【訃報】戦艦大和の元乗組員、八杉康夫さん死去 92歳
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八杉康夫さん92歳(やすぎ・やすお=元戦艦大和乗組員)11日、誤嚥(ごえん)性肺炎のため死去。葬儀は営んだ。
広島県福山市生まれ。旧海軍に志願したのち17歳で乗り込んだ戦艦大和が、米軍による1945年4月の攻撃で沈没。広島県呉市の特殊部隊に配属され、同8月の広島原爆投下直後は救護活動のため入市被爆した。戦後は福山市に戻り、楽器の調律事務所を営む傍ら「戦艦大和語り部ネットワーク」を設立。各地で講演した。
毎日新聞 2020年1月14日 22時42分
https://mainichi.jp/articles/20200114/k00/00m/060/315000c
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2020/01/14/20200114k0000m060316000p/9.jpg プラモデルで10個以上作ってる
全てプレゼントしたりして手元にはない この人はまがりなりにも実際の敵と対峙して戦闘したけれども
敵と出会う前に病死とか餓死の方々が大勢… もし戦争が無かったとしたら
建造された数年後に機密解除されて存在が明らかになり
長門と陸奥に替わって連合艦隊の顔になっていたのかな 17歳で大和、原爆か。
そして戦後70年生きたのか、
いろんな時代を見たんだな
お疲れ様でした 死んだ乗組員の魂を背負った半生だったと思う みなさんのお陰で日本は成長できました 感謝と共にご冥福を 大和特攻して沖縄も占領されても戦争継続してたんだよな
無能過ぎだわ 八杉康夫さんは色んな所で見るけど素晴らしい人格者だよ
ご冥福をお祈りします。
ただ砲弾よりモチ・・・ >>1 この人、NHKBSでやってた大和関連番組内で証言してたね。
語り方が、素人じゃなくて「元アナウンサー」って感じで、とても印象に残ってる。 こうして戦争を実際に知る世代がまた一人消えていく、お疲れ様でした >>1 広島県呉市の特殊部隊 どんな事する部隊だったのか 興味あるw
ご冥福をお祈りします この人達が勇敢だったから今5chが出来るワケだからな
勇敢じゃ無かったら内戦や恨みで永遠に虚栄心だけの中身のない国に成っていただろうな 波動エネルギーを武器に転用した日本人って最悪だよね 昭和2年生まれだったのですね 戦友と再会を果たしたかな お疲れさまでした 私がホテル勤めをしていた頃の話。
ある披露宴、新郎が海自の方でした。同僚上司達は制服で出席。
披露宴も御披楽喜に近づき、新郎のおじいさんの挨拶がありました。
自分が海軍にいた事。孫が艦に乗っている事を誇りに思う事。
自分達の世代の不甲斐なさのせいで今の海上勤務の方達には苦労を掛けていると思う事。
たとたどしくですが話されました。
同僚達は知らなかったらしく酔っ払っていたのが段々背筋が伸びていき神妙に聞き入っていました。
挨拶が終わり高砂の席の一人が「何に乗っておられたのだ」と尋ねると、新郎は小声で「大和です」
それを聞いた海自組一同すっ転ぶような勢いで立ち上がり直立不動で敬礼を送りました。
おじいさんも見事な答礼を返されました。
私はその後は仕事になりませんでした。 太平洋戦争戦艦大和の乗組員だっていうだけで驚き感激です。
安らかにお眠りください。仲間のほとんどが戦死した中、
日本が平和に発展したことを見届けられただけでも良かったと思います。 >>34
今読むと、「いや、大和って聞く前に海軍だったって聞いた時点で
直立不動になれよ」って思うよな
名もろくに知られてないようなショボい艦の船乗りだって、
海軍の大先輩ってことには変わらないんだからさ
あァ世の中が不寛容になったって言われるわけだ、小理屈ばっかり覚えちまった 只のヤンキーの的でヤ的やで
戦争公狂事業の犠牲者、お疲れ様ですた 戦艦武蔵の乗組員が武蔵沈没後に受けた仕打ちを知って日本軍てマジでクソだったんだなって思った >>44
信濃なんか手抜きの欠陥品を知りすぎた工員ごと
わざわざ沖合いに出して沈めさせたからなw
超ド級のクズですわw >>19
起工 1937年
進水 1940年
開戦 1941年
もし戦争を回避できていたら、
という仮定は成り立つよ >>44
戦艦陸奥の生き残りも口封じで武蔵の生き残りと共にフィリピンで陸戦隊にされて最前線に送られて大半が戦死 本郷和人
太平洋戦争の失敗は、第一の兵力、第二の装備を支える国力で、圧倒的にアメリカにかなわないことがわかっているのに、
第二の装備を零戦や戦艦大和などの一点豪華主義で突破し、あとは奇襲などの戦術と、日本国民へのプロパガンダ=思想戦で乗り切ってしまおうと考えたことにあると思います。 >>51
だったらどうすればいいと本郷さんは言うんだろうな? >>28
撃沈された艦艇の生存乗組員は機密保持のために一箇所に集められる
呉だと横瀬島の補充分隊で待機
その後は陸戦隊じゃないかな
ソースは同伴駆逐艦磯風乗組員であった柴田芳三の手記だけど 映画やドキュメンタリー。。。映像媒体に引っ張りだこの晩年だった。。。
お疲れさまでした、 >>34
「何に乗っておられたのだ」
「雑役船です」
「ふーん」 超生々しい話される生き証人だったよな
ご冥福をお祈りいたします うちのじーちゃんは大正生まれで戦争のときは子供もいるからって陸に戻されたって言ってたな
南方への輸送船に乗ってたとか
ちゃんと聞けばよかった
父方のじーちゃんなんて陸軍だったけどとーちゃんが子供の頃に死んじゃってなんも聞けとらん
そんなじーちゃんが愛読していたのが朝日新聞だった(笑)戦前から読み続けてたのかな? >>47
誰がアーチャーフィッシュに連絡したんだ? 生まれ変わるのなら次は戦争の無い時代に
ありがとうございました 昔大和特集の番組で最後の瞬間を熱っぽく語っていた
英霊の語り部だよ
冥福をお祈り申し上げます >>42
俺もこのコピペ見るたびそう思うわ
漁船徴用の特設艦だったらどうだっていうのだ
フーンとかなるのか 艦長席(真上)と第三艦橋(真下) ふっふっふ 脆いものよのう 八杉君が亡くなったか
彼は2番高角砲の指揮担当だったかな?優秀な男だったよ彼は。
海底よりご冥福を祈る 御冥福をお祈りします。
あの大和の乗組員が今まで存命だったことに驚き。
俺が生まれるたった二十年前の事だったんだなあ…不思議な感覚 >>14
祖父が大和に乗っていたとかウソをつきまくるんだろうな、あいつら ん?
この文章からしたら挙手礼っぽいけど海自は帽子なくても挙手礼するの? >>34
ん?
この文章からしたら挙手礼っぽいけど海自は帽子なくても挙手礼するの? >>30
アメリカが規格を作り中国で製造したパソコンでアメリカ製のOSを動かして、
アメリカが主導して出来たネットワークにつないでお前らがやってる5ちゃんねると大和がどう関係があるんだ? うちの爺ちゃんは中国戦線で
同僚が手榴弾の安全ピン抜けてる事知らずに
ドカッと座って自爆事故死した、と言う話聞いたな。
下半身が無くなっててな、簡単に死が訪れる
戦場にいることを確信したと話してくれたよ。 >>34
「何に乗っておられたのだ」
「間宮です」
だとどうなる? >>22
> 何に乗っておられたのだ?
>>1のスレタイぐらい嫁www
コピペの振りにしてもだw そういえば、俺が子供の頃(四十年以上前)は
初詣に行くと足のない傷痍軍人さん?が物乞いしてるのを良く見た記憶が…
それほど昔の話じゃないんだよね… お疲れ様でございました。
あの世で戦友とゆっくりお話をして下さい。 >>87
平成初頭まではいた覚えがある
梅田のガード下とか そういえばオレのじいちゃん、海軍軍人で戦艦霧島に乗艦してたわ
昭和8年から12年頃がそうで、その後は駆逐艦涼風に乗ってる
大戦時、20年頃、最後は補給輸送船でマニラ辺りで戦死してる
100歳超えて今でも元気なばあちゃんに霧島のこと聞いたら
「死んだじいちゃんが乗ってたなぁ、霧島の事聞いたことがあるけど軍事機密だからってあんまり教えてくれんやったなぁ」
って言ってたわ 大和の一番てっぺんの戦闘箇所に配置されてた人でした。 >>66
俺も親父の昔話を真剣に聞けば良かったと思う 貴重な資料だよな
母親から目の前の海で軽空母の訓練が行われていたという話は聞いている >>16
一般の人は知らなかったらしいよ
新聞に載るわけでもないし
軍港周辺の人くらいでしょ >>97
上で書いたが訓練とかする地域の人は知っていただろうな 母は軽空母の名前をはっきり覚えていた >>66
そうなの?
うちのじいちゃんは子どもがいても掃海船に乗っていたけどね
あまり戦争の事を話さなかったから、父親とじいちゃんの話を付き合わしてもおぼろげな感じ
父親はじいちゃんが中国と日本を行き来していたのは知らなかったと言っていた(父親は戦後生まれの末っ子)
ばあちゃんは大阪大空襲を子ども三人連れてくぐり抜けた強者だけど >>98
大和型戦艦は軍機で国民に知られていないという話なんじゃないの
軍縮条約失効前に建造された軍艦はむしろ国民に広く知られていただろう
進水式には各界から広く来賓を招き絵葉書まで配ってたという その軽空母もその頃の艦なんじゃないか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています