【歴史】松尾芭蕉「奥の細道」、旅のお金はどうしていたの?
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[となりのテレ金ちゃん−テレビ金沢]2020年3月30日放送の「なぞの細道」のコーナーでは、松尾芭蕉が「奥の細道」を執筆した際の旅費について取り上げていました。
「人生も旅のようだ」と旅をしながら句を詠み続けた芭蕉。しかし、現実問題として、そのお金はどうやって工面したのでしょうか?
■熱心なファンがカンパ?
松尾芭蕉の代表作といえば、東北や北陸をめぐった旅行記「奥の細道」。
芭蕉は石川県加賀市の山中温泉にも滞在しています。8泊9日と予定よりも長く滞在し、よほど山中温泉が気に入ったのではないでしょうか。黒谷橋などを絶賛し「行脚の楽しみ ここにあり」と詠んでいます。
美味しいものを食べて、絶景を満喫した模様ですが、そのお金は門人(弟子)の曾良などが工面していました。
旅費のほかにも、句会の出座料、加点料、短冊や色紙に書いた際の報酬を手配していました。
中には金沢からはるばる追いかけて路銀(旅費)を渡したという熱心なファンもいたそうです。
それほど当時の芭蕉の句は前衛的で皆に認められていました。
そして、山中温泉に長く滞在した別の理由。実は芭蕉は痔の持病があり、山中温泉につかって痔を癒したのではないかと言われています。
有名な芭蕉も、病には勝てなかったのですね。(ライター:りえ160)
2020年4月12日 6時0分 Jタウンネット
https://news.livedoor.com/article/detail/18107857/
画像
https://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/8/9/89f2a_1460_71ac85892e7a4768c2aa397abe224a41.jpg 先生、こっちに来てくれ、こっちに寄っていってくれの状態だから
旅のお金なんて、あんまり必要なかったろ 有名な蓮舫さんでも、痔には勝てなかったのですね。(ライター:りえ160) 曾良が蒼井曾良って名前で春画のモデルになって稼いでた その辺の住人や浪人を山の奥の細道に追い込んで殺害して追い剥ぎしてたんだろ 芭蕉の本業は「間者」つまりスパイだろ
諸国俳諧漫遊を口実に、各藩の動静情報を集めていた
部下も何人か連れていたというしな 松尾芭蕉
「幕府は芸術家に補償しろ!」
「日本と違って南蛮でわー」 俳句を色紙に書いて店にプレゼントしてたんじゃないの 別に松尾芭蕉に限らず、昔の日本人は行く先で泊めてもらってただで旅行ができたらしいがな
まれびとなんかの話とも繋がってくるが >>1
この時代だと「奥の細道」の行路ってまさに「大冒険」だよなあ
今みたいに精巧な地図も便利な交通手段もなく、治安だって決して万全だった訳ではないだろう
もしかしたら疫病の危険だってあったかもしれない
それを高齢になってから「大冒険」に旅立ったのはほんと凄いと思う 松尾「ば、芭蕉は、か、か、母さんが死んだ後は、お前はお腹が空いたら親切な人におむすびをもらって食べなさいといって死にました・・・おわり」 実は江戸では家賃を滞納してて夜逃げ同然に家財を売り払って出発。
旅先でも饅頭屋の看板のデカい饅頭(陶器製)に食らいつく程の
メシもロクに食えない貧乏旅行だったのよ。 幕府が出してたんだろ
各地の藩の内定する重宝だったんだし その土地その土地に連歌が好きな旦那衆がいて
芭蕉はその道の第一人者だから
適当に滞在して連歌大会連歌教室開いて
旅費と滞在費を得てたって聞いたが 奥のほそみちを読んだことがあれば
田舎の俳句好きの金持ちの家を廻る
営業活動だって分かるだろうに 芭蕉と由良が出来てたんやっけ?そんな話を聞いた事ある 門人でもある酒田の豪商が招いたのでしょ?
そいつからたんまり貰ってるハズ 増田こうすけが面白おかしく描いてる通りだ
なんだかんだ天才だけに破綻してる部分も多いんだよ 表の顔は「俳人」
裏の顔は「幕府のスパイ」
だったんだろ
表では俳句を
裏では諸藩に関する幕府への報告書を書いてたんだと思う 45にもなって冬のキツすぎる東北に
行ってみようって徒歩で出かける高血圧痔持ちだからな >>34
幕府にそんなお金ないなw
天下の回り物で幕府も朝廷もすっからかんで庶民のがよほどお金の使い方は余裕があった
でなきゃ方々から句会に招かれて、なんてないし おまいらが紡いだ迷カキコも200年後教科書に載るかもしれない ノミシラミウマノショウベン枕元とか書いてるけど、本当は国境レンジャーの隊長の邸宅に泊まってたんだよね。 >>14
芭蕉の死因を考察したお医者さんの論文が興味深い。
松尾宗房(後の芭蕉)が仕えた主君もどうやら結核。
芭蕉は推定直腸結核。かわいがっていた甥は若死にするが
推定結核。
なぜ?当時の社会習慣から考え・・・・
まああとは論文を探してくれ。 各地で俳句教室開いて格付けチェックとかしてたんだろ >>50
1日50km以上移動した日もあるみたいだしな
行こうと思えば行けなくもない距離ではあるけど、馬とか使いたくならなかったのかね >>47
奥の細道の旅は、春の終わりに出発、梅雨の雨に苦労しながら旅をした。
秋の半ばで終了。 >>36
有名人だからこそ死ねば世間にすぐバレる
自分の領地で殺したらその藩は幕府から改易食らうし カツアゲに決まってんだろ、この時代にノホホンと旅してりゃ即殺されるわ 昔の人はなんでも徒歩で凄いな
実際あんな楽しそうじゃないと思うけど 奥の細道ってアナルファックの隠語なんだってね
芭蕉が実はゲイでいい男を求めて日本中を旅したのを記録したのが奥の細道らしいよ >>21
江戸時代は地方でも富豪や知識階級が多く、都会の最先端の学問、文化、芸術を吸収する意欲がものすごく高かった
年貢率は高いとはいえ、それでも文化を受け入れる余地は生まれてた
その結果なにがしかの才能があれば富豪や知識階級は旅人に宿を貸し、地方の横つながりで次に申し送りして、いくばくかの小遣いを持たせて旅立たせてた 移動が早い事から余程の健脚で忍者説があるのだよな。 >>65
明治生まれの爺ちゃんは、今で言う熊野古道を毎日2キロ往復して小学校に通ってたし、それが田舎では普通だった。
その当時で「健脚」と言われる人は相当な身体能力があったんじゃないかと思う。 そんなコロコロ国境越えられるなんて不思議だろ?
どう考えたって、幕府関係者だろ >>68
ふつうの旅(商人など)が30キロ+/日だよ。
熊谷〜大宮が1日(約34キロ)。
奥の細道の旅は夏なので、がんばれば50キロ弱歩ける。 夏草や…とか詠んじゃうだぜ、現代のポップスターみたいなもんだろ
行く先々でパトロンだらけよ
バンドマンを引き連れ全国ツアー、実際はそんな移動してないし
間宮の方が別次元に凄いし
松島なんてネームバリューが上がりすぎて、訪れたほとんどの人がガッカリしちゃう 紫式部「マンズリ夢小説すまんw」
藤原業平「京都人に道聞いたら嘘吐かれた死ね」
松尾芭蕉「なんもないなここ…奥の細道!w」
夏目漱石「東京出身の俺様に陰湿なイジメしやがった愛媛土人小説で晒したろw」
日本の文学ってこんなのばっかだぞ >>75
俳諧師は僧形。ようするに、形だけは出家して所属する寺の
身分証明書を持ち、修行名目で旅をする。 俳人にしては移動速度がやたら速い
ぶらぶらしてるように見えるときはなにか隠密行動やってたんだろう 幕府の隠密だからだろw
要するにスパイだよ。
表向きは俳諧人、裏の顔はスパイ。
日本の歴史教科書もデタラメが多い。
こういうことちゃんと教えないと。
坂本竜馬も同じこと。
本人が自覚してなくても、野心を利用されて駒として動かされる。 >>78
今で言うところのB'z
パク……何でもない >>50
40代位までは健康ならまだそれ程体力の落ち込みはないだろうな
50過ぎると日常でも影響出てくる そういや山中温泉に芭蕉さんがソラ君に怒られてる像があったな 日本三大有名になりすぎた奇説
・松尾芭蕉忍者説
・上杉謙信女性説
・明智光秀=天海説 松尾芭蕉が全国巡って俳句で悪代官こらしめるドラマつくったら視聴率取れるぞ! 隠密説があるが隠密と兼務していては、あの深い句は読めない
俳句など全く判らないが、なんとなく言ってみる。 >>70
いや普通に行商人や旅芸人、遊行人も対価なく泊めたらしい
明治時代とかにも続いていて、宮本常一とかは四国から大阪に遊びに行った乙女の話を書いてたり
そのうち勝手に居座って嫁になる、押しかけ女房みたいな話もあったりなw 東海道の駅伝があんだけ盛り上がるんだから
奥の細道も自転車ロードレースとかで便乗すりゃあ良かったのにな
現代なら三日くらいで走れそうだし >>11
問題はその送金方法
何ヶ月分もの旅の資金を現金で携えて江戸を出たのか?
ヨーロッパでは既にメディチ家の銀行がヨーロッパ各地に銀行を作って送金システムが確立されていた
ちなみに現在はクレジットカードの会社のアメリカン・エクスプレスは一般旅行者向けに旅先で使える小切手、トラベラーズチェックを発行したのがきっかけ >>20
この時代は短冊だな。
小倉色紙みたいな「色紙」もあるけどあまり一般的ではない。
明治になると今みたいな色紙が出来るが、当初は薄くて縁取りもなかった。 >>94
あまり深くない句も多い。
俳句ではなく俳諧であり、コミュニケーションツールなので。 >>17
パンピーでは到底無理ゲーな速度で移動していた。 俺は公儀隠密だぞって基本的には時代劇の偽黄門みたいな歓待ぶり
で逆に竹槍で追われることも何日もいつくといい加減にしろとほとんどそうなっちゃう >>61
全国漫遊なんてしてねーし
国から出たのは一度だけ 旅行予定が決まっていて
各地の芭蕉ファンである有力者の家に泊り歓待を受け
さらに寄付をもらっていただろ ユーチューバーみたいなもんか
そう考えたらムカついてきた 無知な馬鹿がトンチきかせて書いたつもりの書き込みがクッソつまらなくてサムイ 痔の持病があったのはお付きの空じゃないの??二人とも痔なの? >>113
ならテメーが面白いこと言ってみろや
言えんかったら殺すぞ >>61
水戸光圀は現役時代は江戸在府、甥に家督を譲ってからは水戸を中心に活動して、実際一番遠くに行ったのは江の島だとされている。 ケンペル 日本誌
江戸時代の中期、オランダ船に乗って日本に来たドイツ人医師。
オランダ人らと長崎から江戸の往復旅をしている。
瀬戸内海は船で移動。他は街道を馬に乗った。
日本の道はいつも左側通行が徹底していて
道は清潔だったと書き残している。
左側通行の理由は、反対方向の人と刀が
ぶつからないようにするため。 >>98
日本では江戸時代にすでに為替が浸透してます。 世界中を旅して周ってるバックパッカーとかもどうしてるのか謎だわ 関所とか普通に通れたのかね?江戸時代は庶民でも伊勢参りはフリーパスだったみたいだけど 痔だったから極力馬は使わないで、徒歩移動だったそうな。 >>127
江戸時代に馬に乗って移動できる庶民はいません 公儀の忍者だったから、金は幕府から受け取っていたんだろうな
それに庶民だったら、関所とか通れないしな
今と違って、他の藩領に入るのは容易ではない時代だからな >>116くだらん
>>117つまらん
>>121アホくさ
>>122おまえはいらん 義経が頼朝から逃げて奥州に行って松尾芭蕉になった説 今だとユーチューバがアップしながら旅費を稼ぐ感じか!? 痔というのはやっぱりあれか、同行者の前野良沢だっけ?の受け入れすぎか? 普通に考えても忍者じゃなければ
旅費という大金を普通の人間が持って旅してたら
盗賊に殺られるしな そりゃ地元を題材に一句詠んでもらえたら観光地になってしまうぐらいだし 山中温泉、去年行ったけどよかったわ
3月に行こうとおもったらコロナ騒動であきらめた
またいずれ行ければいいなぁ 江戸時代の奥州北陸は江戸見廻組の庄内藩とか京都新撰組の本拠地会津藩とか八戸藩盛岡藩(南部)久保田藩(佐竹)米沢藩(上杉)仙台藩(伊達)中村藩(相馬)加賀藩(前田)名門揃いやぞ… それ以前にあの時代にそんな広い地域で有名ってのが不思議 ググれば秒で理由がわかるのに
かたくなに検索を拒否して
自分のくだらない妄想にひきこもる老害
5CHは脳細胞が崩壊したバカばかり 山中温泉の後に隣の大聖寺で一泊した寺がまだ残ってる
寺を出る時坊主たちにねだられて一句残してるけどあれが宿泊料みたいなもんか >>81
イギリス人に酷い差別されまくった恨みでヘルシングでイギリス壊滅させたヒラコーみたいなもんか >>150
せいぜい神奈川までなのを大袈裟にしてるだけだぞ 松尾芭蕉は実は女の子
時には体で払っていたんだろうね >>3
そう思う。日本中あちこちに出向き、情報招集していたとか。 富士講や伊勢参りは庶民でも行けたみたいだけど、東北や北陸なんかは庶民には無理だっただろうな。
薬売りみたいな職業なら色んなところに行けたようだが。 このオッサンは今で言う中共や韓国の土台人スパイと同じで、一説では松尾は中国人で徳川忍びの外人部隊だったらしい >>148
ググって出るような過去の死んだ話する場所じゃねーぞここは 松尾芭蕉のトーチャンが伊賀の土豪でカーチャンが百地氏の血筋
また、伊賀上野城代である藤堂采女は服部半蔵に成り代わり伊賀忍者を統括しており
芭蕉が仕えていた藤堂主計良忠は采女家の一族筋
松尾芭蕉が忍者だったとしても別に不思議ではない
また松尾芭蕉=服部半蔵という都市伝説があるが三代目半蔵正就失脚後は
桑名藩家老となった弟正重が四代目半蔵を名乗りそれ以降服部半蔵は桑名藩の服部一族が継承する事となる
ちなみに藤堂采女は服部半蔵と親戚同士だから松尾芭蕉が服部半蔵を名乗ることは
トヨタの子会社の平社員がトヨタ紡織の社長を名乗るようなもんやで 先祖が武士の身分を隠し行商しながら近隣諸藩の動向を探ってたという伝聞がある
こういう話が実際に残ってるから松尾芭蕉が忍者や間者であっても驚かないなあ 戦国時代はアッーが盛んだったらしいけど江戸時代もあったの? >>168
過去のこともわからずにバカが妄想にふける場所だよねーー >>10
ちょっと古いけど、知性と柔軟なエッチさを感じさせるので評価します。 >>36
薬売りも移動売春婦集団の長も間者として有名だがどっちも目立つだろ? >>172
武士の日記に
武士A「殿結婚するってよ?相手は〜の姫様」
武士B「あの姫ビッチじゃね?」
武士A「殿ガチホモだから世間体に問題が無い家の女なら誰でも良かったみたい」
武士B「そういえばCが出世したのは…」
武士A「尻穴を差し出したらしいぞ?」
みたいなのが残ってるそうなw
バイがデフォでガチホモとガチノンケが少数派 >>160
同行してる河合曾良はその後公式に幕府調査官をやってるわけだから、
そもそもこの俳人の師匠と弟子の正体はは隠密の師匠と弟子でしたの可能性が高いよね。 >>37
清が住み込みでバイトしてましたって場所もある。 >>164
中韓に限らず江戸時代の日本でも間者なんて幕府や諸藩も使ってただろ
昔の人を舐め過ぎだお前は >>36
目立つから誰もそいつが間者だなんて 思わないんだろ 為替だってあったし
全国にスポンサーは居るし
困るわけないよね 松尾芭蕉がYoutuberだったら
収益で全国旅行 >>36
ネットが普及するまでは、「その国ではだれでも知ってる当たり前の事」が
十分「スパイがもたらす情報」として価値があったわけだし。 外部の人間の出入りが特に厳しかった薩摩藩に行ってほしかった 外国人でも知ってるくらい有名な隠密
(エックスメンの忍者マツオ・ツラヤバ) >>156
間違いなく、とらさんを撮っていた山田洋次
最近だと位置偽装せずにドラクエウォークを遊んでいるyoutuber 昔のガソリンスタンドでもあったな。
離れた地方で給油すると、ナンバーを見られて地元の相場を質問される。
江戸時代の通信網は米相場の旗振りくらいしか無いから、
他地域の一般的な情報を持っているのは旅行者に限られる。
しかし時間旅行して情報屋で儲けるなどもってのほか。
幅広くいろんな情報を持っていると隠密と認識されて斬られる恐れが高い。 >>1
>痔の治療
あのー 稼ぎかたわかっちゃったんですけど。 >>164
うん
二松学舎の先生が飲み会で作ったデマカセね
旅程が恐ろしく早いのは歩きで計算してるから。
籠や馬子、河川の水運で行くと無茶でもなんでもない
まあその矛盾から「忍者だったんじゃね?ゲラゲラ」って飲み会で笑ってたのを、
公儀隠密で東北諸藩の視察してたってヨタ書いたら、
西田敏行主演でドラマにまでしやがった
水戸黄門が諸國漫遊世直し旅してたってやつのパクリのネタ話だよ
8尺様が元ネタAAの八等身って知らない奴が出てきたみたいでワロタ >>26
東京から歩いて東北行って戻ってくるとか、考えられない
ろくに道路もないのに。野道みたいなところずっと歩くとか お控えなすって
ってやつじゃないの?
寝床と弁当持たせてくれる的な >>172
江戸時代前期までは盛んだったけども中期くらいで廃れた
ただ無くなったわけではないので陰間茶屋なんかもずっとあった 鷹ひとつ 見つけてうれし いらご崎
旅費は弟子が援助したらしい。 芭蕉には各地にファンの支援者がいて大農家とか商家に泊まり歩いていたんだよ
ついでに俳句会開いたりして路銀も貰ってたんだろ >>208
実際、地方の田舎庄屋の家でも3日ぐらい滞在していた。
那須では高久家に滞在、それも温泉に行く為の通過点でなんもない家。
「落ちくるやたかくの宿の時鳥」
わざわざ、高久(たかく)の苗字を入れるなんて、今でいうスポンサー名と一緒。
タダ飯、タダ風呂はもちろん、苗字入りの俳句なんて、かなり高価だったんじゃ?
田舎庄屋も「我が家には芭蕉先生が泊まり、その証拠に名入りの句もあるぞ」と後世にも自慢出来るしね。>>208 公儀の隠密方の仕事を請け負ってたって話もあるし句会開いて上げ料貰うなんてのは当たり前だし別に不思議に思うとこはなかろう
これを疑問に思うやつは自費遊学とかしてた連中はどうやって金を稼いでたかなんてもっと不思議だろう 武芸者や算学者などもそうだったが、村に招かれて指導して
お金や宿泊、食事を提供されていた 昭和中期までは商人宿というのがあって格安で泊まれたけど、今はもうホンモノの商人宿は無いんじゃないかな 箱根も江戸時代は痔主が養生しに来ていたんだよ
妖怪の尻目とかいうのもたぶん痔主だと思うわ 奥の細道の頃は多くの門人を擁する大家だろ。花千骨の掌門ぐらい偉い人。 江戸時代の村単位の生活で外から何か知らんけどエライ先生が来るってすごいイベントだろな >>161
かなりの数、残っている。悪筆と言いたい水茎だ。 >>206
森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」読みなよ。 >>217
総武線各停かな、乗っていたら線路の北側に
なんと屋根に「商人宿」とでかく書いてある建物を見た。
たぶん、千葉県内。津田沼より都内より。 > 山中温泉に長く滞在した別の理由。
> 実は芭蕉は痔の持病があり、山中温泉につかって痔を癒したのではないかと言われています。
闘痔の旅だったのか >>229
そんな建物あるんだ。千葉市民だから今度都内に出る時に注意して見てみる >>50
45なら大丈夫だろ
筋力特に持久力は若い者には負けない
心肺能力や回復力が落ち始めるころ
目の衰えも始まるけど 「曾良さん、あそこに金目のものを持ってそうなご老人がおりますな」 ソラ、ソラはいるかい
シュタッ、はいここに
お金を集めておいで もと忍者だったので高齢から全国走っていっきに回りきったそうワニね 坂本竜馬も同じ意味で不思議なんだ
ものすごい手紙魔でかなりの距離でもいくつも手紙を出している
あの時代手紙は飛脚の手で運ばれていたからとても高価で
普通は出せないものだったが
竜馬はどんだけ金持ちだったんだよぐらいに
大名よりも手紙を出していた 大抵の宿泊先は俳句好きの大金持ちだから旅費は掛からないし、お小遣いももらえただろ >>37
恵んでもらったり、手伝いの駄賃をもらったりして結構な額の小銭は持っていた。
が、親切な人に泊めてもらったり、飯をごちそうになったり、野宿したりで金は
ほとんど使わなかったそうな。 >>242
ともだちいっぱいいたんじゃね?
「今度○○に会いにいくんだ」
「あっじゃついでにこれ渡して」 江東区芭蕉記念館は昔行ったことある。こぢんまりとしていたが川沿いの落ち着いた感じがよかった 現代の感覚だと旅するのに大金が必要だけれど
江戸時代は、それほど金銭を持たなくても旅はできたと思う。
まず、移動の手段が徒歩だし 酒と旅を愛した明治の国民的歌人・若山牧水も全国の愛好家から招待されて旅を続けてたんだよね。
行く先々で酒を呼ばれ歌を詠み、そこでいただいた祝儀が収入源だった。
酒の飲み過ぎで早死にしたんだけど、真夏に死んだにも関わらず体内に残ったアルコールのせいで
遺体が腐らなかったと言われている。
↓ にもあるように、全国どこへ行っても牧水の歌碑があるね。
牧水の歌碑は全国に約300基(2010(平成22)年現在)確認されており、
その数は歌人の中で最も多く、旅を愛した牧水の足跡、人気をうかがうことができます。 庄屋の家や寺に泊まる
寝泊まり飲み食いただ
時々近隣の金持ちが来て揮毫を頼まれる
その度に臨時収入が入る
出発するとき餞別もらう
テレビのない時代だから、どこへ行くにもただでいけただろ 芭蕉「すいません。ちょっと充電だけさせていただけませんか・・・え!?食事?いただいていいんですか」 痔主だったのか
松尾芭蕉の奥の細道は金策に使い過ぎてもうボロボロなんだな 昔の日本人ってどういう生活してどういうコミュニケーションとってたのかな?
どんな喋り方してたんだろ?
今のおれがタイムスリップして芭蕉と話して会話通じるかな? 語尾にとりあえず「ごさる」付ければイケる
と言うか昔は方言の方が分からないかも(;^ω^) >>257
芭蕉みたいにいろんなところ訪れて、よく言葉通じたよね? >>14
元カレが蝉禅参加なんか言う名前だった
奥の細道を一緒に旅したのは借金まみれの男(逃げた)
蝉の声〜って句は元カレが死んで詠んだって説がある 亡くなったのは大坂の寺やな、今は御堂筋が拡張されてないけど、碑があったはず
天王寺辺りにあった日本初の料亭『浮かむ瀬』で句会を開いてたから
そこで資金集めてたんやろ >>256
東海道中膝栗毛を読むと今で言う江戸っ子言葉で話している感じ
落語口調が日常な感じかな
幕末に近いけどな すげー人だったんだろうな
アナログの時代にファンに支えられて旅できるなんて >そのお金は門人(弟子)の曾良などが工面していました。
>旅費のほかにも、句会の出座料、加点料、短冊や色紙に書いた際の報酬を手配していました。
曾良さん、めちゃくちゃ有能な秘書だなw
芭蕉さんも旅をしながら、色んな所へ顔出して、
作品作って売って小銭稼いで旅費にしていたのか。 松尾芭蕉は、幕府の密偵
俳諧で金を稼ぎ旅費にあてたのでなく、幕府が経費として支給してた
同様にスシローも、政府の工作員
記者の報酬で生活してるのではなく、
官房機密費=税金を安倍からせしめ生活している
今も昔も、世の中には裏があるんだよ
松尾芭蕉は、忍者 スシローは政府の私設報道官 >>1
>山中温泉にも滞在しています。8泊9日と予定よりも長く滞在し
8泊9日の滞在は、奥の細道の旅程では普通のこと。
「曾良随行日記」には、もっと長期間滞在の記録がある。
@(江戸・千住を出発して6日後に早速)黒羽=12泊13日滞在
A須賀川=7泊8日
B尾花沢=10泊11日
C羽黒山=7泊8日
D酒田(途中で吹浦/塩越/に立ち寄り)=12泊13日
E金沢=9泊10日
奥の細道の旅は「のんびり、ゆっくり」したものであり、
長逗留=現地の弟子たちが宿泊料・食費を負担したのだ。 >>263
日本地図を作った人も幕府から支援が得られずに
最初は私財をなげうってたけれど
地図が出来てくると日本中の人にも知れ渡って当地に赴くと
先生ご一行様ご到着みたいになったらしいね >>55
>馬の尿(しと)する枕もと、な。
尿=バリ が正解。
読み方については「バリ」「シト」の二候補があり、以前から論争があった。
@バリ説
「曽良本・奥の細道」に「バリ」のフリガナがある。
「曽良本」は筆記者は不明だが、芭蕉本人が補注を施しているので「バリ」が正しいと思われる。
Aシト説
この句は「尿前の関(シトマエ)を通過した後の宿で読んだ」のでそれに合わせて「シト」である。
何よりも「バリ」は言葉として下品である。
以上の通り「バリ」「シト」の二説があったが、1996年に芭蕉自筆「奥の細道」(中尾本)が
発見され、そこに「バリ」とフリガナがあり、これにより読み方=「バリ」が確定した。 坂本龍馬の資金源は?
商船を購入とかあっさり出てくるが脱藩浪人がそんな金どこから? >>1
芭蕉は公儀隠密なんだよ
言わせんな恥ずかしい(´・ω・`) 「奥の細道」=諸国隠密偵察説(芭蕉忍者説)はナンセンス。
一番の理由は、芭蕉は大垣市で「奥の細道」の旅を終えたが、
そのままずっと近畿地方に滞在し、江戸へ戻ったのは2年後である。
1689年3月「奥の細道」出発/8月大垣到着して完結/9月伊勢神宮から上野/
11月奈良/12月京都から大津/1690年1月上野/3月大津/
1691年1月大津から京都/9月28日出発/10月29日江戸到着
江戸へ戻らない=幕府の使命であれば、当然、報告復命すべきところ、
それをしていない。
これが「奥の細道」=芭蕉の私的な行動、の根拠になる。 昔はさー 沖縄とか旅行すんの大変やったんよ。
住友のキャッシュカードは使えんし(銀行間提携がなかった)
閉まるの早いし(多分夕方6時と思う。24時間なんてもってのほか)
那覇の国際通りに一軒だけあったのかな。
今見たくなったのバブル終盤あたりよ、多分。 芭蕉=忍者説の理由に「芭蕉の歩行速度が尋常ではなく速い」がある。
さて、どうだろうか。
実際の行程を「曽良随行日記」が記録している。
訪れた地名と共に、移動手段=「歩行」「馬」「船」の区別も記録している。
「芭蕉 奥の細道事典」(1994年 講談社)という本がある。
その本では、行程記録と現代の地図を対照して「芭蕉は1日に何キロ歩いたか」を分析している。
例えば、
旅行初日=千住〜春日部(1日)26キロ
2日目=春日部〜間々田(1日)38キロ
こういう様に「芭蕉の1日の歩行距離」を分析している。
この本から、以下に、間々田〜山中までの(1日)の歩行距離を全部抜き出す。
(歩行距離が短い区間=馬や船を利用した)
41/29/28/30/9/12/41/25/11/49/19/23
50/15/18.5/9/30/31/25/21/50/33/30
24/27.5/10/24/9/34/20/18/38/21/25
20/34/30/38/30/41/25/7.5/36/36/44
40/47/30/23
これで見ると、芭蕉は1日に50キロを歩くこともあった。(2回)
一口に「並足1時間1里」=普通に歩くと時速1里=4キロ、と言われている。
50キロを歩いた行程は「曽良随行日記」によると「朝7時半出発〜夕方18時半着」となっている。
つまり11時間で50キロの移動であり「時速4キロ」ではややキツいものの、不可能ではない。
結局「芭蕉の歩行速度が尋常ではなく速い」のではなく「やや速い」程度であった。 まあ、黄門は漫遊してないけど、「大日本史」編纂の為に配下を諸国に派遣してたんだろ
その経費は馬鹿にならず、水戸藩の財政を圧迫した ニセ芭蕉とか絶対いたはず。
おなじような頭巾かぶってたら… >>288
因みに水戸黄門に頭を下げ無かった悪人が2人いた。
京都の公家と長崎出島のオランダ人。
何も徳川家の家臣では無いから。 竹を細工してそれを宿代の代わりにしたんだろ
落語で聞いたわ 当時は、旅の者ですが一夜の宿を貸して下さいで大概借りられたんだよ。飯も出るし女房も差し出すのが普通だったんだぞ。 出川哲朗みたいな有名人だったんかな?充電させてもらえませんか?みたいな感じだろ? >>258
参勤交代があるから武士は江戸の言葉が理解できたはず サムソンビデオ、松尾芭蕉あばれ旅シリーズ
なんて企画考えた。 >>275
昔は田舎に旅する時は郵便局が頼りだった >>293
外との交流が少ない田舎の村だと血が濃くなりすぎるから旅の浪人とかに娘を差し出して新しい血を入れていたとか 那須では百姓に道を尋ねたら
このへんは道が枝分かれしていてわかりにくいから
馬に乗って行けと言って馬を貸してくれた
馬は慣れた道をとことこ歩いて行って立ち止まった
そこで鞍に礼金を結び付けてやると
来た道を帰っていった 弥二さん喜多さんも東海道中遊び放題だったが
金は大丈夫だったのか?
作り話ながら心配になるww >>295
武士および上級町人たちに共通のかつ必須の教養が
「謡曲・謡い」だった。謡曲は能(演劇の一種)のせりふでもあるので
さまざまなシーンがある。とりわけ自己紹介は必ず入っている。
このときの発音、そして謡をテンプレートにして固有名詞をはめ込む。
すると、言葉が通じる。 >>1
それ、吟遊詩人がどうやって生計を立てていたのかという質問と同じ答えだと思うよ マスコミなかったろうに、なんで
そんなに全国的に知られてたんだ? >>283
それがですね、ごく一部に反対意見の人がいる。
ただし、学会は諸手を挙げて芭蕉真筆としている。
(細かい話は省略する。) >>10
夜なのにry
芭蕉と曾良が同性愛者ってネタもあったな >>287
当時の紀行文、山賊に襲われ(そうになった)は定型句。
そう書くことになっていた。 >>270
馬小屋で寝かせろー
バリバリ
やめて! >>305
俳書の出版は奥の細道より以前、延宝というころには
きわめてさかんだった。田舎でも経済的に余裕のある百姓たち
(名主など)は盛んに俳諧を学んでいた。
手紙も、時間はかかるがまあ届いた。 芸術のつもりでいたんなら当然パトロンがいたんだろ
消費者がいない芸術なんてもんはない 当時の有名人だから芭蕉が来るってだけで引く手あまた。
ちょろっと句会開いて一句読めば路銀と宿飯には不自由しないわ。 >>318 借金ばかりして周囲に大迷惑かけていて
そして奇怪な幻想に基づく歌作もあるので、いわゆる統失気味で発達障害だったのかねえ・・・・
>>305
人の噂に戸は立てられない
噂話は人から人へ千里を行く 「いくらかかった奥の細道 −曾良旅日記を読む−」(戸垣東人著 2019年 雙峰書房)という本がある。
内容は、書名から判る通り、ズバリ「奥の細道」の「旅行費用」を計算したもの。
著者の経歴=東大・法学部卒/大蔵省入省/造幣局長を歴任/現・帝京大学経済学部教授
「造幣局長」=専門は「銭勘定」の人?かな。
本の細かい内容説明は省略して、結論を書く。
(1)旅行総費用 170万円(14両720文/1両=12万円)
計算根拠は「曽良随行日記」の日々の支出記録を積み上げた(全行程150日)
例えば、
4月21日 旗宿・出発〜矢吹・到着
@通常旅費(昼食等) 200文
A関所案内代 50文
B関山登山茶菓子代 50文
C川の渡し賃(阿武隈川) 20文
D宿泊代 200文
なお、この日は「二分金」を「銭」に両替した。
(2)携帯した金銭=せいぜい「小判1枚」或いは「一分金4枚」
「現金をどの様にして携帯したのか」の答えは「殆ど持たなかった」である。
当時の旅では「現金携帯」は危険であり、庶民はもとより(刀を差した)武士も用心が
必要であった。それで江戸〜京・大坂等の長距離移動をする際には、予め為替を組んで
おいて、行った先々の両替商で「小判」「分金」を受け取った。
小判は(金額が大きいので)そのままでは「宿」「茶店」「川の渡し」等で使うことが出来ない。
そのため、曾良は必要に応じて「小判」から→「銭」へ両替をした。
「曽良随行日記」には「小判を10回」「二分金を7回」両替した記録がある。
併せて「両替レート」も記録している。
(ドル/円の為替相場が時々刻々変動する様に、当時は地方毎に両替レートが異なっていた) (3)費用は第二次「芭蕉庵」を売却して調達した。
売却代金=50両
宝井其角(芭蕉の一番弟子)が自伝に「芭蕉庵を50両で売却した」旨を残している。
しかし50両全額が芭蕉の収入になった訳ではない。諸費用が掛かった。
著者・戸垣氏の計算では、
@売買の口利き手数料 3%
A町役人へ所有者移転登記手数料 2%
B売買を披露するための「宴会費用」(当時は宴会開催は義務だった!!)
結局、芭蕉の手取りは40両ほどだったと思われる。
半分=20両を「奥の細道」の旅費に充てて、(上記の通り14両720文)
半分を >>274 の「近畿地方滞在費」と「江戸へ帰ってからの当座の生活費」にした、
と思われる。 >>325
完全に幕臣
幕府御用で諸藩も慇懃に接待した >>314
>当然パトロンがいたんだろ
芭蕉を献身的に支えたパトロンが居た。
杉山杉風(すぎやま・さんぷう)
(詳しくはウィキを見てネ)
杉風は、生涯に渡り、宿舎(芭蕉庵)の提供・金銭の面倒等を行った(芭蕉より長生きした)
芭蕉が「長旅から帰京」「火災で焼き出され」てもホームレスにならずに、そのまま江戸で
普通の生活を送れたのは、杉風がずっと援助をしたから。 >>248
「曽良旅日記」の分析から、芭蕉と曽良は移動手段として貸馬を多用したことが判明している。
人間では到底歩ききれない距離を歩いた(?)日が多すぎる、など。
風流な俳諧修行の旅も、多くの弟子たちとその豊かな財力に支えられての旅だった。 芭蕉は、どう見ても公議隠密だからな 資金は幕府から出ていたのだろう >>323
貴重な情報ありがとう。国会図書館目録をひいた。
著者名は戸恒東人 さん。ふりがな無し。
本の元になったのは
>いくらかかった『奥の細道』
>掲載誌 学士会会報 2010(6) (通号 885) 2010.11
のようです。 なんと、wikipediaに載るほどの方でした。よみかたは、
「とつね はるひと」さん。 日本海側は歩いてもおもんないわーって書き残してたんだっけ >>333
奥の細道の大半は日本海沿岸(日本海部分は秋田〜福井)
それをおもんない言ってたら旅にならないよ >>177
史料的に見ると信長のお相手として有名な利家も蘭(乱)丸も長谷川竹も万見仙千代も一次史料には衆道関係にあったと言う記述はどこにもない
あくまで史料的にはだけど
利家に関しては亜相公御夜話の中の有名な鶴の汁の話に
利家がまだ若い時には夜も信長の寝所に侍って番をしたって記述しかなく
これだけじゃ正直衆道関係にあったかどうか判断するのは難しい >>1
名奉行 遠山の金さん も痔主
金さんは百石くらいの下級旗本なので、江戸城登城は馬だったのだが、痔で可哀想だから籠を許された。
金さんが桜吹雪の刺青をしてたとか、それが骸骨だったとか、チャンバラをしたは不明なテレビの創作。
痔主だったのは、文献という物証がある事実。中韓の証拠なき自国マンセーと反日と同じパターン。 芭蕉さんくらいの有名人なら何だって可能だよな
田舎に泊まろうみたいなもんだよ 芭蕉は「謎の人物」と言うが、俺としては同伴者「曾良」の方が何倍も怪しい。
「謎の旅人 曾良」(村松友次 2002年 大修館書店)による。
(1)曾良は「幕府側の人物」であった
曾良は、旗本・土屋一馬家の御用人「岩波庄右衛門」として、元禄4年(「奥の細道」の
2年後)に九州を巡検し、巡検使接待役・対馬藩士・三浦貞右衛門と対面をしている。
@「曽良随行日記」に巡検使として出立した記録がある。そして曾良は巡検使一行
(40人超)の路銀として、幕府から200両(!!)の現金を預かっている。
「曽良随行日記」は曾良の個人控えであり、「奥の細道」の終了後も何年にも渡っていろいろなことを記録している。(随行日記=芭蕉に随行は、現代の我々が勝手に名付けたもの)
A対馬藩士・三浦貞右衛門が「岩波庄右衛門」との対面の様子を詳細に残している
(2)曾良=「岩波庄右衛門」は「幕府の権威」を利用できる立場の人間
上記で「対面」と書いたが、実際は「詰問」である。
曾良は「今回の巡検のルート・訪問施設について聞きたいことがある」として、
三浦貞右衛門を「今すぐ参れ」と宿舎に「呼びつけ」て、三浦貞右衛門は「早速に参上」した。
詰問内容は「今回の巡検ルート・施設は前回と異なるが、その理由は何か」であった。
つまり「前回の場所に秘密の軍事施設を作ったので、それを見せたくないのでは」と
疑ったのである。(曾良は、10項目程の質問をした)
三浦貞右衛門は「岩波庄右衛門」様へ詳しく「お答え申し上げました」と、記録している。
それ以降の「岩波庄右衛門」の様子は定かではない。
巡検の途中、九州で死んだのか生きて江戸に戻ったのか。
生きていたとすれば、いつ・どこで・どういう役職で生涯を終えたのか、一切判らない。
以上は「謎の旅人 曾良」(村松友次 2002年 大修館書店)から。 (3)芭蕉の門人達も、曾良については詳しく知らない。
弟子達はお互いのことを記録している。誉め言葉も悪口もある。お互いがライバルで
「競争心」「やっかみ」があったのだろう。しかし曾良については「事務能力は高いが
句作はいま一つ」程度の記事で、曾良の氏素性については記録が無い。
つまり弟子達の間でも、曾良は「謎の人物」だった。
(4)曾良は「奥の細道」の終わりが近くなった所で突然、芭蕉と別行動をとった。
この辺りの描写は「奥の細道」を読んで、皆よくご存じのことと思う。
ところがその「別れた理由」が全く判らない。
曾良にとって「奥の細道」の満願成就を目前にして、それを棄ててまで果たさねば
ならない用件があった、のではない。「曽良随行日記」では滋賀県等のあちこち見物を
しながら、三重県・長島・大智院に到着している(住職が曾良の伯父)
かと言って、芭蕉と曾良は喧嘩別れをしたのではない。
@別れに際しては、お互いに切々とした句を交わしている。
A曾良は「芭蕉が間もなく旅の終着大垣に到着する」の報を受け、滞在先の長島を
早速に立ち→大垣へとはせ参じて→芭蕉の到着を待った。
B芭蕉が到着するや「死んだ者が蘇った」ごとく喜び、感激の再会を果たした。
一体何故、曾良は芭蕉と別れたのか?
どうにも「曾良とは怪しい奴」と思えるのだ。 芭蕉は純粋に俳人で、曽良がお目付け役の幕府隠密だったのかな それと全国の関所を簡単に通れる通行手形はどこからもらったんだ? 芭蕉は天才肌。
曽良は几帳面で神経質なA型の牡牛座。
曽良は途中で芭蕉についていけなくなったとおもう。 自己レスです。
大間違いをしていました。
>>341
×元禄4年(「奥の細道」の 2年後)に
〇宝永7年(1710年 「奥の細道」の21年後 曾良61歳)に あれほど観たいと切望していた松島をあわただしく通過。
一句も読んでない。
それでいて石巻港や瑞巌寺を執拗に観察―― まあ謀反の動きがないか
諸国をこっそり見て回る役目の人間は確実にいただろうしな
そんでバレないような職をつけてるだろうしな >>341
奥の細道に河合曽良とあるけど、フィクション奥の細道では他の人物も仮名変名になってる。
だから、名前からして河合曽良ではあるまい。 >>326
だからいつも先々で同じ料理(忠敬の好物と知られたもの)が出て辟易したらしいw おやおや、こんな面白いスレがあったのか
そしてスレをつらつら見ていたら……おおい>>353 くん
もうちょっとマジメに語りたまえw しかしワロタw どういう道中だよwww
まあね、なんでまた東北くんだりまで俳諧の徘徊旅行に出たかって
そういう話はあるんだけれどね、スレでもガイシュツの幕府隠密説とか、
しかし当代一の俳聖ってスパイにしちゃ派手過ぎないかなあwww
諸国の"弟子"をたばねるエージェントってところかね。草の者w
まあ確かに冷戦時代、文化担当のゴニョゴニョはそういう仕事をしがちであったとは
スパイ小説かなんかで読んだけどねw いろんなところ行けるしね。
そういえばガチスパイのサマセット・モーム先生は
まさに第一次大戦において劇作家として欧州諸国をめぐり
ガチのエージェントやってたんだっけw 現代人が同じ行程歩いた旅行記とかない?
以前日経新聞の記者が歩いてたような気がしたが >>356
>現代人が同じ行程歩いた旅行記とかない?
いくつかあります。
以下、私が所有している本です。
@奥の細道をたどる
井本農一 角川書店(角川選書)1973.04.25(昭和48)
A芭蕉「奥の細道」を歩く
山本 偦 柏書房 1982.06(昭和57)/1987.05改版(昭和62)
B続・芭蕉「奥の細道」を歩く
山本 偦 柏書房 1982.08(昭和57)/1988.06.01改版(昭和63)
C芭蕉 奥の細道事典 講談社+α文庫
山本 偦 講談社 1994.05.20(平成6)
ABCは著者が同じです。
AとBを合算(但し、写真を全部削除)+新規記事を追加して→Cにまとめたもの。
記述が「しつこい」ことに加えて、著者自身の考え=「私はここは○○だと思う」
「ここは△△と解釈すべきだ」等の押し付けがあり、読むことが面倒になります。
あまりお勧め出来ません。
お勧めは@です。
記事内容は「古い」です。著者が、昭和25年〜30年に掛けて少しずつ「虫食い的」に
訪問した記録を→昭和31年と32年に2冊に分けて刊行→それを1冊に合算した本です。
420頁にも及ぶ「大冊」ですが、文章が読みやすくて、どこからでも読むことが出来ます。
「奥の細道」の行程と同時に、半世紀以上も前の「古い日本の状況」の取材ルポにも
なっており、その点も興味深い記事になっています。
既に絶版ですが、ヤフオクかアマゾンで購入して下さい。それほど高くはありません。
(ちなみに私は古本屋で270円で購入しました)
上記以外にも何冊かある様ですが、所有していないのでご紹介が出来ません。 堂々と歓迎されて隠密ができるからな。
手紙を頻繁出しても怪しまれないし。 戦国時代、連歌師はスパイの代表格の一つだったらしいな。
支配層に接触出来て情報収集が容易。 隠密のために俳句を始めたのか
俳句の達人に隠密を依頼したのか。 ファンから金巻き上げてるダメなユーチューバーをイメージしてしまった たとえ当時100万円相当の援助をしても
もし芭蕉が書いた俳句が残っていたらその数倍になったから
残ってた家はホクホクだよね ドラクエ方式なんだろ
タンスを開けた→なんと3ゴールドみつけた >>364
政治経済色々あったから単純に言えないが、百万円相当額を江戸初期から
運用していたとして金利1%の複利計算で考えると・・ >>357
+α文庫自体が、ロクデナシばっかだよね。
肛痰社ならでは、と言えばそれまで。 >>270
やっぱあの馬の尿の句は、尿前とかけてたんだな >>82
それで仏僧スタイルだったのか!
ところで芭蕉自身はリアル仏僧でもないのに、妻帯してないね。
身の回りの世話も弟子(男)がやってるし・・・ ああ、大阪で客死せず、山陽道も歩いてくれたらなあ!!
先祖の屋敷は、当時も今も旧山陽道に面してる。泊ってくれてたかも! お墓は滋賀県大津市に
あるんだよ
なんでか知らないが 行く先々で松尾芭蕉が立ち寄ったなんたらかんたらの立札見るけど嘘くさく思ってる >>3
実際問題
忍者ってそんなに簡単に移動できるの?
藩の関所とか厳しいんでしょ? 隠密云々言ってる人多いけど、公儀の内偵してたのは曽良じゃない?
前職でそのテの仕事してたよね
芭蕉はそれにのっかってたか、臨時雇でやってたかじゃないのかな まあ、田舎は娯楽ないしテレビなんかない時代だからな
江戸や京なんかから来てちょいと面白話をしてくれるだけで大歓迎だったんだろ >>338
薩摩藩なんて、江戸時代前期は大阪まで船を使っていたのに、
江戸中期以降は九州路・山陽道・東海道と、全行程を歩いている。 昨日に引き続いて芭蕉スレ、おもしろいwww
おっと>55 くんや>>270 くんや>>373 くんが
ウリの好きな句を言及しているがw そう、あれ、いいよなwww
ノミシラミ 馬がバリする まくらもと ってねw
いやあきちゃないきちゃないw
たしかスレでガイシュツの通り地名、尿前と
かけた句だったと思うよ。なんつー地名だって気もするけど。
ついでに確かこの句ね
諸作は「バリする」ではなくて「バリこく」だったんだけど
あまりに品を下し過ぎるってんで改めたんじゃなかったっけ? うろ覚えだけど
ニホンゴムズカシーネー あとスレでは山下清画伯についての言及があるが
画伯はね、ドラマとかだと現地で写生とかしているけど
実際はね、ほとんどは家に帰ってから記憶で描いているんだってねw
やっぱり天才ってのは違うなあと思うけどね。
かたや芭蕉翁はまあ吟行だからその場でしょ。
そもそも俳句ってのがそういうもんだから。
俳句はそもそも連歌の発句でしょ。
連歌なんつったら曲水の宴じゃないけど即興性が命なわけで。
それはまあうんうん考えてひねるのって野暮だよねwww
>>387
そういやソラくん、途中でいなくなっちゃうんだよね
ドラクエの王子じゃないんだからw そんなのありかよwww
>>376
何も見ないで書くから間違いかも知らんけど
木曽義仲尊敬しているんでその寺に、って趣旨じゃなかったっけ。 既に有名人だったし各藩や各地域に歓迎してくれるような金持ちは
結構いたんじゃないの?
そこに要所要所で立ち寄ってれば十分なんじゃないの?
先人の西行さんもそんな感じだったんでしょw >>396
別にウリは芭蕉翁じゃないし、それほど読み込んでるわけじゃないから
勝手なヨタをいうけどね、多分木曽義仲が平家物語で一番カッコいいからw
国語の授業とかでやんなかった? 平家物語の木曾の最期。
これねえ、読んだことないなら幸いだ。今から読むといいよ。
日本文学史上、滅びの美学を表現した最たるものだね。
木曽義仲、腹心の今井四郎、愛妾の巴御前、みんなかっこいいよな。
(そして討死の手塚太郎はいいとして手塚別当、逃げるんすかそこでw)
およよ…また連投規制が出たから予断を続けよう。
ウリもね、リアルでこの平家物語木曾の最期の引用とかやるもん。
疲れてる朝とかさ「日頃は重くない作業着が、今日は特に重く感じるぞよ」とかさw
「お、平家物語っすか」とかわかってくれる人とか誰もいないけどねwww >>391
鎖国で都会能力が減じたので船舶利用は危険と判断する世
うになったからかな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています