逃げた逃亡民が混在しており国が存在しない移民の地になっていた。
丁度倭が半島へ進出する頃、秦の移民は鉄鉱脈を開拓し鍛治技術と共に交易資源として倭人との結びつきを強めることとなる。
やがて半島南部に倭人支配の任那府が置かれると、それら技術系交易商は倭国へ吸収されることになる。
それらが列島へ至り、新羅人を名乗らず大陸王朝所以の秦の字を新羅語で読みハタとした。
因みに畑をハタと呼ぶのは焼畑が秦氏所以の農耕技術であり独特の風習から秦氏に因み作られた和製漢字である。 日本DNAまとめ
縄文人遺伝子 ●●●●●●●●●● 彫りの深い顔 平行二重まぶた
渡来人遺伝子 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇 平たい顔 一重まぶた
ヨーロッパ遺伝子 △△△△△△△△△△
二重瞼アイヌ 〇〇〇●●●●●●●
・二重瞼琉球 〇〇〇〇〇〇〇●●●
二重瞼北東北 〇〇〇〇〇〇〇●●●
二重瞼南九州 〇〇〇〇〇〇〇●●●
二重瞼本州人 〇〇〇〇〇〇〇〇●●
――↑縄文系↓渡来系 人種の壁―――
現代関東平均 〇〇〇〇〇〇〇〇〇●
現代関西平均 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
一重瞼日本人 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
ネトウヨ平均 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
韓国人朝鮮人 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
・・皇室天皇 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
・・長浜浩明 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
長浜浩明脳内 〇〇〇〇〇●●●●●
ネトウヨ脳内 ●●●●●△△△△△
DHC会長脳内 △△△△△△△△△△
【朗報】DHC会長「日本人は中国朝鮮人とは全く関係ない。アジアで唯一ヨーロッパ人に近い民族です。」
http://hawk.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1525635751/
日本の誕生 皇室と日本人のルーツ 単行本(ソフトカバー) 長浜浩明 (著)
「神武東征」はあった! そして、「日本書紀」には真実が書かれていた!
第一章 日本人のルーツを解き明かす 『サイエンスZERO』と篠田謙一氏のウソ >>77
八幡宮は秦氏由来とか言われてるな
というか渡来系氏族祀ってる神社多い >>73
そこはモンゴロイド普遍やからチョンとは限らない
むしろ下顎が広くでかいのがチョン特有 >>78
国語辞典によれば中国から渡ってきて機織りを伝えたからハタなのだとか 応神天皇14年-16年 秦造(はたのみやつこ)の祖、融通(ゆうつう)王;別名弓月王(ゆつきのきみ)が
百済から技術者を伴って帰化した。(古事記、日本書紀他)
応神天皇37年(306年) 阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)を呉(くれ)に遣わして
縫工女(きぬぬいめ)を求めさせた。二人は高麗人の案内で呉に行った。呉の王は縫女の兄媛(えひめ)
・弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり;漢織とも)の四人を与えた。(日本書紀)
呉織(くれはとり)は呉(くれ)の服(はとり;はたおり)と同じ。「呉服」は織物を指すのではなく、織物職人を指した。
仁徳天皇の時代(313-399) 天皇の皇后が山城の国筒木(京都府京田辺市綴喜)の韓人(からびと)ヌリノミの家に滞在し、蚕を見た。
ヌリノミが養蚕を行っていた。(古事記)
雄略天皇7年(463年) 百済から今来(いまき)の才伎(てひと)(最新の技術者)が献上された。(日本書紀)
雄略天皇15年(471年) 弓月王の孫の秦酒公(はだのさけのきみ)に「うずまさ」という姓;太秦公宿禰(うずまさのすくね)を与えた。
雄略天皇の時代 秦氏が「ハダ」の姓を与えられる。 >>1
秦氏がユダヤという重要な事を書いてないとはあほ新聞だな
特に神社はユダヤと一致することが多すぎる 偶然ではないだろ >>65
天皇が渡来系だと権威にあやかろうとするからな >>76
やっぱり秦は新羅人なんだな
日本の神社って新羅人にまつわる話多いもんね 伊勢神宮は各地に元伊勢と言い移動してきて今の地に治まった
これはユダヤの移動する神殿の幕屋と同じだ
驚くことに伊勢神宮は今も右左に移動している
式年遷宮が謎だったがこれで腑に落ちた >>87
神社に朝鮮の影響はまったく見られない不思議なほどに >>88
京都の元伊勢の籠神社と真名井神社はモロだ
真名井神社の祭神は外宮の祭神である食の神様の豊受大御神だ
だから真名井からまな板なんだよ 驚くことにユダヤのマナの壺と一致する >>76
畑も羽田も旧字の「秦」にツノがあるから忌み嫌って違う漢字を当てたらしいけどね 秦さんは渡来系ってなんかわかる。
知り合いの秦さんって顔がわりと掘り深くて、酒が強く、身体も頑強。酒癖はかなり悪い。
多分西方から来た外来人にルーツがある。 >>48
日本語と中国語は言語体系が全然違うから、日本人全体から見ると
ほんの一部であり、やがて日本に吸収されてしまった 日本語と朝鮮語は言語体系がほとんど同じ
日本語文法の研究が進んでないのは、これが公になるのを避けるためじゃないかと
勘ぐりたくなる >>98
近畿圏が日本の中心になる話題は潰すんだよ
東京が 弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)は、『日本書紀』に記述された、
秦氏の先祖とされる渡来人である。『新撰姓氏録』では融通王ともいう。
中国の西、ウイグル、カザフスタンの辺りに弓月国(クンユエ)という国が存在しており、
そこからはるばる日本に渡ってきたという、佐伯好郎説も存在する。 カムサ ハムニダ
感謝 します
アンニョン ハシムニカ?
安寧 していましたか? 「新撰氏姓録」によれば、第14代仲哀天皇の8年(199年、実際は4世紀後半のことされている)秦氏の先祖、
功満王の来日の記事があります。次の第15代応神天皇の14年(一説によると372年)功満王の息子の融通王が
18670人の127県の民を率いて来日したという記事があります。日本書紀にも同年秦氏の先祖の弓月君が120県の
民を率いて来日したと記されています。
秦氏は、秦の始皇帝の子孫を称していますが、どうも違うようです。佐伯好郎によれば、中央アジアの
バルハシ湖の南にある「弓月」国(中国語でクンユエ)が、故郷ではないかということです。
1世紀から2世紀に存在し、小国ながらキリスト教国であったとのことです。
秦氏の故郷である、クンユエには、「ヤマトゥ」(英語読みで「ジャマティ」)という地名があるとのことです。
アラム語でもヘブル語でも「ヤマトゥ」(「ヤ」は、ヤハウェ、「ウマトゥ」は、民の意味)は、「神の民」を示すということです。
明治時代に日本に来て、日本に失われた十支族が来ていると直感して記録を残したヨセフ・アイデルバーグは、
これが「やまと」の国の語源になったのではないかといっています。
後の秦氏になったこの弓月の民は、431年エフェソス公会議で異端とされたイスラエル人のネストリウス派キリスト教徒(景教徒)
ではなかったかとも、エルサレムをおわれた、初期のユダヤ人キリスト教徒のことではないかという説もあります。
ネストリウス派キリスト教は、ユダヤ教的な色彩の強いキリスト教であるとのことです。 >>93
千年も混血繰り返せば、原型とかなり変わるぞ。同じにはならない。
マジャール人やブルガリア人の様にな。
(モンゴロイド→コーカソイド化) >>94
聖徳太子の母親は皇女だよ
欽明天皇と蘇我氏の娘との間に生まれた娘 >>1
ユダヤ人も混じってるらしいなぁ
中国起源というよりは、中近東からシルクロード渡ってきたと思う なんでもかんでも中国朝鮮の渡来人というのは戦後自虐史観の影響
世界史的観点で言えばシルクロードの東端が日本であり日本文化に西方文化の影響があるというのが適切 秦の始皇帝からコーカソイド系が入ってる可能性考えられてるし
秦氏も中央アジアかいうし、その先もあるんやろな
とんでもない大移動やったもんだ
中国大陸起源じゃなくその先を解き明かせよ
なんでもかんでも中国大陸でまとめるなよ 「秦氏」といえば「徐福」
「徐福」といえば「熊野」 仏教だって戦乱や秦の暴政から逃れて半島に居着いた人達からの伝来であって今のシナ朝鮮では断絶してるからな
徐福も実質的な亡命だろうし明が滅ぶときも日本に学者が逃げてきた この辺の貴族、全員朝鮮人
そろそろ認めたらどうだろう
兄の国から大和朝廷の貴族たちが来たんだよ アメノヒボコは新羅王と名乗り、播磨や淡路島を経て最終的に但馬(兵庫県豊岡市)の出石
に定住したらしい。 今の朝鮮人と、長白山大爆発前の昔の朝鮮人には何の接点も無いからな。 >>93
そりゃ秦が「西戎(西の蛮族)」とか言われてたからな。
前漢武帝あたりのシルクロードの交易(主に馬目当て)もあったんじゃないか >>114
マジレスすると百済系の貴族いるにはいてもあまり位高くない
桓武天皇の母親の実家の和氏とかよく名前上がるけど、
貴族としてはかなり低い方で、だから桓武天皇も若いころは不遇だった 日本国民としての誇りも日本人としての尊厳も失ってしまった日本国民に敢えて苦言を言います。
これが我が国家の現実なのだろうな!国の歴代総理(清和会)がジャパンハンドラー
のロボットになり国家を売り渡し没落国家にして国民は先の見えない閉塞感に苛まれて
自分の事だけで精一杯で他人に感心など持てなくなり自分さえ良ければ取り敢えずはまあ
よし!とする世の中になってしまった。金、金、,金が人命よりも優先され金を得る為には
何をしても良いと政府が率先して国民に教授している始末。非正規労働者2200万人以上!(年収200万円以下)
を作り出して結婚も出来無い!結婚もしようとも思わない若者だらけ にした小泉元首相、安倍ちゃん
何故安倍ちゃん(清和会)が日本を壊滅しようとしているのか?
これを見れば「あ〜なるほど!」と解るよ!
調べて見ればやはり、ひいお爺ちゃん,の祖先から日本人じゃ無かったね!日本人が日本国が憎くて憎くてしょうがないんだね!
https://kabukachan.exblog.jp/22232976/
cf31 >>80
つまり応神天皇は秦氏だったということかね? 韓国人記者 「韓国系渡来人なんでしょう?」
弓月君 「いや、漢人系っス」
韓国人記者 「隠さなくてもいいですよ。百済から来たじゃないですか?」
弓月君 「いや、だから百済は経由しただけっス。大体、新羅には妨害されたし」
韓国人記者 「朝鮮半島から来たってことは、やっぱり韓国人だったんじゃないですか?! 」
弓月君 「だから、朝鮮が嫌だから日本に来たんだろ!このキムチ野郎!!」 秦氏と徐福じゃ、時代が全然違う
ウンコ韓国人は年表を整理できない 応神の父である仲哀の不審死から全てが始まった
この秦氏が典型だが、不審死に関与した武内宿禰が自分の子を朝鮮に軍事出動させて大量に庇護した秦氏の一族な訳である
仲哀の不審死とそれに続く朝鮮貴族の大量移住
日本の上層部は入れ替わったのだよ 秦はコーカソイドニダ
毎回出てくる白人崇拝のウリスト教
カルトは、中国史を知らない ウンコを食べるウリスト教徒の話には、なぜか毎回ユダヤが出てくる 秦氏は、普通に神社造ってるじゃん
ウンコを食べるウリスト教が何の関係があるの? 古代史ブームでもないのにやたら古代の
とりわけルーツに関する話ばかりなのはわけがある
「お前らの先祖は俺たちだぞ」 秦氏は、絹を献上したし、その後もずっと繊維産業だわ
そういう地域から来たのは明白
西域とか、ウンコは何言ってるんだ?
どうやって、日本に来るんだ? 第三者の漢人が、扶余系・ハン系・倭系を区別してる
大体、秦氏は漢人系に分類されてる
韓国人はウンコを食べる >>125
伝説時代の話で盛り上がんの勝手やけど、現実の陰謀論にまで発展すると
人離れてくわ 樽悶 ★
↑
おかしな書き込みは、こいつの自演
いつも同じ書き込みが出てくる なんだかんだ言って大分と鳥取多いな、
神話は実話かもしれない おれは厩戸読んでるからね
司馬氏>秦氏>>>>駒一族 >>134
わざわざ記紀に不審な死に様を活写された仲哀
それに深く関与した武内宿禰
これが朝鮮貴族の大量移住のキーワードだよ
心ある編者がヒントを残してくれたわけ >>1
> 秦氏
中東の弓月国にルーツを持つユダヤ系移民な
途中通過する朝鮮(新羅)に妨害されてなかなか日本に到達できなかった
神奈川県の秦野市は秦氏が移り住んだ場所
いまも秦姓の人がたくさんいる >>135
あれも、藤原氏(少弐)から仕事貰う為に氏姓仮冒してた説があるから、なんとも言えん
太宰府近辺の郡司の家系で軍毅やってて取り立てられた際にそう名乗ったとか
それともほんまに端から少弐の秘書役やってたかもしらん 神武と兄にしてあるだけで嘘。神武東征でたたらの女を嫁にさせてる辺りから、奴等は王朝転覆を狙っていた、室に入りて矛を操る。これが3韓の連中。 朝鮮政策に極めて消極的であった仲哀が都合よく突然死
実権を握ったのは武内宿禰
そして朝鮮出兵と同時に大量の朝鮮人貴族を庇護する
つまり朝鮮介入を意図し朝鮮一部勢力と連携した反仲哀派が実権を握り、このときから朝廷は朝鮮貴族だらけになっていく
日本史の最大の転換点と言えるかも 樽悶 ★
↑
おかしな書き込みは、こいつの自演
いつもユダヤやイスラエルが出てくる
カルト宗教 >>37
称してるよ
ただ長宗我部みたいな国人層は迂闊に源平藤橘称すると系図に齟齬が生じるから無難なところで帰化系氏族としたのだろう 歴史的に言えば朝鮮というのは箕氏衛氏の鴨緑江河口周辺だけのことであって半島は三韓にちなみ韓半島と呼んでいた
朝鮮は漢に滅ばされ断絶していたが高麗が滅んだ時に明からかつて朝鮮という名があったからそれを名乗ればよかろうと言われて出来たのが李氏朝鮮
当然ながら李氏朝鮮は箕氏衛氏との歴史的繋がりは全く無い >>114
君分かってて言ってるか?
渡来系氏族で帰化した連中、例えば百済の亡命王族も百済王氏という氏姓与えられたけどミドルクラスの官位しか与えられてないし、そうこうしてるうちに同化して消えた
東漢氏や西文氏らも一芸には秀でてたけど、そういう役割しかなく、これらも同化して消えた
秦氏は飛鳥、奈良の王朝との繋がり、長岡京、平安京遷都において一定の役割を果たしたが、朝廷において貴族にはなっていない 豊後の大将源義鎮とか
周防の大将源義長は許されるのに そもそも皇国の祖先神が何がなんでも朝鮮に行けと命令するだろうか?
この時点で偽の神であったと言う他ない
日本の固有の伝統を守ろうとした仲哀は神に逆らった罰として死んだと読める
このような奇怪なエピソードを伝える記紀はこのときから日本の政策や伝統が大転換したと暗示してるのだ
渡来人ではなく日本の上層部にある日突然大量に入り込んだ朝鮮貴族たちと正しく言うべきだろう >>150
北魏に亡命した東晋の皇族や貴族みたくいつの間にか埋没したんやろな
(北周あたりまでは皇后出したりしてるがその後不明) >>107
名前にペルシャと書かれている
間人(はしひと)=ペルシャ人 >間人(はしひと)=ペルシャ人
ID:1/OLnlzM0
樽悶 ★
↑
精神病 >>152
仲哀の死と神功皇后はまだ古墳時代の話だぞw
初期の新羅や百済それに高句麗も出てくるからせいぜい4〜5世紀頃。
新羅はほとんど戦わずして全面降伏。
それを聞いて百済や高句麗も恭順と朝貢を約束。
半島はまだ大軍勢を見たり聞いただけで驚いて降伏する地域。
けど縄文時代から自分の庭のようなところだった。
時代も背景もデタラメすぎ >>104
発掘調査が禁止された剣山もユダヤ的な祭祀の道具がたくさん出てきてたみたいだし
古代に日本にユダヤ人が来ていたのはほぼ間違いないとは思う
日ユ同祖論というよりはユダヤが同化したって方が正しいと思う
アニミズムが元にあってそこにいろんなものが同化吸収されたってのが真相じゃないかな
近年になって日本各地の神社の禁足地jからペトログリフが続々発見されている
これは1万2000年くらい前の文明の痕跡とも言われていて環太平洋や北米の文化とも近似している
自然崇拝も共通点 秦氏の秦王朝末裔説を疑う見解も多いが、『正倉院文書』の西南角領解には、河内国丹比
黒山郷を本貫とする秦羸(エイ)姓田主などという人名が見えており、秦羸(エイ)姓は
本来の秦羸(エイ)姓をよく伝えていることからみて、秦始皇の末裔説はともかく、広い
意味で秦王族(『姓氏詞典』には、子嬰滅びて支庶、秦を以て氏となすと見える)あるいは
秦氏族の末裔という所伝は、一応信頼してよいのではなかろうか。なお、中国の秦氏には、
姫姓の魯公族で河南省の秦を食采としたものもあった。始皇帝の姓名は(羸政)である。 >>104
ネストリウス派(景教)が来たの中国の史書や遺跡の発掘を見る限り唐王朝の頃(太宗の時代)やぞ
仮にユダヤ人が来ていたとしても斉明〜弘文あたりやないか? 仲哀天皇は実在しません。さらには神功皇后や応神天皇も実在しません。
このあたりはほぼ通説になっているけど、個人的には景行天皇あたりから
怪しいと思っている。
おそらく、このあたりの人々(というか景行=応神天皇のモデルのみ?)は
実際には九州の豪族でだったのでしょう。それをヤマトタケルが行ったと
される畿内の遠征の伝承と融合させたのだと考えています。
その場合、応神天皇のモデルとなった人(豪族)が秦氏だった可能性も
無いこともないとは思っています。 また応神天皇は気比神宮で神様と名前を交換したことになっているけど、多分
この「誉田」が渡来人(おそらくツヌガアラシト系)の名前で、畿内にも勢力を
持っていたのではないか。 ID:dvsInUqw0
ID:ouAGbrp80
ダブルウンコ
樽悶 ★
↑
精神病 >>154
堂上はれっきとした桓武平氏だぞ
嫡流は西洞院家
武家平氏は訳分からなくなったのは確かだが >>10
最古の資料は史記。
春秋、戦国から項羽までの楚の関係などで秦国関係者は、南支にもいたと思われ。
南方系秦国系は、漢武王朝鮮遠征での遠征艦隊に随行したか、移民として送られたかだね。
辰韓の老人達はそれを持って、今の郡の連中は
昔は俺らだったとか下っ端だったとか言ってたと解釈してる。 大和王朝が連合の主になったのはその理想と世界観。
東の果てに正に理想の国を作ろうとした。
その原動力になったのが長い大陸の動乱によって追われた支那人達。
滅んだ国の運営者達だったから教養もあり国の作り方や多くのアドバイスを行った。
また江南の連中とは見た目もや文化も似てて凄く気性が合ったんだろうな 秦氏って赤穂とかいろんなところにいたんだな
太秦とか松尾大社とかしか知らなかったから
権力の中枢に近いところに少数の秦氏がいたのかと思ってた 中国側の資料だと、羸氏の子孫は江蘇省と山東省に多いとか
最大グループは、四川羸氏 >>43
漫画のゴミみたいな電波情報を真に受けんな 項羽の子孫でさえ前漢では丞相出してるのを見てると意外と嬴氏(正確には趙氏)は生き残ってた可能性が(特に女系や母系は) 赤穂は、蘇我氏の迫害から逃れてきたところ
聖徳太子の死後、一時失脚してるんだわ 聖徳太子や秦氏をペルシャ系と考える場合、徐福は中国人だよね? >>124
>秦氏と徐福じゃ、時代が全然違う
そこなんだよ
徐福伝説と秦氏がセットになっている場所は逆に怪しい
後世に秦氏が進出してから、遡って徐福伝説と結びつけたと思う
逆に言うと秦氏の足跡がないのに徐福伝説だけある土地は、それは徐福としては信憑性ある
後の秦氏は知識人として徐福知ってるわけだから、逆に雑音だろう ID:ouAGbrp80
ID:MJYyJA5A0
樽悶 ★
↑
精神病 >>179
ちゃんと読めよ。ペルシャとか徐福とか言ってる人に突っ込んでるだろ
矛盾点をあぶり出してるんだよ 秦氏は香春信仰を豪語していた立派な半島系。宇佐もやがて秦に取り込まれる。宇佐君食われちゃったんよ。姫氏はきだから紀の国が姫の国だろ。兎に角記紀を読むかぎりな汚い勝ち方、相手の人の良さに付け混んで皆殺しにする連中で詐欺師集団の年代誤魔化しなんて当たり前。 >>140
だと仮定したら、徐福はジョセフという話とは関係ないですよね
>>112
>「徐福」といえば「熊野」
熊野が一番眉唾。もろ秦氏が入ってきている場所なので
今の韓国人が「漢方も俺らが発明した」と教えて中国人留学生がブチ切れているけど、
そいやって秦氏もいろいろな祖先をでっち上げていないか? なんか乙巳の変(大化の改新)で、入鹿の首を撥ねた「韓人」は秦河勝では?
という説を読んだことあるな。で、播磨に亡命してきたんだと。 >>158
大量に来ていたのなら、村の遺跡からもユダヤの特徴的な遺物が出てくるはず
ところがまったく出てこない
その剣山の遺物やミイラ化石とやらも結局は眉唾なんだろうなあ ・ペルシャ語が漢字で書かれていると最初に気づいたのは松本清張。学者が調べたら本当にそうだった
・神社の狛犬のルーツがスフィンクスなのも、学会が認めている
だったら山伏がユダヤのコスプレしてても別にいいんだが、
俺が言いたいのは、学者をも認めさせた松本清張のように、きちんとした論理で主張すべき
そしたらちゃんと認められるんだから >>159
おれは「始皇帝の秦」の末裔がいたとしても、秦の滅亡からは時代が離れ過ぎていて、朝鮮半島で溶解埋没してしまうと思う。
「始皇帝の秦」ではなく、五胡十六国時代に、三代目の苻堅が華北を統一、残す南部の東晋征服で大敗。その後、394年に滅んだ「前秦」
あるいは、三国時代に魏の蜀漢征服に従軍した功績で諸侯になった羌族の子孫が、前秦の衰退分裂に乗じて建国、一時は華中を席巻したが、417年に滅んだ「後秦」
どちらかの「秦」の皇族・遺臣の子孫ならば、394年または417年はダイレクトに古墳時代なので、朝鮮半島で溶解毎することなく、まさに「経由」して日本に来ることが可能だと思う。 >>56
中国の歴史は、異民族が漢民族を征服し、その後漢民族の一員として融合する事を繰り返す歴史
風来坊のモンゴル人だけは上手く溶かし込めなかったが 秦氏に限らず古代朝鮮半島は殷王朝の末裔(箕子朝鮮)とかあるよな
礼儀・農業・養蚕・機織の技術を広めたそうだ >>188追加まとめ
@「秦」=「始皇帝の秦」という固定概念・中国史の知識不足が、「秦氏」の出自伝承を「信じられん、インチキ」にしている。
A五胡十六国時代の、チベット系民族「�v出自の氏族が建てた「前秦」、あるいは別のチベット系「羌」出自の氏族が建てた「後秦」の末裔、ならば特に不思議ではない。
B「前秦」は397年、「後秦」は417年に滅んでいる。これは応仁〜仁徳天皇と同時代。
また前秦も後秦も、滅亡までに徐々にボロボロになってゆくので、滅亡以前に朝鮮半島方面へ逃避した皇族遺臣がいてもおかしくない。
これなら記紀の記述と整合する。
Cチベット系民族の建てた国「前秦」「後秦」とはいえ、どちらも一時は華北一帯を征服しており、また中原に進出して何世代も経ているので、「単なる異民族の地方政権」ではない。
D秦氏の伝承に「中華ぽくない、なにやら西方牧畜地域の雰囲気」があるとすれば、元の出自がチベット系民族の「�v「羌」だから。 応神14年葛城襲津彦(武内宿禰の子で葛城氏の祖、後に皇室の外祖父になる)
を応神が百済ヘ派遣
軍勢を率いて弓月君(秦氏一族)を保護しようとするが3年経っても実現しない
そこで応神は更に軍を送りようやく秦氏一族の亡命が成功した
さてここまで必死に朝鮮貴族を呼ぼうとしたのは日本史上初かもしれない
そして仲哀の不審死に深く関与する武内宿禰がその中心なのである >>27
韓国の意向て帰化人が言葉狩りに遭って渡来人に。
渡来人と言う用語を広めた上田正昭は後に韓国で叙勲。 >>83
これ見ると分かるけど、ただ単に音に対して当てた漢字が「弓月(融通)」だったから、
無理やり中国語の「弓月国」と後付で結びつけているようにしかみえんのだよな。 >>195
だよな、どう見ても。
まあ俺は、>>188>>191で書いたように、
『秦氏=五胡十六国時代の「前秦」「後秦」の末裔』
説だから、前秦・後秦の出自が、中原と西域をつなぐ地域で牧畜・遊牧していたチベット系民族「テイ・羌」なので、西域の「弓月国」と繋げられないこともないんだけど。 >>182
熊野から来た秦氏は徐福の子孫を自称していたらしい。 秦と秦は関係ないだろ。中華のしんは儒教だろ、そこから長城建設なんかの強制労働から逃げてきた連中だろ。しかし日本の古代史に先住民皆無だよな。皆殺しにあっちゃってんだな。 弓月は新撰姓氏録では漢民族扱いで
朝鮮人と区別されている >>155
マジレスすると当時の皇族の名前は出身ではなく
養育に関わる豪族などからつけられることが多い
例えば天智天皇の名前は葛城だが、
別に本人や母親が葛城氏の出身というわけじゃない
間人という名前も他にもあり、
舒明天皇と皇極天皇というやはり両親とも皇族で
しかも母親も即位しているんだから皇族なのを疑う余地のない
間人皇女という人物も後にいるのを見ても
間人という名前でペルシャ系とするのは無理がある >>155
それと聖徳太子の母親の穴穂部間人皇女は用明天皇の皇后
当時は皇后は皇族の女性しかなれない
有力豪族にすらなれないのにペルシャ系の女性が皇后になるのは無理 >>192
>ここまで必死に朝鮮貴族を呼ぼうとした
いつものトンスル脳症が炸裂してますなw >>200
ハシヒト皇女は巫女性が高かったけれども最後は蘇我に追われて丹後に逃げたね
橋は天とこの世をつなぐ橋という古代からあった概念のこと
箸墓のハシも同じ >>155
ペルシャ系を意味する波斯と間人とでは読みは同じでも漢字違うよ
まあ日本語はひとつの言葉に複数の漢字表記があることもあるあるだけど
間人に関しては普通に漢字も読みも一致する豪族がいるからそっち由来では
もちろん血筋という意味ではなく養育の方で
昔は豪族と同名の皇族は古代には珍しくないし、
同じ両親を持つ兄弟姉妹が別々の豪族の名前持ってたりする 徐福=ジョセフ ワロタw
でも殆どこれなんだよな歴史って
暴走族と一緒。 >>87
新羅は秦韓という名前の通り中国からの避難民が多かった
ヤマト王権初期は関係が深く日本に服属していたが、北方民族が新羅を乗っ取ってたら関係が悪化した 新羅の王子アメノヒボコは里に帰ってしまった嫁さんを追っかけて来たけど
復縁は出来なくて大国主だかに好きな場所に定住して良いといわれ
色々な場所行ってみたけど豊岡が良くて再婚して定住
川の氾濫が酷いのを持っていた技術で整備し人々に感謝されたり
して祭られた神社がある。日本から新羅に嫁入りするくらいだから
距離がもっと近かったのだろうか。王族同士だからなのかよくわからない。 >>155
名前が外国の国名と読みが同じだから外国人!
っておいおい… アメノヒボコには弟がいて国の跡取りは弟に任せられるから
自分は新羅の王子だけど日本で暮らせられるという話
いつの時代にも似たような話があるなって。
当時はこんな住まいに言語を使っていたのかと古代ロマンを感じて最近よく聞く。
縄文ブームスレの書き込みで見たからだけどね。神秘的。
https://youtu.be/ZUbWIqylZO4 > 謎の氏族
天津神・国津神を祖とする氏族の方が謎だと思う。 >>155
それアーネストサトウと佐藤と読めるから日本人っていうようなものでは 日本に帰化した各王朝皇帝の子孫と向こうの子孫のY染色体比較したら 「秦氏」は、「自分らは秦の始皇帝の子孫である」と自称している『新撰姓氏録』。
「竹斯(筑紫)国の東にある秦王国」を隋の使節団・文林郎・裴清は
「そこの人々は華夏の人々=中国の古代国家「夏」と同じである」と報告している。
新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。 秦の陶芸品「陶胎漆鼎(とうたいしつてい)壺に日本でよく見る「三つ巴(ともえ)紋」
https://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/image-12199080085-13746154434.html
黄金の宝剣 新羅時代の古墳から発掘された美しいこの宝剣は、
黒海や中央アジア で作られたと考えられている。
新羅が中央アジアの北方遊牧民と交流していたことを物語る (三つ巴紋)
https://dot.asahi.com/photogallery/archives/2015062300182/22/ 『後漢書』巻85辰韓伝では、以下のように記載される。
耆老自言秦之亡人,避苦役,適韓國,馬韓割其東界地與之。其名國為邦,弓為弧,
賊為寇,行酒為行觴,相呼為徒,有似秦語,故或名之為秦韓。
〈辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を
彼らに割譲したのだと自称する。
そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と称し、互いを徒と呼び、
秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。〉 倭の五王親書では「秦韓」。 新羅は古墳からローマングラスとかいろいろ向こうの物が発掘されてるからなあ
中東じゃないか? ローカル政権にしても天皇家の八倍の領地を持つ
結局物部や蘇我はもちろん大伴も上回ることができなかった
日本一の大地主ってイメージしかないな 秦氏はシュメール人とも言われてるよね
そもそもシュメール人は縄文人でその里帰りだとも
ガンガン調べてもらいたいな
朝鮮半島にいた百済人は秦氏シュメールのユダヤ人だったんだろう
任那もそうなのかな?
この研究は日本も全面協力で徹底的に調べるべし ID:NWerhUAu0
樽悶 ★
いつものキチガイ
ウンコも食べる 蘇我氏がなぜ新羅よりだったのか?
蘇我氏自体がなんかペルシャっぽい池とかの遺跡つくってるからなあ 法隆寺ももともとはペルセポリスと同じ角度に作られていたらしいし 日本て紀元前からどこかのタイミングで、中国の王朝に支配されて言語も文化も中国そのものに、とかならなかったの不思議だ
中国自体戦争が多く、王朝が次々に変わっていくから辺境の日本まで手が回らなかったんだろうか >>219 三つ巴紋、日本では秦氏と縁のある八幡神社の神紋だからね。 >>228
逆に夏王朝とか、呉や越は倭人が作ったんじゃないかと言われてるのに 秦の滅亡と半島への難民化はもう少し調べた方が良さげ。
越や楚つまり南支那の連中は秦と最後まで戦ったので
万里の長城の東部建設に駆り出され秦の滅亡とともに逃亡。
これが弁韓(後の伽耶)や辰韓(後の新羅)に割り当てられたと言う。
一方、滅んだ秦本国の連中はその敵になるから、
馬韓(後の百済)に割り当てるしかない。その南は縄文時代から倭人の地だ。
前方後円墳も夥しく残ってる地帯。
それを随分あとになってから「秦氏」として倭の本国が大量に引き受けたのなら、
百済の現地音「クダラ」や新羅の境界の現地音「シラギ」が
倭の本国での呼び名になったのもわかるな ペルシャ(パーシ)波斯(はし)百済(パシ・パシャ)間人(たいざ・はしひと) 三国志魏書倭人伝に
「夏王朝の少康の子は会稽の王にされると、髪を短くし体に入れ墨をして
大蛇の害から身を守った」とあります。
夏王朝とは中国最古の王朝(紀元前1900年〜1600年頃)で、6代帝少康の庶子
(跡継ぎではない子)が会稽の王(越の始祖)となったときのことを記しています。
倭人伝では倭の海人たちも入れ墨をしているが、同じように身を守っているのだとあります。 司馬遷の史記によると、
周の後継者から外れた太白と虞仲の兄弟は、呉の地に至り首長となったとき、
全身に入れ墨をしたと記されています。二人はのちに呉を建国します。
(太白には子ができず、弟の虞仲の子孫が呉を継いでいきます。
魏略に記された「(倭人に)昔の話を聞くと、自らを太白の後裔と言う」の話は
太白の直接の子孫ではあり得ないので、呉の末裔という意味でしょう。
魏書では省いていますが) このふたつの話から見えてくるのは、越と呉の土地にはもともと入れ墨をした漁労民たちが
住んでいて、皇帝の血筋の者が現地に同化するために入れ墨をしたということです。
越人は稲作に漁労(半農半漁)、高床式住居の文化を持っていました。
さらに呉、越は水軍をもち航海に長け、銅の精製技術をもっています。
>.三山角冠を被った人物が九州でも活動していた。
呉越時代.臨し出土.三山角冠を被った「水軍戦闘図」
http://img3.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1585292/img_1585292_44914340_3?1219768360
http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-02L.gif 会稽の近く、河姆渡(かぼと)遺跡は中国最古の米、7000年前の陸稲の籾
(熱帯ジャポニカ米を含む)が発見されたところです。
高床式住居、そして漁労も行われていたようで、越人の祖先と言われています。
この沿岸から遭難して九州沿岸に漂着する船が最近まであったといいます。
2日で着くらしいですよ。
ちなみに岡山の貝塚から河姆渡遺跡と同じ熱帯ジャポニカ米が大量に見つかっていて、
6000年前のものだとか。 >>236
夏王朝より確実に縄文の方が元だし、長江文明と比べてようやくどっちが元かわからんレベル 秘湯ロマンは秦瑞穂に始まり、秦瑞穂に終わる。
秦氏に限らず、殆どの渡来人は五胡十六国時代の争乱から逃れてきた漢人達だろ。
彼ら漢人知識人、職人達が高句麗、百済、新羅、倭国の建国に果たした役割は大きい。
4、5世紀の話。 倭人(わじん)とは、
1.狭義には中国の人々が名付けた、日本人(当時、日本列島に住んでいた
民族または住民)の古い呼称。
2.広義には中国の歴史書に記述された、春秋戦国時代(紀元前770年)、
呉越戦争(紀元前450年頃)の戦乱期に中国大陸から朝鮮半島、日本列島の範囲の
主に海上において活動していた民族集団。支石墓制、海人族といわれることもある。
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/bsisekia-thumb.jpg
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/asiseki2-thumb.JPG >>226
蘇我氏は新羅系だからでしょ
百済系の豪族と対立してた 余計なことすんな!!
お前らのほとんどは関係ない話じゃねーか
他人詮索するより自分とこの家系心配しとけ!!自分とこの調べろや!このカスどもがw 自分とこのルーツもおぼつかないしわからんから
色々関係ない過去の有名人のことばっかりやってんだろww
そんな事する暇あったら自分に関係するとこ調べとけや
ほとんどの人間どもは自分とこと関係ない戦国武将だのw知識人だので舞い上がるw
なんと滑稽なことか!
いくら戦国武将がーーだの戦国武将に学ぶビジネスだの、生き方だのの駄本の数々や
テレビをみて語っても、お前らの生ぬるい環境と全然違うやないか!
何の参考にもならん 夢見るのやめろ 日朝同祖を通り越して、本家騙って乗っ取りを画策?(でなくとも、居座りの正当化?)
今まで反日で何て言ってきたの?
「過去の出来事を、今の価値観で斟酌し、その齟齬を問題として糾弾してきた」のでは?
今の日本人から見れば、「渡来人が何を成したか、なんてどうでも良い」し、「過去に置いて何かを成した渡来人やその末裔も、既に日本に同化しており、当時の話を蒸し返して、自分達の処遇をとやかく言う必然性などない」訳で。
かなり前、韓国のテレビ局が、佐賀だかの渡来人の末裔の陶芸家に「さぞ、日本で苦労したのでは?」とか訊いたらしいが。
そのご先祖さんは、たしかに苦労したかもな、「日本で半島と同じ土質の土壌を探す」とかならね。
こんなものをいくら喧伝した所で、在日が日本に居座る根拠になどなりはしませんよ。 >そもそも夫余は呉王の弟「夫慨」の子孫。
「史記-呉太伯」闔閭(BC505)年、夫概を攻める。夫概は破れて楚に奔走する。
「風俗通義 廣韻〜餘」呉の公子の夫概は楚に奔走した。その子に国があり、夫餘を氏とした。
(今の百済王夫餘氏)[呉公子夫概奔楚、余子在呉者、因以為氏焉]
・「呉王 闔閭」が楚を攻略中に、留守居の弟王「夫概」は楚と通じてクーデターを起こし、呉を実効支配した。
・闔閭は直ちに取って返して呉を奪い返し、夫概は楚に奔走した。呉に残された夫概の子らは呉におられず、
半島北部、さらに西部に逃げて、高句麗や百済の始祖となった。
・呉は元をたどれば(倭国の大夫も名乗った)周の王子「太伯」の末裔で、江南の東夷系の水生種族。
その東夷が北進して、北方ツングース族の地で王家となって国を建てたのが高句麗。
・高句麗王家も百済王家も、もちろん朝鮮人じゃない。
・ちなみに「正統な呉王家」の末裔は、新撰氏姓録によれば、結局日本にやってきている。
そのため高句麗には
1)四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)信仰がある。(玄武すなわち変温動物の蛇や亀が北にある)
2)織媛(七夕)や北斗七星、北辰といった夷族系の星信仰がある
3)江南発祥とされる「支石墓」がある。
4)高床式建築がある。
5)建国の始祖朱蒙(あるいは東明王)は天帝と河神の子であり、追手に攻められたとき魚(トーテム)族に助けられた。
6)朱蒙は弓の善射という意味だが、弓は北方系の短弓ではなく夷族の長弓。
というように高句麗王家は、実は北方騎馬民族要素は少なく(江南の)水生夷族系の文化を多く持つ。 ウンコもぐもぐ韓国人に、秦氏の子孫なんかいねえじゃん
秦ルーツの氏族がいるかどうかもわからん
中国では、日本の秦氏にしか言及されてない
韓国人はウンコを食べる 李明博大統領の天皇侮蔑発言の後、事態の終息にと、天皇陛下(今の上皇)がお言葉を発せられた。
その内容には「ゆかりの様なものを感じる」とのものだった。なぜ、ハッキリと「ゆかりがある」とされなかったのか。
日本と当時(大和朝廷誕生の頃)の朝鮮との間には、皇室間の行き来もあったが、高句麗による支配〜元軍襲来と李氏朝鮮の勃興に合わせた異民族の流入で、すっかり元の朝鮮部族は消え去った、という事かと。
天皇家の資料を辿れば、どこの王族(姻戚関係など)から、いつ・何人・どういう官職のものが随伴したとか、記録が残ってるのでしょうから。 >>248
それを言い出すと、5ちゃんねるなどという便所の落書きに「おまえら、こうしろ!」などと書き込んでること自体が
自分の現実を見つめていない、滑稽なことになるからな。
5ちゃんねるの「自分の現実を見つめろ」なんてレスは、すべてブーメラン。 >>233
土佐物語によると長宗我部の先祖は天智天皇の時代に日本にやって来た百済の使者らしい。 結局、大陸の「出来る民族」は全部、日本に定着して、朝鮮半島は糞食い民族だけが残った、という事か。
300年かかっても水車も作れなかった、という。 大陸と交易する為に渡来系の末裔名乗るのもいるからなあ 渤海は唐に封じられておきながら日本に何回も使者を遣わすぐらい友好的だから東夷系かもしれない
少なくとも高麗や元のようなヒャッハー北方民族ではないな だいたい倭寇倭猿とバカにしてたのに、倭人が結構すごそうだと分かった来たらとたんに自分らは倭人の祖だと言い出す始末だし >>260
だいたい長江文明とか縄文文化そのものだし >>4
どの秦さんか忘れたけど「我々の一族は千年の年月をかけて日本人になった。朝鮮人と一緒にしないで頂きたい」と激怒してた映像みた記憶があるな 渤海は靺鞨(女真、満州)政権
亀卜は、遣唐使で輸入されたもの
日本伝統のは、シカの骨を使った太占 7000〜5000年前は今より気温が高い時期が続き海水面も上がったいわゆる縄文海進期
この頃になって急に半島や遼河近辺で貝塚や紋様のある土器や精巧な石器が見られるようになるので日本列島から北上しているのは明らかだな
黄河文明自体が縄文長江その他文明の混成という可能性もある 古代中国には、北方の畑作・牧畜地帯の龍を信仰する龍族と、
南方の稲作・漁撈地帯の太陽や鳥それに蛇を信仰する太陽族・鳥族・蛇族が
明白にすみわけて存在していた。
南方の長江流域の稲作・漁撈民は、太陽こそ稲の豊穣をもたらすものと考えた。
そして、鳥はその太陽の運行を助けるものであった。太陽は朝生まれ、夜に死ぬ。
その永劫の再生と循環を支えているのが鳥であった。 開封のユダヤ系民族とかチャン族とかもいるし、秦氏もその流れの中で日本まで来た人がだと思うけどなぁ 日本の神話に出てくる天皇のルーツをみていくと、アマテラスは田で稲を作る太陽神であった。
神武天皇が初代天皇になり奈良盆地を支配する時に、
その案内をしたのはヤタガラスという鳥だった。そしてトヨタマヒメはワニだった。
稲、太陽、鳥それに揚子江ワニ、これらはすべて長江文明を代表するものである。
高天原から日本列島へやってきたニニギノミコトは、鹿児島県の笠沙かささの地についた。
長江文明の新しい文化や技術を持った人々がやって来た。
長江下流域から、船で東シナ海に出ると、対馬暖流に乗って真っ先に行きつくところが、
鹿児島の南端である。そこから対馬暖流が行きつくところが、
出雲でありその先が富山の越の国なのだ。 秦氏って始皇帝の末裔と言ったり、徐福の子孫と言ったり、
始皇帝を騙したのが徐福だから、
仮に男同士で結婚したとしても子孫はいないだろ 秦氏は当時のハイテク集団
秦氏を名乗る家系、宮廷雅楽の東儀家。 >>1
秦氏は、平安遷都前嵐山一帯を支配していた帰化人
長岡京にも一枚かんでるだろうけど瀬戸内の海運も支配下だったろうね
今でも映画村は太秦と書くのよね
今の大阪は淀川以北が海岸線で今の大阪城の高台以外は全部海
奈良盆地に行くルートは今の大和川だし秦氏のとこに行くには淀川北上ルート
しかし、こんなに渡来人系で日本ができあがってきたことがバレてきて
大和魂とか言って日の丸振りかざして軍歌で騒いでる人々はどんな手を打ってくるのかな? 松尾氏は、秦氏の末裔。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、
それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、
山背国でももっとも創建年代の古い神社となっている。秦氏の末裔はこれらの社家となった。
現在活躍している東儀秀樹氏がいる。
薩摩の島津氏 対馬の宗氏、土佐の長曽我部氏も秦氏の子孫であるという。
当時焼畑農法が主流だった時代に、「畑・畠」農法を広めたのが秦氏と云われてる。
機(はた)織り、旗・幡、なども。 >>265
「弓月」は韓国語で「くだら」と発音する。 それ以前にも渡来人は多く来てたはずなのに、文字が伝わってきたのは仏教と同じ時期なんだよな
意味不明だわ 秦氏は景教徒(ネストリウス派キリスト教)
ネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の1つ。
コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれた。
431年のエフェソス公会議において異端認定され、排斥された。
これにより、ネストリウス派はペルシャ帝国へ移動し、
7世紀ごろには中央アジア・モンゴル・中国へと伝わった。
唐代の中国においては景教と呼ばれる。 >>253
> 元の朝鮮部族は消え去った、という事かと。
それ、な。
記紀に断片的に引用されている上代の朝鮮語など見ても現代朝鮮語とは似ても似付かないものが多い。
コニキシ、スグリ、等々現代朝鮮語にその痕跡すら留めないのが典型例。
漢風姓名の全面導入によるオリジナル朝鮮姓名(即ち民族アイデンティティ)の消滅とは別に、或いは並行して、
半島に住む民族(当然、言語も)そのものが入れ替わっていたのではないかという推測には道理がある。 >>268
磐余彦伝説には他にも江南文化の色の濃い要素が少なからず認められる。
一柱騰宮、打ち羽ぶき来る人、黥ける利目、等々。
詳しくは『日本神話の考古学』(森浩一)を参照されたい。 >>243
倭人ってのは後漢書鮮卑烏桓伝読む限り「東の果てに住んでる訳のわからない奴ら」的な認識じゃないかと >>155
普通に国内、日本人の姓
https://ja.wikipedia.org/wiki/間人大蓋
>間人 大蓋(はしひと の おおふた)は、飛鳥時代の豪族。姓は連。冠位は小錦中。
>「間人連氏」については、『新撰姓氏録』「左京皇別」の「仲哀天皇皇子誉屋別命之後也」、
>「左京神別」の「神魂命五世孫玉櫛比古命之後也」の両方があげられている。
>一族には、『日本書紀』巻第二十二の推古天皇18年(610年)10月8日条に名前のある間人連塩蓋(はしひと の むらじ しおふた)、
>巻第二十六の斉明天皇3年(657年)是歳条に名前のあがっている間人連御厩(はしひと の むらじ みうまや)がいる。 今の朝鮮人が
古代の朝鮮人と同じだというなら
現代のイタリア人と
古代ローマ人も同じだと
言わないとな >>272
いやそういう帰化人も含めての日本だろ
在日とは時代が違う >>272
多民族単文化国家が国力が高くあり続け国家として理想形と言われているのを知らないのか
秦氏含む多数の民族が帰化し幾多の文化を併呑している日本文化は正に理想形
単民族では行き詰まるし多文化では分断が起きるから国家は発展しない >>285
帰化人も含めての日本なら、時代は関係ないだろ うちの地元も元々湖だったのを秦氏が切り開いて盆地にしたって伝説あるな
古代にそんな土木技術はねーだろ、て思うけど >>282
中華思想。
中華より外れた土地に住む者は須く蛮人扱いする。
これは当時、現朝鮮人であるエベンキが支配する土地ではなく、漢人が支配していた時の朝鮮半島も同様に扱われた。
そのため、宛がわれる字はあえて汚い意味の字が使われる。
中華というのは世界の中央(中華)から離れれば離れるほど蛮族の土地と看做す思想ね。 相生の那波の浦に着いたって話じゃなかったっけ?まあ坂越でも大した違いはなさそうだけど >>294
wikiでも引用元によっては充分信頼出来るぞ >>294
間人=ペルシャ人説の引用元を貼ってくれ 間人(はしひと) 日本の訓読み
破斯、波斯(はし) パーシ(ペルシャ)の漢音による音写 >>298
間(はし)
と
破斯、波斯(はし)
上代の音韻と仮名遣いを踏まえた上で共通なんだろうか。
具体的には両者の「し」が甲類乙類で食い違ってたりしないよな?という確認。
ここが違ってると現代日本語で同音でも元々は全く別物ってことになる。
上代の文献はその辺はかなり厳密だから。 1000年前からならウチもたぶん大和朝廷あたりの超々遠縁の子孫だな >>288
干拓とは逆だけど、香川に満濃池って日本最大クラスの溜め池あるけど
あれ、弘法大師空海が指導して作ったって話が有名だけど、実際は、その前に行基が作ってそれを補修したわけで。
さらに行基の前にも、満濃池の原型になった溜め池があったようだし。
行基より前なら、「古代」って呼べるだろうし
あれだけの溜め池が作れるのなら、小さい盆地なら、干拓できるんじゃね? やはり、遠方からの渡来人といわれた方がロマンがあっていいな
隣国とのなんちゃらなんて、本来領土争いのごたごたの方が多いわけだし >>186
なぜか千葉県にユダヤ人の痕跡がある。
「芝山遺跡 埴輪 ユダヤ」で画像検索 秦氏が作ったシノビが個人的には気になる所かな。
必要ならば皇族さえターゲットにするという秦氏以上謎めいた闇組織。
古代中東のアサシンとなんらかの繋がりがあるかもしれないからワクテカする。 波多だよ。なんか文句ある?
こっちの波多のほうが古いとかで。 シノビは、大伴細人が作ったという伝承
樽悶 ★
↑
キチガイは、ウソばっか >>1
こういう由緒正しい渡来系は良いんだよ
問題は戦中戦後からのアレらであってw >>63
広隆寺の横に大避神社があるよ
ユダヤ系の神社
ここの祭りが京都三大奇祭の牛祭りだけど、中近東の雰囲気がある
近くに木嶋神社という三本脚の鳥居で有名な神社もある (エヘイェ・アシェル・エヘイェ) https://www.misono.jp/news/K17-2.jpg(ヘブライ文字)
"I am that I am"
『我は在りて有る者なり』 『旧約聖書』の出エジプト記3章14節
伊勢神宮内宮の「八咫の大鏡」背面に刻まれた文字。 ウリは、「八咫の大鏡」の背面を見たニダ
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樽悶 ★
↑
キチガイ ID:cAnvQ4Kh0
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樽悶 ★
↑
キチガイ 実は日本の神道って、古代からある自然崇拝アニミズムとユダヤ教、神秘主義カバラが
合わさった物で経典がトーラ(カバラの経典)の巻(虎の巻)修験道者の経典、
山伏がかぶる帽子である額に四角い小さな箱が角兜巾(かくときん)」
ユダヤ教徒のは 「ヒラクティリー」と言い、カバラは日本では 表神道の呪術「陰陽道」
と裏神道の呪術「迦波羅」、漢波羅(カンバラ)と云う。 ID:cAnvQ4Kh0
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樽悶 ★
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キチガイ
/// 日本にはね、
裏神道の「迦波羅カバラ」と云われる謎の人たちがいて
幾ら中華、朝鮮、勢力がやまとに侵入しても
常に監視され排除される
忍者の様な集団なのよ。 ID:cAnvQ4Kh0
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樽悶 ★
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キチガイ ユダヤ人だって家くらい建てただろうけど、ソロモン神殿など建築技術を
持ってたのはフェニキア人なんだからフェニキア人じゃないの?
フリメの起源はソロモン神殿作った人達って言う人もいるしね。 結局ユダヤ人って自分たちでは表に出ず、
裏方、官僚、機構の構築に天才的能力がありエジプト王朝の官僚だったんだよ
そこで、ある部族がモーセに率いられて紀元前13世紀にパレスチナに脱出したのが
いわゆるユダヤ人で元はエジプト官僚部族。
最初期は軍事力で国が作れるが安定期には優秀な官僚が必要となる、
ヨーロッパの王朝には必ずユダヤ官僚が裏方にいて国家運営を仕切ってる、
それで日本の皇室も官僚機構として秦氏、賀茂氏、などが国家運営を担ってた
藤原氏が加わるのは後の時代。 ID:cAnvQ4Kh0
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ID:r6Ln4hFi0
樽悶 ★
↑
キチガイ 漢波羅秘密組織が通称「八咫烏」と云われる集団で
特ア工作員などを監視し大和の平安を守っております
まあ早い話が、歴史の掃除屋さんとも云われてます
蘇我馬子や織田信長なども掃除屋さんの活躍だとのウワサも。 しかし古代史の話題は本当にリトマス試験紙だな。
基礎教養や知性の有無がくっきりと色分けされる。 相当、西の方から来たんだよね。
半島の更に更に西ね。
技術が半島を軽く越えてる。 古代日本に来た秦氏はユダヤ系だろうだけども
白人系のアシュケナージユダヤとは違うだろうな
アシュケナージユダヤは7世紀あたり以降に出てきた連中じゃなかったか
日本に来たのはいわゆる失われた10支族の系統、ヘブライ人と言ったほうが個人的にはしっくりくる >>319
朝鮮人も失われた10支族とされてるんだな >>340 これら古新羅古墳出土は秦氏が辰韓王時代の遺物だと思う。
古新羅古墳出土のローマン・グラスについて. 著者:, 由水 常雄
https://gan205.at.webry.info/201401/article_15.html
新羅の古墳から出土する金銀製品:純金の指輪、イヤリング、ネックレス、
ブレスレッドなど細線粒金細工やローマングラス、
それはローマやギリシャ、ペルシャに通じる西洋文明と共通のデザイン >>309
そういう格好はヨーロッパのユダヤ人が18〜19世紀にするようになったものらしいね >>204
箸墓の巫女は、古来の神殿巫女みたいな術者だから封じられたんだよな
大物主の伝承みたら何をしたかわかるし >>341
失われた10支族が合流していたのは間違いない
混血してるけど、日本に何かあった時はイスラエルに迎え入れて貰えるかもな >>262
1000年ものあいだ朝鮮半島ではまったく変化が無かったとでも?
エベンキ族「我々の一族は800年の年月をかけて朝鮮人になった。高麗人と一緒にしないで頂きたい」 中国少数民族のミャオ族もユダヤとして認められた
南部山岳地帯や日本列島までユダヤは逃げてきたんだ 罧原堤を作ったのも秦一族だよな
高度な科学技術と大規模な土木工事をする労働力をもってたんだ 牛祭りを見に来るといい
秦一族がどこから来たかなんとなくわかる >>19
第一次渡来人 春秋戦国時代
第二次渡来人 秦漢時代
第三次渡来人 三国時代
第四次渡来人 隋唐時代
このくらいわかれてそう >>354
シベリアから蝦夷経由で来たんじゃね
眉毛が太く毛深い奴はだいたいこれ いまモンゴルがあるモンゴル平原は元々はトルコ(チュルク)系民族の土地で
丁零、丁令、匈奴、突厥、鉄勒、ウイグル(回紇)、カルルク(葛邏禄)、
バシュミル(拔悉蜜)、沙陀族などと云われた民族が放牧してたが今は中央アジア
やトルコ共和国へ去ったんだよな。 >>363
秦氏が建てた神社の内、重要なモノは
八幡神社、稲荷神社
八幡神社はその名の通り、八幡(いやはだ)神、つまりYHWHを祀っている
稲荷神社は、宇迦之御魂神(うかのみたま)、つまり豊受大神を祀っている
稲荷(いなり)の名前で豊受大神を祀っているのはワケがある
秦氏はネストリウス派キリスト教徒(YHWH信仰が強い原始キリスト教)
いなり=INRI INRI とは
イエズス・ナザレヌス・レックス・イユーダオラムの略
ナザレのイエス ユダヤの王 という意味
キリストが十字架に掛けられた時の罪状板の名がソレ INRI イナリと読む
稲荷神社は イエスの名で八幡神(豊受大神)=YHWHを祀っている
キツネはただの神への使い魔に過ぎない >>363
八幡(はちまん)という言葉は、平安時代などには、
いやはだ と読んでいた それが本来の古来の正しい読み
イエスの時代、ユダヤの言葉はアラム語方言が主流だった
そのアラム語方言では、ユダヤの事を イエフダー と呼ぶ
イエフダーが年月を経て、人から人へ、大陸を渡ってくる内に時間とともに
日本では イヤハダ となった
秦氏(はたし)という読み方も 機織の民 という意味と イヤハダの民 という意味、
両方の意味から来ている >>363
と言うか、神道の神社の内、八割以上を秦氏が創建した
そして、八幡神社総本山 宇佐八幡宮にあった秦氏の宝物が
真・神輿(日本に存在する神輿の第一号であり、唯一、本物の神輿)
日本中の神社に存在する全ての神輿が全て、偽物
真・神輿の模造品
ソックリにするのは恐れ多いので、敢えて、形は少し変えてある
今は、宇佐から移転されて伊勢神宮に奉納されている >>363
そもそも大抵の日本人は
八百万(ヤオヨロズ)の真の意味を知らない
日本神道 八百万は多神教ではない
神道中枢・伊勢神宮が隠してきた八百万(ヤオヨロズ)の真の意味は
八百万(ヤオヨロズ)とは八幡神の数百の移し身(分身)に過ぎないという事
日本神道はヤマト朝廷開闢時以来、今もずっと、原初神 天之御中主神 を崇拝する一神教
天之御中主神=八幡神=豊受大神
日本人が日本中で多種多様な神社の神様に対して
祭りの時に共通して エッサエッサ(ヘブライ語で担ぐ、運ぶ)と叫んで神輿を担ぐのは
天之御中主神=八幡神=豊受大神=YHWHに対してやっている行事だからだ
ちなみに、真・神輿(契約の箱船アーク)は、皇族、神道最高幹部、伊勢宮司家系などにしか
観られないし、触らせてもらえない 確かに原始キリスト教時代にはイエスの磔刑の十字架の上に掲げられた
罪状書きの頭字語に、「インリ INRI」。 「Iesus Nazarenus, Rex Iudaeorum
ユダヤの王、ナザレのイエス」. の頭文字が有ったらしい。
東方キリスト教では、イエス・キリストのことを、「INRI」と表現し、
これを読むと「インリ」ンをナザレのナと発音し「イナリ」となり「稲荷」は当て字ととれる、
秦氏はイエス・キリスト神社として稲荷神社を建てたのかもしれない。
中国には「大秦景教流行中国碑」があって秦氏は[景教]原始キリスト教会を
稲荷神社として建立したのだろう。 >>363
実際につい最近(数ヶ月前だが)
伊勢の宮司がわざわざイスラエル(エルサレム)に行って
儀式を行ってきた
うん、まぁ、そういう事なんだ
この掲示板はユダヤ人嫌いな人が多いみたいだけど、
神道とはそういうモノである
最初、日本には、自然全てを崇拝する自然信仰があった
その自然信仰の聖地の上に、上書きする形で、日本中の神社は建てられた
お前達が崇拝する自然神とは、YHWHに他ならないと
更に後から秦氏の集団が来た(秦氏の集団は二度来ている)
一度目は完全なユダヤ教徒、二度目はネストリウス派キリスト教徒
伊勢神宮で祀られている神 豊受大神 すなわち YHWH
天照大御神 すなわち イエス・キリスト
天照は一般の日本人が勝手に思い込んでいるようなオンナの神様ではない
神道の最高位の宮司連中は全員、天照はオトコの神様だと主張する
それは神道の高位者にしか知らされていなかった
天照は鏡像反転させて、わざとにオンナという事にして国民に教え込もうと
そういうふうに決まった 遥か昔に… そう、古事記などを編纂する際に… キツネが田んぼのネズミを捕って稲の実りを助け稲荷に成ったとかの伝説は
近所の僧侶たちがもっともらしい説話を広めたのかもな。 >>374
別にハゲていない
残念ながら私はフサフサであり、髪の量が多いので美容院でよく梳いてもらっている
>>363
もう一つ、良い事を教えてやろう
日本の三種の神器(草薙の剣、八咫鏡、八尺瓊勾玉)を入れる箱の名を
御船代(みふなしろ、みふねしろ)と言う
字の通り、大事な御船の代わり である
真の御船とは、真・神輿(契約の箱船アーク)の事である
元伊勢籠神社には、代々、黄金の真名(マナ)の壷という国宝の壷が代々伝わってきた
そう、ユダヤ三種の神器(アロンの杖、モーゼの十戒石版、黄金のマナの壷)の一つ、それそのものだ
元伊勢籠神社には、黄金の真名(マナ)の壷を祀る為、専用の内宮まである
天真名井神社だ
元々、豊受大神は籠神社で祀られていた神様である
豊受大神からの豊穣の恵みを司る為の聖なる壷 それが黄金の真名の壷
今は、伊勢外宮に移転奉納されている
籠神社には、代々、伝わる多次元同時存在の法則(全ての神は天御中主神の移し身)と
豊受大神は即ち、天照大御神でもある、と示す石碑がある
二つの神は同じ存在であるという意味
キリストはYHWHが受肉してこの世に姿を現したモノであるという意味 >>37
そう
当時、清和源氏の末裔と称してる武士がたくさんいた中で異端中の異端
秦の始皇帝の末裔だと公称してた
土佐神社の屋根がトンボ型になっていて、それが秦氏の名残だとか >>363
秦氏の第一団が、物部氏(籠神社の宮司一族海部氏は物部氏の頂点の氏族)
海部(あまべ)氏は天孫族であり、天皇の親戚
その名が示す通り、古代に海を渡ってやってきた
どうやらヤマト朝廷が開闢される前にもう来ていたそうだ
この第一団 物部氏集団が完全な一神教(ユダヤ教)だった
物部氏で有名な物部守屋(もののべもりや)は仏教の波及から神道を護るのに必死だった
この日本には神道だけで良いんだ!!仏教は要らない!!と
物部守屋のもりやという名前は、ソロモン神殿のあるモリヤの丘からそのまま取った物
第二団の秦氏集団が世間で一般的に言われている秦氏
ネストリウス派キリスト教徒の大集団
神道で真に大切なのは、表三種の神器ではなく、裏三種の神器
表三種の神器は、民の目を眩ませる為の、囮である
真に大事な方を護る為の囮に過ぎない
伊勢神宮が三重県に在るのは
三重とは、三種の神器を重ねる為の場所だから、三重という地名にしてある
日本には全て在る
真の三種の神器とソレを入れる神との契約の箱
全て、秦氏が持ってきた >中国大陸に起源を持ち
→ ん〜、中国大陸がどこまでを指すのか知らんがもっと西の東アジア辺りかもしれないね
>朝鮮半島を経て
→ …なんか証拠でもあるの?
日本人は古代から呉の国(位置としての例)辺りとも直接交流があったと思うんだが >>363
この海部氏こそ、その原初から ヤマト という名字を名乗っていた
日本史上、最も古い ヤマト の一族
と言うか、ヤマト一族の原初が この海部(あまべ)氏
この海部氏の家系図は国宝に指定されており、
実際に、海部氏は天皇の親戚であり、神道の最高宮司の家系である
ヤ・マト で 神の民 という意味 ヘブライ語でな
ヤ・マトとは元々海部氏が名乗っていた称号
本家本元中枢のヤマト民族が、この海部氏 >>386
残念ながら体重は身長マイナス120くらいで、かなり痩せ型なんだ…
デブだなんてとんでもない
逢う人全員から痩せているなと言われてしまう >>73
一重の日本人だが、朝鮮を通り越えて
もっと内陸高山系って言われてきたが >>355
梅津のあたりは違う意味で渡来系でもあるんでないの 古代エジプト神話の、翼をもつ女神「マト」。
「マト」は真理、秩序、の意味があり、神の言葉を伝える天使。
ユダヤ教では「ヤー」は神の別称。 ヤーマト=ヤマトとは神の言葉を伝える卑弥呼か? そう言えば、神社、社もヤーの城 ヤーシロ=ヤシロに思えてくる。 少しは真っ当な古代史論議ができるスレッドかと思いきや、
日ユ同祖論とか闇組織とか、オカルティストと陰謀論者の巣窟かよ。
なんでそうやって自分の知性や品性をゴミみたいに捨てられるかな…。 >>274
古代からの豪族だし秦氏なら秦氏で全然いいのだが、
その出自を源氏ですとか隠蔽しようとするからキライ
堂々とすればいいのに。 中国台湾人にも秦姓の人が居るんだな
秦日新(チン・リーシン)前駐フィジー代表 >>397 子孫が繁栄して全員藤原さんでは何処の藤原さんか分らんよ
藤原氏、近藤、斉藤、安藤、佐藤、遠藤、兵藤、伊藤、 古代の渡来人の系統って、秦河勝みたいな顔してるよな。
設楽とかもその系統。目に特徴がある。垂れてないし、そんなに吊り上がってもいない。
端正な顔立ち。 >>99
安倍晴明とは、本当はどうだったんでしょうな 京都などで良くいう面長の瓜実顔(うりざね顔)、(公家顔)、とか言うね。 日本列島から、西の果てについて、そしてまた、日本列島に戻ってきたのかもしれない。 >>404
母親はキツネでしょ
仲良かったんじゃないの >>394
ニュー速板やからな、ここ。
まあ、かつて「学問文系の良心・最後の砦」と言われた世界史板ですら、スマホ普及後はクソ板常態化に。 >>400
表向きの苗字はそれでいいんだけど
元は源氏です!とか言っちゃうのがね。
〇〇という苗字ですが、ご先祖様は古代の秦氏です!
でいいのにと思うんだ。日本で最も古い一族の一つなのだから >>404
道満が始皇帝に似てたのが許せなかったって言ってた >>411
源平藤橘のいずれかを名乗りたがるのは秦氏由来の氏族に限らないのでは?
これは古代氏族がどうとか云うよりも武士政権時代の現世利益の為にしたことで、
それが家伝になって現代に受け継がれているだけかと。 ふしぎ発見!で始皇帝陵墓から出土した成人男女の骨は
皇族の可能性が高いのだが
3Dプリンターで復元した顔は
現在の中国人とは全然違う顔
明らかに中東人だったな 現代中国の秦氏は、必ずしも秦由来とは限らない
1.秦の?姓由来。秦滅亡後に改姓。陜西秦氏とか
2.魯の姫姓由来。
3.帰化モンゴル人の穆奇徳氏由来
4.西方由来。大秦(ローマ)人とか
5.満州族の改姓
6.帰化ダウール族
7.姚姓由来 渡来人が連れてきた皮革加工の大陸系民族が
後のエタな
兵庫にエタが多いのはその為 >>397
ワイは秦氏やぞ秦氏は秦氏以外の何者でも無いわ
農民でありながら名字帯刀を代々許されていた御先祖様に誇りを持ってるぞ
秦氏は永遠に秦氏やで
因みに、うちの家系は下戸で色白で色素薄め
赤くなって日焼け出来ない >>424
韓国で南の発掘はタブーみたいやで
見たくない現実を知ってしまうから 神奈川県に秦野と云う地名があるのですが
関係はあるのですかね。 九州だと 同じ字で ハタじゃなくてシンも居るけど? >>427
関係あるとも言われてるが、実際は不明
ここを根拠にした相模波多野氏は、佐伯氏が出自 >>7
京都に蚕の社って妙な名前の駅があるくらいでな。
日本書紀によれば、秦氏のつくる織物が肌に心地良いいから、
「はだ」という氏姓を賜ったのだそうだ。 >>430
その後、何故か藤原氏を称するようになるしな。 >>421
直接的には、姫路藩が皮革産業で藩財政を立て直したからだとは思うが。 大和朝廷草創期の日本人から見れば、大陸渡来人は一纏めで「ハタ」朝鮮族は「カラ」東北は「エゾ」九州から関東までが「ワ」
そんなもんだろ お互い交換や交易で食っていければ満足だった時代だもの >>414
まーね
徳川もなんやらわからんし
織田も忌部ちゃうか?言われてるし
織田と敵対した家臣で令の旗指物してたのも、ほんまは惟宗ちゃうか?って感じやし
支配のヒエラルキーの中で、いろいろ仮冒しとんのよ 神奈川県は秦氏関連が多い気がする。
大磯は渡来人関連の神社 平塚 二ノ宮
にも多い 相模湾沿いだけど
兵庫との繋がりは分からないけど。 >>442
大磯は、高句麗人が移住させられてる
高麗(こま)山、高来(たかく)神社、唐ヶ原の由来
秦氏は関係ない
後は知らん >>442
元々が土地開発・土地改良の専門家集団だから、朝廷の力の及ぶところ全国何処に居ても不思議じゃないけど、神奈川とまで縁があるとは知らなかった。 現代中国では、徐福は東はアメリカ大陸、西はアフリカ大陸まで出かけて貿易をした
事になっている。徐福の頃には羅針盤も出来ていて砂漠の民の開発した星座と併用
することで、かなりの長期間の航海が出来たようだ。まあ、中国の経済発展が徐福さん
の評価拡大に繋がっているんでしょう。まあ、田舎者だった中国人は、喜んでくれ
たしね。w 杉並の久我山辺りを散歩すると
ちょっと大きめなお屋敷は大体表札が秦さんだった
この秦さんと関係ありそう 秦氏は元々京都盆地の西半分に定住してたけど
最終的に東国へ向かわされてる
平安遷都に際して多大な貢献もあったはずだけど
余りに影響力が強すぎたからだろうとかなんとか >>449 実は彼らが高句麗の実態なんだよ、魏書などでも背が高いと書かれてる。 昔々の日本人は全員朝鮮半島から来たんだよ。縄文時代は暖かかったが弥生時代に
なって寒くなったから寒いのが嫌いな根性無しの民族が日本に逃げて来たんだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています