>>733

籠城戦はほとんどの場合、味方からの援軍である「後詰め」が来ることが前提の戦術なのです

例えば、B国がA国を攻める場合、B国は国境沿いにあるA国の支城を攻めていきます
攻められたA国の支城は敵の襲来をのろしや伝令などで本城に連絡
報せを受けたA国の領主は支城を助けるために援軍を送ります

この援軍を後詰め軍と呼ぶのです
城を囲む攻城軍の後方から後詰め軍が来ると、挟み撃ちが可能になります

本城が支城に後詰めを送ることは義務のようなもので、
籠城軍の役割は敵を倒すことではなく、「後詰めが来るまで城を守ること」
つまり籠城は時間かせぎで、勝敗は攻城軍と後詰め軍の戦いで決まるのです

──さてさて、がんばって籠城しているうちに後詰め軍が近づいてきました
これで攻城軍が「引け、引け〜い!」と撤退すると後詰め成功&勝利
撤退せず、「迎え討ってくれるわ!」と攻城軍の主力が後詰め軍と戦うと「後詰め決戦」となります

桶狭間の戦い、厳島の戦い、長篠の戦いなどもこの後詰め決戦で、
籠城戦があったからこそ劇的な勝利があったともいえるのです
長篠の戦いは、領土拡張を目指す武田勝頼に攻められた長篠城主・奥平信昌が徳川家康と織田信長に援軍を求めたことが発端
この救援要請に応えた家康と信長は3万超えの兵を率いて長篠城(愛知県)へと出陣
長篠城から4kmほど西に位置する設楽原に布陣し、武田軍と激突したのです