女王国と邪馬台国は別と見る説が一番面白いな
いちおう東遷説の一種になるのだろうが

・倭国騒乱を収めたのが女王国でありその女王が卑弥呼であるとは書いてある
・邪馬台国について「女王の都する所なり」との記述はある
・しかし卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは一言も書かれていない

倭国騒乱が北九州の出来事であるのは間違いないのだから卑弥呼が収めていた女王国も当然北九州、具体的には伊都国
だから畿内で卑弥呼の墓を探したって出てくるはずがないし「卑弥呼が治める邪馬台国」なんてものは存在しない

・卑弥呼が死んだのが247年頃、壱与と思われる倭人が晋に朝貢したのが266年頃、魏志倭人伝が書かれたのは290年前後とかなりタイムラグがある

だから卑弥呼の死後に”女王国”が東遷して畿内に至り、壱与が治める邪馬壱国になったのを魏志倭人伝では同時代のように書いてしまっているのではないか、という話

つまり倭人伝に書いてある”女王国”についての記述はほぼ全て卑弥呼が治める北九州の女王国のことであって邪馬壱国は後から整合性を取るために書かれた伝聞の付け足しに過ぎない

具体的には奴国、不弥国はやはり北九州のどこか、投馬国は吉備か出雲、邪馬壱国が奈良ということ

これだと女王国についての記述がどう見ても南方の海人国らしいこと、投馬国と邪馬台国だけ水行20日だの水行20+日陸行10日だのといきなり遠くなることにも説明が付く

卑弥呼の治める女王国は北九州、邪馬台国は奈良。両方のメンツが立つしこれでいいじゃんって思う