#山本一郎 「武蔵小杉50年安心タワーマンションが台風被災でうんこ禁止令」パークシティ武蔵小杉「事実ではありません」★2
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パークシティ武蔵小杉 ミッドスカイタワー
@pcmmst
19分前
https://news.yahoo.co.jp/byline/yamamotoichiro/20191013-00146686/
これは事実ではありません。
ミッドスカイタワーでは、台風19号通過後も各部屋及び共用分とも平常に使用できます。
停電もなく、トイレを含め設備施設は正常に稼働しております。
https://stationforesttower.com/ これから「ああ、あのウンコ禁止令のタワマンね」って言われんだろうな可哀相 でもなー
辺りがウンコまみれだしな。
これからは、武蔵うん小杉って改名しよう。 >>2
そんな長ったらしい名前じゃなく「ウンコタワー」でいい。 ウンコと聞いたらちょっと俺らが黙ってないですよ!? (´・ω・`) もう切込隊長って言ってもわからん人ばっかなんだろうな。 隣がうんこ出禁なだけと思っているんだろうが、うん水溢れたからもう武蔵うんこ杉 >>14
顔写真みてようやく気付いた
この人ネットニュース書いてるのか あれだけ浸水してりゃ汚水も下水もたっぷり。
下手に掃除なんかやると生傷で破傷風になるぞ。
ホコリ吸い込んだら具合悪くなるし。
週明けの通勤に横須賀線使わない方がいいな 乾いた後、粉塵が舞い上がるな
ちゃんと消毒しておくように ミッドスカイタワーだろうがステーションフォレストタワーだろうが、部外者にとっては同じ。ウンコ水に浸った低地マンションということで。
住民が駆り出されてウンチ泥の掃き出し作業してるタワマンもあるらしいね。泣ける。 >>28
土とか粘土じゃなくヘドロやウンコなのか? 今北人用
武蔵小杉の【50年安心】タワマンがトイレ禁止令→デマ
武蔵小杉のタワマンがトイレ禁止令→一部で実際に起きてる
50年安心を宣伝文句にしてるタワマンは武蔵小杉に一棟
そのタワマンではトイレは使える状態 ムサコの古地図を読み解けば住んではいけない地域ということが分かるのにね。 下水処理場の被災により14万軒がウンコ禁止風呂禁止洗濯禁止洗い物禁止 >>28
なんか昭和の日常みたいだな、特に一枚目。 でもなんで「嘘です」と言わずに「事実ではありません」という
言い方をするのか? 50年安心ではない別のタワマンだったとしたらバカッターや山本一郎は許されないだろ >>28
てかさあ、乾燥してからの悲惨じゃなくて
飛散がなあ。
雨降って流れるといいんだけど。 止まってしまったエレベーターの中で、もしも、ウンコさんがしたくなったら、とりあえず、階ボタンを全連打するよねぇ? 311の時の浦安のマンション同士の醜い争い思い出すな。
下水道、共用施設の破損状況から始まって、簡易トイレの設置とか管理会社の対応、最後は、修繕にかかった金額も言い争いしてたね。
基本的にそのマンションの住民は都合の悪いことは書かない、平気で嘘つく。他のマンションの悪口を誇張してネットに書き込む(こちらが真実)。 明治時代の地図見てみろ
ムサコは旧河道の中だぞ
川の中にマンション建てて住んでるんだよ 部屋にポータブルトイレか
結構部屋全体が臭うから
水洗の凄さを思い知らされる
ところでタワーマンションって窓開けれたけ?
バルコニーがあるのなら
そこに置けばいいけどさw >>28
これ車通るたびに粉塵になって舞い上がるんだよなぁ >>1
嘘吐きハクジンは一匹も要らん!!
安全区国際委員長、ラーベ(正統史観
『南京安全区国際委員会ジョン・ラーベ代表』
安全区国際委員長だったラーベは虐殺を1件も目撃しませんでした。
ラーべの日記や手紙の中では
ラーべ本人が殺人現場を見た記述は一つもありません。
ラーベは、1937年12月17日に、日本軍による破壊や犯罪が極めて少数で
秩序が回復した旨の『第6号文書』を日本大使館宛に送っていました。
ところが、東京裁判で検察側書証として提出された
「1938年1月14日付のドイツ上海総領事宛のジョン・ラーベの手紙」
(ジーメンス社社長マイアー宛の手紙)には、
「約2万の婦女子を冒し、数千の無辜の市民を殺害」と書いていました。
さらに、『ヒトラーへの上申書』には、
「中国側の申し立てによりますと、10万の民間人が殺されたとのことですが、
これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。
我々外国人はおよそ五万から六万と見ています」と報告しました。
ラーベの報告は、数千だったり5〜6万だったり滅茶苦茶です。
もしも、本当に日本軍が市民大虐殺をしていたのなら、
日本軍憲兵隊に通報したり日本大使館に抗議するのが
安全区国際委員長の責務であるのに、それをせず、
南京の外(上海やドイツなど)に向けてのみ、
日本軍の犯罪を発信していたのは、
彼が嘘の宣伝工作をしていたとしか考えられません。 まあ、タワマンで勝ち組気分もいいんだけど
薄くう◯こが一面に残った状態で
改札まで行列作るとかシュールだよな。
セレブも大変だなw このラーベの嘘宣伝は、安全区国際委員会全体が
嘘の宣伝工作委員会と化していたのが大きな理由ですが、ラーベ独自の事情もありました。
ラーベは、安全区の自宅に、現金を一杯に詰めたトランクを
幾つも持っていた支那軍将校の龍大佐と周大佐を潜伏させていました。
これは、中立と、安全区の保護を責務とする安全区国際委員長としては、
言語道断であり、この行為自体が支那軍のための工作活動です。
また、当時ジョン・ラーべは、支那の蒋介石政権に重電機・通信機などを
売って莫大な利益を得ていた「軍需産業ジーメンス」の南京支社長でした。
支那事変が始まってから
日本は再三ドイツに支那への軍需品輸出をやめるように要請していました。
ヒトラーはソ連を牽制するためにも、
日本と手を組む事を選び、支那への軍需品輸出を控えました。
ラーベにしてみれば、
自分が30年間も支那で培ってきた商売が水の泡になるので、
「日本はこんなひどい事をしている。こんな国との同盟は止めてくれ!」
と言いたかったのでしょう。
しかし、ラーベの荒唐無稽な「数千人」とか「5〜6万人」とかの虐殺の話は
あまりにも不自然過ぎて、同胞のドイツ人にも信じて貰えませんでした。
1938年1月9日に南京に戻ったドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は、
2月10日、自分の目で実情を確かめた上で漢口のドイツ大使館に、
ラーベが語る日本軍の暴行事件について、
「暴行事件と言っても全て支那人から一方的に聞いているだけ」
と書き送っています
結局ラーべの策略は実らず、ドイツに呼び戻され、
二度と支那の土を踏むことはありませんでした >>40
そして両マンションは隣同士
ただ組合同士は仲がよくない >>1
禁止じゃねぇな仮設つかえばいいし・・・誰だよ山本一郎って(´・ω・`) 『第6号文書』安全区国際委員会
「1938年1月14日付のドイツ上海総領事宛のジョン・ラーベの手紙」
(ジーメンス社社長マイアー宛の手紙)
『ヒトラーへの上申書』『ラーベの日記』
1937年、支那事変の発端である第二次上海事変の前、
蒋介石は1932年の第一次上海事変の上海休戦協定を無視し、
呉淞と真茹を結ぶ線の北側の非武装地帯に
クリークや2万個以上のトーチカを作るなどして軍事要塞線(ゼークト・ライン)を築いていた。
【支那にいたドイツ軍事顧問団の最高責任者アレクザンダー・フォン・ファルケンハウゼン】が
保存していた内部文書。(ドイツ、フライブルク連邦軍事資料館所蔵)
ファルケンハウゼンは【ドイツが国民党軍に武器を供給する際、その取引可否を決裁する権限を持っていた】
この人物と家族ぐるみで親しかったのが
南京安全区国際委員長でナチ党員のジョン・ラーベで、
【ラーベはシーメンス社の武器部門責任者】だった >>14
ξ´・ω・`ξ 「切込隊長?とりあえず菓子折を持って謝りに行くやら嘯いてた、
本当に脳に異常があるマジキチだな」と、一応はレスしとくオニイサマであったっ。 >>1
英マンチェスター・ガーディアン紙・中国特派員、H・ティンパーリー
『曾虚白自伝』 曾虚白・元国際宣伝処処長
我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔を出すべきではなく、
我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を探して
我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。
ティンバーリーは理想的人選であった。
かくして我々は手始めに、金を使ってティンバーリー本人と
ティンバーリー経由でスマイスに依頼して、
日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。
ティンパレーの『What war means: The Japanese terror in China』
の内容は、エドガー・スノー「アジアの戦争」にも派生、
様々な著作・メディアに引用され、東京裁判でも大いに重宝され
「日本軍による南京大虐殺」なるものの本家本元・元祖家元となっている。
国民党国際宣伝処の処長・曾虚白は自伝のなかで次のように書いている。
「ティンパレーは都合のよいことに、
我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の
『抗戦委員会』に参加していた3人の重要人物のうちの1人であった・・・
当時、極めてタイムリーに出版された日本断罪の書、
『戦争とは何か』と『南京地区における戦争被害』(「スマイス報告」)が、
実は、中立的立場の第三者の人物によって書かれたものではなく、
国民党の戦時宣伝戦略のために資金援助を受けて執筆されたものであることが判明したのである。 結局下水があふれるなら、どこのタワマンでもうんこできなく内科? ティンパレーは序文の中で、見聞したという日本軍の暴行記事を
ガーディアン紙に打電しようとしたが上海の日本側電報検閲員に発電を差し止められたので、
本を書くことで世界に知らせようとした、と記している。
しかし、根拠のない30万という数の記事など、非常識として差し止めるのは当然であり、
むしろ彼は承知のうえで「差し止め」させる状況をわざと作り、
「差し止め」られるとその事実を誇大に宣伝することで
自分の捏造記述に信憑性を持たせたのだった。
そして、理不尽な日本の弾圧をくぐりぬけ、
良心的ジャーナリストとして真相を発表・告発したのだと、自分と自著を持ち上げた。
昭和13年1月17日、ティンパレーのこの
「南京その他で30万を下らない民間中国人が殺戮された」
という記事を広田弘毅外相名でワシントンの日本大使館に送信、それがアメリカ側に傍受され解読されていた。
これをもって、当時の日本の軍中央や政府の指導者が
南京大虐殺を知っていた証拠だと嬉々として述べる人がいる。
しかしこれは「こんな与太記事を流す記者がいる」と伝達しただけのもので、
南京の暴虐を事実としたものではない 資産価値がデカイんだろうが、でも気持ちは分かる
都合悪い時ばっかこっちに寄せられ、オイシイとこだけ持っていかれる
誰でも経験あるだろう(´・ω・`) >>1
「ハロルド・ジョン・ティエンパレー」
1898年生まれ。オーストラリア人、第一次大戦後中国に来る。
ロイター通信の北京記者となる。
その後マンチェスター・ガーディアンとAPの北京駐在記者を兼ねる。
1937年盧溝橋事件後、国民党政府は彼を英米に向けて派遣し、
宣伝工作に当らせ、次いで国民党中央宣伝部の顧問に任命した。
編著に『中国に於ける日本人の恐怖』(1938年)一書がある
ティンパーレーの日本語訳本を出した「龍渓書舎」というのは、
実は「チャイナ・ウイークリー・レビュー」が
中国語訳本を出版するときに使われた書店名であることもわかった。
チャイナ・ウイークリー・レビューは、
そもそもが国民党の息のかかった英文紙だったのである。・・・
ここで新たにわかったことは、ティンパーレーは、
南京から送られてきた手紙を、
ただ「真実」として読者に伝えようと思ったのではなく、
「宣伝部」という国民党組織と一緒になってあの本を書いた、ということである。
中央宣伝部が総力を挙げて製作したのが、宣伝本のティンパーリ編『戦争とは何か』であった。
この本は「死亡した市民の大部分は、13日午後と夜、
つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした」とか、
「強姦を拒んだ婦人も銃剣で突き殺されました。また、邪魔になった子供たちも突き殺されました」
といった南京の「度重なる殺人」を描いていた。 粉塵がウンコなので
マスクしろ!
こうやって感染症って拡散されるんだから。 下水が逆流しているならタワマン関係なくその地域は排水できんなよ 「元ニューヨーク・タイムズ記者、ティルマン・ダーティン氏」(正当史観
【※下記は南京戦から50年以上が経って述べられたダーディンの回顧談の一部だが作り話】
南京事件を世界に知らせた男
自分の目で大量虐殺を見た米人記者の回顧談
古森義久(ジャーナリスト)(文藝春秋89・10から)
予想されなかった虐殺
―――――――
日本軍はやはり民間人をも無差別に殺したのですか?
「はい、無差別の殺害といえます。銃で射つのがもっとも多かった。
銃剣を使う場合もあった。
とにかくウサギを殺すような感じでの虐殺が行われたのです」
―――――――
HPのタイトルが『南京事件を世界に知らせた男』とされているのは
南京事件に関する彼のレポート(記事)が
1937年12月18日付ニューヨーク・タイムズに掲載されていたため
しかし、その記事を読めば分かるが、【ダーディンは日本軍による民間人虐殺を目撃していない】
見出しとその直後にある要約部分に「婦人への暴行」とか「民間人の殺害」という言葉を挿入しているが、
その後にある約5000字におよぶ長文レポートにそれらに関する説明がまったくない
回顧談のとおり、ダーディンが、本当に南京で日本軍がウサギを殺すように
多数の民間人を虐殺したのを目撃したなら、そのような記事には決してならない
ダーディンの約5000字におよぶ長文レポートは、殆どが伝聞記事で、
彼自身の目撃記事は支那人便衣兵の悪行や便衣兵の処刑や戦闘状況など僅か
日本軍による民間人虐殺に関する目撃記事は全くない
本当に日本軍による民間人殺害を目撃していれば、こんな記事は有り得ない。
新聞を売るために「東スポ」と同じように派手な見出しを付けただけだった 家は戸建てだから脱臭きと
頻繁に空気入れ替えしてるけどね
小はいいんだよ
大の臭いと言ったら
その部屋だけで済まず
2階3階まで臭ってくるからの
夜中でも臭いで目が覚めるくらいw 同じ頃、【シカゴ・デイリー・ニューズのスティールも、これと酷似した記事を書いている】が、
それは2人とも、【ベイツが安全区委員会として作成したメモ(レポート)に基づいてそれぞれ記事を書いたから】
(南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 第1巻』105頁)
ベイツなど南京に長期間残った安全区委員会のメンバーは誰も日本軍による市民虐殺を目撃していない。
1937年12月15日に早々と船で南京を離れたダーディンやスティールが、
日本軍による民間人殺害を目撃する筈がない
特にダーディンは句容に行っていて南京に戻ったのは14日の夜
また、【ベイツは支那国民党の顧問】だったことが判明しており、国民党の宣伝に関わっていたことは間違いない。
(「南京大学教授ベイツの"化けの皮"」『諸君!』2002年4月号、『正論』2002年4月号)
ダーディンの記事の派手な見出し「民間人も殺害」に関しては、当然世間は相手にしなかった
ところが、それから8年以上が経った戦後の東京裁判で、日本軍による南京市民大虐殺事件があったことになってしまった
「東スポ」のように、見出しなど一部にだけ派手に「民間人も殺害」という言葉を入れていたダーディンは、
一躍、『南京事件を世界に知らせた男』となった。自分でも、さぞかし驚いたことでしょう。
ダーディンは、1962年のニクソン訪中で北京に同行し、1988年には南京の虐殺館を訪問した。
古森義久氏への回顧談でも、見て来たようなウソをつき通すしかなかった
(注)ダーディンの記事は、ベイツ(宣伝工作員)の宣伝用レポート(メモ)を基に書かれた >>17
優秀な不動産屋 = 悪徳な不動産屋
悪徳であればあるほど収益が上がり巨大企業になれる。wwww >>1
ダーディンは、1937年12月18日付ニューヨーク・タイムズで、
――――――――
日本軍の下関門の占領は、防衛軍兵士の集団殺戮を伴った。
彼らの死骸は砂嚢に混じって積み上げられ、
高さ六フィートの小山を築いていた。
水曜日(15日)遅くなっても日本軍は死骸を片付けず、
さらには、その後の2日間、軍の輸送車が、
人間や犬や馬の死骸も踏み潰しながら、その上を頻繁に行き来した。
(12月18日付NY・タイムズより一部抜粋)
――――――――
という記事を書いておきながら、
後(1987年8月)に、
――――――――
この下関地区では、それこそ大勢の兵隊が邑江門から脱出しようとして、
お互いに衝突したり、踏みつけあったりしたのです。
前にもお話したような気がしますが、私たちが南京を出るときに、
この門を通りましたが、車は死体の山の上を走らねばなりませんでした。
この門から脱出しようとした中国軍の死骸です。
中国軍はあちこちで城壁に攀じ登り脱出を試みました、
これらの死体の山は日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。
この地域で戦闘はありませんでした。
(『南京事件資料集』アメリカ関係資料編)
――――――――
と、あっさり嘘を告白した。 事実ではないというなら住民はどんどんウンコすればいいんだな また、
――――――――
南京事件を世界に知らせた男
自分の目で大量虐殺を見た米人記者の回顧談
元ニューヨーク・タイムズ記者、ティルマン・ダーティン氏
古森義久(ジャーナリスト)(文藝春秋89.10から)
―――――――
の回顧談と、ダーディンの1938年1月9日付ニューヨーク・タイムズの記事には以下の矛盾もある。
●新聞記事
―――――――
「中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為」ニューヨーク・タイムズ
1938年1月9日 F・ティルマン・ダーディン
「(中略)
南京を掌握するにあたり、日本軍は、
これまで続いた日中戦争の過程で
犯されたいかなる虐殺より野蛮な虐殺、略奪、強姦に熱中した。」
―――――――
●回顧談
―――――――
上海から南京近郊に到達するまでの過程で、日本軍が中国側の捕虜や民間人を
多数殺したという話しは当時あったのですか?
「いや、それはありませんでした。(中略)虐殺に類することは
なにも目撃しなかったし、聞いたこともありません。」 >>61
どの程度の臭気が出るか分からないけど、
隣りからは言われそうだな。 「大正9年5月24日午後12時を忘れるな」
日本人たちは、生きたまま両目を抉り取られ、
5本の指をバラバラに切り落とされ死ぬまで何度も刺されていました。
そして金歯があるものは、生きたまま、あごから顔面を切り裂かれて、金歯を抜き取られました。
女は裸にされ凌辱された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られて殺されました。
獄舎の壁には、血痕、毛のついた皮膚などがこびりついていました
>
尼港を4300人という大集団の共産パルチザンが取り囲み片端から殺しました。
このとき尼港で殺された人の数は、なんと6,000人に及びます。
これは町の人口の半分にあたる数でした。
この蛮行をはたらいた共産パルチザンは、内訳が、
Russian 約3000人、
Korean 約1000人、
Chinese 約300人
パルチザンというのは殺戮と虐殺によって、その地の財産関係をめちゃめちゃに破壊します。
つまり土地の所有者も、工場も、インフラ設備も、すべてそのオーナーにあたる人が
殺されて居ない状況をつくりあげるわけです。
そのうえで、それらインフラ財産を、新政府の要人たちが摂取して自分の財産にする。
たとえば那覇や札幌の土地や建物の所有者や利用者を皆殺しにして、その後釜に座るわけです。
これが世にいう、共産主義革命です。
いまも日本に、左翼革命政権を望む者過激派がいますが、
彼らの望む未来とは、そういうものだということを、私たちはしっかり学ぶ必要があると思います。
この共産パルチザンは、その後、通州事件等でも暗躍し、また先の大戦中も暗躍を続け
残酷な振る舞いを繰り返し、その残党が北朝鮮設立の一翼を担って済州島での虐殺事件を引き起こし
韓国の正規軍がやってくる前に日本に逃れ、以後、日本国内でKorea進駐軍を名乗って
日本国内での数々の非合法活動に手を染めています。 タワーマンションとか戸建てと長屋の悪いところ取りしたようなもんだからな 『済南事件』
北伐軍(蒋介石軍)が山東省済南市に入城し、日本人居留民に乱暴狼藉を働いた事件
邦人経営商店での略奪行為をきっかけに日本軍と衝突。
日本の被害は、戦死9名、負傷32名、居留民の惨殺14名、
暴行侮辱30名余、奪被害戸数136戸、被害人員約400名。
済南事件で中国兵が日本人居留民に加えた残虐行為は、
まさに「中国式」で想像を絶する残虐さだった。
事件直後に惨殺死体を発見した南京駐在武官・佐々木到一中佐はその手記に次のように記した。
「予は病院において偶然その死体の験案を実見したのであるが、
酸鼻の極だった。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、
あるいは滅多切りとなし、婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。
ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。
焼け残りの白足袋で日本婦人たることがわかったような始末である。
わが軍の激昂はその極に達した」
済南の日本人惨殺状況に関する次の外務省公電がこれを立証している。
「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿込みたるもの、
顔面上部を切落したるもの、
右耳を切落され左頬より右後頭部に貫通突傷あり、
全身腐乱し居れる者一、陰茎を切落したるもの二、」とある。
日清戦争の時も捕虜となった日本軍兵士達は両手両足を切断していく拷問
(中国ではこれを凌遅処斬とかいうらしい)をうけていたが
上の記録からも中国人の殺人の手口の凄まじいほどの残忍さが分かる 中国兵による略奪陵辱暴行殺人事件。
略奪被害戸数136、被害人員約400とある。
中国側も立ち会った、済南医院での日本人被害者の検死結果。
藤井小次郎
頭および顔の皮をはがれ、眼球摘出。内臓露出。陰茎切除。
斎藤辰雄
顔面に刺創。地上を引きずられたらしく全身に擦創。
東条弥太郎
両手を縛られて地上を引きずられた形跡。
頭骨破砕。小脳露出。眼球突出。
東条キン(女性24歳)
全顔面及び腹部にかけ、皮膚及び軟部の全剥離。
陰部に約2糎平方の木片深さ27糎突刺あり。
両腕を帯で後手に縛られて顔面、胸部、乳房に刺創。助骨折損。
鍋田銀次郎
左脇腹から右脇に貫通銃創。
井上国太郎
顔面破砕。両眼を摘出して石をつめる。
宮本直八
胸部貫通銃創、肩に刺創数カ所。頭部に鈍刀による 切創。陰茎切除 ミッドうんたら組合は、パークシティ武蔵小杉が他にもあることを知りながら
否定してるんだから、これはただの早とちりとは言い難いだろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています