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賞賛だけでいいのか?リベラルが絶賛する映画『新聞記者』に感じた現場からの違和感

東京新聞の望月衣塑子さんが原案を担当した映画『新聞記者』が、好評らしく、リベラルな人々から賞賛されている。
2019年09月21日 08時08分 JST

違和感の正体

東京新聞の望月衣塑子さんが原案を担当した映画『新聞記者』が、好評らしく、リベラルな人々から賞賛されている。

公開直後から「ところで、あれ観た?」というのが、メディア業界の関係者と会う時、時候の挨拶代わりになっていた。かくいう私も、7月7日に渋谷「ユーロスペース」特別イベントで、件の望月記者と対談をした。

あらかじめ、私の感想を述べておくとーもちろん、望月さんにも伝えたがー、そこかしこに違和感が残った映画だった。

主人公の女性記者の取材プロセスが描かれておらず、超簡単にスクープを取れるような描写にも違和感があったし、私も社会部にいたはずなのに、社会部記者である彼女の取材手法に何らリアリティを感じなかったし、ラストシーンの決断にも「おいおい、そりゃあ信義則違反だろう」とツッコミを入れざるを得なかった。

伊藤詩織さんや前川喜平さんの身に現実に起きた「事件」を描き、タブーに挑んでいる的な賞賛も「日々の新聞に書いてあることばかりで、これがタブーなら新聞はタブーを破ってばかりだ」と思った。

この辺は個人の好みで、現場を回っていた私がついていけないと思っても、リアリティがないと思っても、絶賛する人はいるだろうと思う。

ついていけない「調査報道至上主義」
イベントでも語ったが、より根本的な違和感は映画で描かれている記者が、あまりに新聞社の理想像に忠実な「古典的な調査報道至上主義」とでも呼べる、非常に狭い「記者」イメージで描かれていたことにある。

新聞社の理想像だけでなく、ある世代や考え方の人にとっての「新聞記者」の理想像と言ってもいいだろう。

権力―今なら安倍政権―を監視し、徹底的に対峙し、発表されない権力の闇を、情報を持っているインサイダーに食い込んで暴いていくーー。プライベートの時間を犠牲にしても、スクープに殉じていく新聞記者像はある意味でジャーナリズムの美学そのものである。

政権批判さえしていれば記者の役割を果たしていて、満足だという人たちは拍手喝采だとは思う。

■ニュースの3分類

私はニュースを3種類に分割して考えている。それは速報、分析、物語だ。

■速報

速報は文字通り、素早く仕上げて出すニュースだ。新聞の事件・事故記事が代表的なスタイルで、各社とも誰が書いても同じように伝えられるように、基本型を徹底的に教え込まれる。ストレートニュースと呼ぶこともある。野球の投手でも基本はストレートなので、ニュースの基本中の基本だ。
(中略)

■分析

分析は、起きた出来事を意味付けるニュースのスタイル。いきなり発生したことだけ報じられても、その意味がわからないことは世の中にはたくさんある。

その筋の専門家に取材を重ねたり、内部に特別な情報源を作ったりして、一体何が問題なのか、背景に何があるのか、これまでの歴史ではどうだったのかを解説していくというニュースだ。
(中略)

■物語

物語は、起きたことを深掘りし、裏に隠されている「ストーリー」を発掘し、一つの「物語」として描き出すスタイルのニュースだ。事象、人、会社……。

どんな些細なことでも、深掘りすれば表には出てこない「物語」のタネを多くの人は持っている。

人は物語ることから逃れることはできない。単なる事実関係の説明からは読み取れないことを、物語化することで理解しようとする。





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https://www.huffingtonpost.jp/entry/satoru-ishido_jp_5d842167e4b0957256b4110a
朝日新聞に掲載された『新聞記者』の新聞広告。異例のヒットを記録しているという

https://i.imgur.com/NEuFGBX.jpg