【東京】雷門に何か足りない… 浅草寺、大ちょうちん取り外し 新調へ「これはこれで面白い」
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浅草寺(台東区)の雷門にぶら下がる大ちょうちんが新調されることになり、一時的に姿を消した。その景色に「物足りない」「これはこれで面白い」と見た人たちの反応はさまざま。新調することで、新型コロナウイルスの感染拡大で遠のいた客足が戻るよう期待する声も聞かれる。【川村咲平】
大ちょうちんは「雷門」の大きな文字が描かれ、高さ3・9メートル、幅3・3メートル、重さ約700キロ。浅草寺の代表的な撮影スポットとして知られ、新型コロナの感染拡大が進むまでは、国内外から大勢の観光客が訪れ記念写真を撮る姿が見られた。
新調は2013年以来7年ぶりで、3月10日に取り外された。ほぼ10年ごとだが「昨年は台風が近づく度に折りたたんだため、早く傷んだかもしれない」と担当者は説明する。
会員限定有料記事 毎日新聞2020年4月12日 地方版
https://mainichi.jp/articles/20200412/ddl/k13/040/001000c
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2020/04/12/20200412ddlk13040009000p/7.jpg 実は京都の職人が作っているという話
こないだニュースで見た 一度焼失して大阪のパナソニックからつけてもらったんだろ コロナが収束して、さて観光ってなった時がいいような気がするけど。 前回からもう7年も経つんやね。
また高橋提灯さんかな? 写真だけ見せられてどこ?って言われたらわからなかったな >>5
ほんとだよ
関東の企業、日立のロゴが通天閣入った対抗として、松下が東京の雷門に奉納した >>22
だから下の方に小さく「松下電器」って書いてあるよね。
これも「パナソニック」になるのかね(´・ω・`)? 7年前はちょうちんが印刷された垂れ幕が下がってたんだよなw 両サイドの風神雷神が目立つようになって、お寺の門らしくなって良いじゃねえか >>1
もっと、ましな写真撮れよ
手前のオッサンの違和感で、ちょうちんなんて気づかない そーいや昨晩のアド街は「雷門」特集で
ガイジン観光客お薦めの店ばっか取り上げてたな
おそらく収録はコロナ騒動前
こんなご時勢なのにインバウのお祭り騒ぎの映像ばかり
あそこで外人にサービスしてイキってた浅草寺参道の商売人が
今現在息してるのかどうか心配 >>10
そのつもりだったらしい
通常10年が目安のところ、やや前倒しして今年にしたそうだ >>23
し、しまった・・・もう見れないんだよなぁ。
2013年ならまだ松下電器だったんかぁ。 1年に1回恒例行事にすれば人が多く集まりそう
外す所から見せれば人気になるんじゃないかな 記念で撮影に密集しちゃいそう
確かにめったにないしな >>23 >>45
大丈夫
提灯本体はそのままなので「松下電器」は変わらない
>>16 の動画を見てほしい よく考えると寺の門に提灯ってちょっとふざけてるよな >>31
きったねえオッサンだな
コロナクラスターで全滅すりゃいいのによ >>51
五重塔の瓦はチタンなんだぞw
東京はハリボテ過ぎて終わってるわ >>50
浅草寺はもともと神仏習合だからいいんじゃないの >>48
ああ、下の「塗り輪」の部分に表示してあるのか。ありがとう。
パナ糞が張り替えに関与しないんならそのままな可能性はあるな。
どうでもいいけどパナ糞はeneloopを返せ。 >>4
>>16
へー
提灯職人なんて浅草あたりにいそうなのにねえ ああそういや人通り多いので疫病が流行ったら取り外して
おさまったら新調したの取り付けて祝うんだったよな >>53
唐招提寺金堂も現代の瓦と木材で修繕したんだが
他人の批判だけは怠らない部落民www >>54
でもダサいよ
提灯なしの方が整然としててかっこいいわ >>60
唐招提寺の瓦はチタンなのかよw
お前こそが頭の弱い浅草部落民なんだろうがカスw 世界から人が集まる場所も今はネズミの楽園
手のひら返し
事実は小説より奇なり コロナで人出が少ない間に変えとくのはいい判断だと思います >>55
松下電器と三洋の創業者は、実の兄弟
パナソニックは中国から、eneloopを守ったんだよ 新聞屋はこんなクソ記事書くために出歩いてもいいのか 台東区には“雷門”っていう住所があるが、実際の雷門があるのは台東区浅草一丁目っていうのは豆 ライブカメラで見てびっくりしたわあれ?提灯ねえと
まるで別世界 雷門って海外からの観光客は何て呼んでるん? やっぱり、サンダー・ゲート? 提灯を新調
おっぱいがいっぱい
何か似ている気がする あの提灯は松下幸之助氏が持病を抱えていて
その持病を治したい為浅草寺に足を運び祈願し
その後その持病が治り感謝のために自ら寄贈した感動秘話がある
でも俺はその裏の山形県の大わらじに脚光浴びて貰いたいんだけども
地元の通は提灯より大わらじを有難く思っている >>45
和紙を張り替えるだけだから見れるんじゃない? 神奈川出身だが、ここと東京タワーは行ったことない
スカイツリーもない >>31
古い画像だな懲役行ってるのもいるし
下の画像真ん中が頭の小櫃今は50才ちょいかな
一番右の筋肉餃子耳のマッチョが丸金高橋の警護役
で一番後ろのビルの屋上にいる二人はいわゆるホモ、分る人には分る >>84
最後w
後ろ向いてるねえさんは肩にシリコンでも入れてんの? ( ゚∀゚)
( ∩ミ ほーら、大ちんちんだよ
| ω |
し ⌒J 新門辰五郎と芳〜慶喜に愛された火消しと娘 マンガのように爽快な生涯
「火事と喧嘩は、江戸の花!」江戸っ子は喧嘩っ早く、見ていて面白い。
火事が多いせいで、火消しの動きがキビキビしていて見惚れてしまう。そんな意味です。
たくましい筋肉もあらわとなる火消し衣装は格好良く、そこに彫られた刺青も鮮やか。
女性たちはうっとりとした目で、彼らを眺めたと伝わります。
さらには火消し同士の喧嘩は、江戸っ子注目の的でもあり。歌舞伎の題材にまでなったほどでした。
そんな粋な火消し「を組」の頭だった人物が、幕末史において名を残しています。
新門辰五郎――。彼は一体どんな人物だったのか。
幕末に名を残した人物の中でも、おそらく彼は最年長の部類に入るでしょう。
辰五カは、寛政12年(1800年)頃、江戸の中村家に生まれたとされています。
実家が燃え、錺(かざり)職人だった父が焼死してしまうという、
なんとも不幸なカタチで火事との縁が出来た辰五カは、火消しの道に進みました。
色白で酒が好き、器が大きいけれども、火消し同士の喧嘩ならば一歩も退かない。そんな典型的な江戸っ子だった辰五カ。
テキパキとした男で、火消しとしての才覚は確かなものでした。辰五カが名をあげたのは、文政4年(1821年)のこと。
浅草で起きた火災現場で纏を立てたところ、さる大名火消しが「を組」の纏を倒したのです。
頭にきた辰五カは、大名火消しを纏で殴り、相手の纏ごと転落させました。
慌てた「を組」の頭領・町田仁右衛門が、仲裁に入ってその場は収まりましたが、
怒りの冷めぬ大名火消し側は、下手人を出すように迫ります。
そこで辰五カは、なんと大名屋敷まで乗り込んで、胡座をかいて座ると、こう啖呵を切ったのです。
「俺ァ逃げも隠れもしねえ! 勝手にしやがれ!!」まるで漫画ですよね。
相手は辰五カの気迫に圧倒され、何もできませんでした。
かくして大名火消し相手に一歩も退かず意地を貫いた話は、あっという間に火消したちの中で話題になり、
日頃から辰五カを気に入っていた頭領の仁右衛門は、ますます彼に惚れ込みます。
文政7年(1824年)、仁右衛門は娘の錦を彼にめあわせました。
こうして辰五カは仁右衛門の娘婿となり、文政7年(1824年)に「を組」を継いだのでした。
江戸っ子、しかも火消しとなれば、ちょっとやそっとで退いたら男が廃る。
弘化2年(1845年)、辰五カにまたしてもそんな局面が訪れます。
北風が吹き荒ぶ1月、町火消し十番組を率いた辰五カは、現場に駆けつけました。
「なんだあ、この野郎! どきゃあがれ!」「どけとはなんだ!」
今度も相手が悪かった。これまた気性の激しいことで知られる大名火消しだったのです。
大々的な喧嘩に発展したこの争いでは死傷者まで出てしまい、辰五カは責任を問われます。
そして「江戸払」(江戸からの追放)の罰を受けてしまいました。
それでも辰五カはしょっちゅう江戸に足を運びます。妾がいたのです。毎日こんなことをしていたものだから、命令違反が発覚。
反省の色がない不届き者として、佃島の人足寄場(今でいうところの更正施設)に送られられてしまうのでした。 弘化3年(1846年)、辰五カの収監された牢で火災が発生しました。
江戸時代、牢で火災が発生した場合「切り放ち」という処置がとられました。
火災の際に囚人を解き放ち、罪を一等減刑し、戻らぬ者は減刑無しとする制度です。
この処置は「明暦の大火」(振袖火事)の際、牢屋奉行の石出帯刀吉深が、囚人を解放したことが始まりとされています。
このとき辰五カは、もう一人の仲間とともに、たった二人で牢に留まりました。
火の粉を浴びながらも果敢に消火活動を行い、油倉庫への類焼を防いだのです。
活躍は、「遠山の金さん」のモデルとされる北町奉行・遠山景元の耳に入りました。「流石は火消しの頭である」
辰五カは特赦を認められ、火消しとして名声を高めました。
大名火消し相手に一歩も退かない。牢の火災を消し止め、奉行すら感心させる。江戸っ子は、そんな辰五カにぞっこん惚れてしまいます。
スターのような火消しの中でも、スーパースターとなったのです。
この男ぶりに惚れ込んだのは、何も火消し仲間や町人だけではありません。
上野大慈院別当・覚王院義観までもが、辰五カの度胸に惚れ込み、浅草寺付近の取り締まりを依頼したのです。
これが何とも、うまみのある役目でして。現在も雷門から浅草寺にかけて、仲見世にずらりと店が並んでいます。
江戸時代もそうでした。そんな繁華街の取締役になりますと、役得として、
仲見世で商売をしている香具師(やし)、的屋、大道芸人から、寺銭(カスリ・ショバ代)を取れたのです。
辰五カがこの寺銭を押し入れに毎日放り込んでいたところ、床が抜けるほど溜まりました。
才覚のある辰五カは、さらには寄席まで経営し、ますます懐がうるおったのです。
ショバ代で儲ける男というと、現代人ならば汚い奴だと思いそうです。しかし、当時は逆。
「やっぱり辰五カの親分は流石だねえ」「あの人は浅草の自慢さぁ!」評判は上々。
取り締まるべきところできっちりと目を光らせる――そんな有能ぶりを称賛されたのです。
しかも、彼は寛大で器の大きな男です。火事場での喧嘩では一歩も退かない辰五カですが、普段は温厚で温和でした。
部下たちはそんな彼によく従い、言いつけを守ったのです。浅草の治安のためにも、辰五カはまさにうってつけの男でした。
辰五カは浅草寺に新たに作られた門の警備も任されました。
そのときから「新門」(“しんもん”が一般的ですが、本人は“あらかど”と読んでいました)と名乗るようになります。
新門と名乗るようになってから、辰五カの名は江戸では知らない者がいないほど広まり、子分もどんどんと増えました。
町人とも交流のあった勝海舟は、江戸の火消しとも親しくつきあいました。辰五カもその一人です。
粋な江戸っ子同士、気があう部分があったのでしょう。辰五カは、覚王院義観の紹介で、
勝の主君にあたる一橋慶喜とも知り合いになります。 慶喜は辰五カを大いに気に入り、その娘・芳を側室に迎えることにしました。
しかも、慶喜は気安く「ジジイ」と呼びかけ、側に寄ることすら許すほどに。
一方の辰五カも頭脳明晰な慶喜の魅力に惚れ込みむのです。そして文久3年(1863年)、大一番を迎えます。
辰五カは慶喜に付き従い、子分300名を率いて上洛したのです。
すでに70を過ぎているのに洒脱なその姿は、上方の人々を驚かせました。
辰五カは京都と大阪に豪華な別宅を構え、妾を住まわせます。
京都・大阪でも火消しを任され、ますます名もあげ、さらに京都では、子分たちに梯子乗りを披露させ、
人々をあっと驚かせたこともあったとか。
しかし慶応4年(1868年)、慶喜が鳥羽・伏見の戦いで敗北すると、辰五カも共に大坂へ逃れました。
このとき、慶喜はとんでもない忘れ物をしてしまいます。家康以来の「金扇馬印」です。
馬印とは、合戦場で大将の存在を高らかに宣言するもの。
大坂夏の陣では真田信繁(真田幸村)が徳川本陣へ突撃して、命からがら家康が逃げ出し、
その際、馬印が倒れてしまったという話がありますが、要は、この馬印を敵に奪われたりでもすれば徳川家の誇りは台無しです。
生死を賭してこれを取り戻した辰五郎は、その後、馬印を立てて東海道を江戸まで戻ります。
一方、慶喜と辰五カの娘・芳らは、軍艦「開陽丸」で江戸まで戻りました。
軍艦に妾を連れて来た慶喜は家臣たちを呆れさせた、と伝わります。
江戸に戻った辰五カを待ち構えていたのは、勝海舟でした。
彼のような火消しの親分、侠客、鳶職、博徒、非人頭らのアウトローたちに対し、こんな計画が持ちかけられます。
「俺ァこれから、薩摩の西郷隆盛と話し合う。もしもこの話し合いが決裂しちまったら、おめえさんらで江戸を火の海にしちまってくれ」
勝の脳裏にあったのは、ナポレオンを大敗させた1812年のロシア戦役でした。
モスクワを焦土にすることで、敵にも大打撃を与えたのです。勝自らそう頼まれて、彼らは張り切りました。
しかし勝と西郷隆盛の間で話がまとまり、焦土作戦は幻と終わりました。
無血開城という歴史の影で、火消したちがうごめいていたのです。
幻の焦土作戦は不発に終わりましたが、辰五カの役目は終わりません。
上野・寛永寺〜水戸〜駿府と、各地を転々とする慶喜の居場所を警護し、防火につとめていたのです。
慶喜が駿府に向かう時、辰五カと子分たちは二万両という大金を守り抜きました。
馬印の次は、金を守ったというわけです。
隠居後の慶喜が悠々自適の暮らしを送れたのは、辰五カの警護の成果でもあるかもしれません。
明治になると、慶喜は新村信と中根幸以外の妾は暇を出しました。芳もこのとき、家に戻されます。
慶喜に付き従い、しばらくは駿府で暮らした辰五カも、やがて江戸へ戻りました。
そして明治8年(1875年)没、享年75(80以上だったという説も)。住み慣れた浅草で亡くなりました。
辞世の句は、「思ひおく まぐろの刺身 鰒汁(ふぐとしる) ふっくりぼぼに どぶろくの味」。
意味は各自で、お調べください。最後まで人をくった江戸の侠客らしい人物でした。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています