【歴史】「西では極悪人、東では神様」 平将門にみる日本人の歴史感覚 [樽悶★]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
平将門の墓は「東京都千代田区大手町1-1」にある。高層ビルが建ち並ぶビジネス街のど真ん中に、平安時代中期に「新皇」を名乗った豪族の墓があるのだ。京都では極悪人とされた人物の墓が、なぜ東京の中心地で守られ続けているのか。民俗学・文化人類学者の小松和彦氏が解説する――。
※省略
■「新皇」を名乗り、関東の分国化を目指した
平将門とは、平安時代中期の関東地方の豪族で、承平・天慶年間に起こった平将門の乱(935―940)を起こした中心人物である。桓武天皇の子孫にあたる平良将の三男として生まれた将門は、父の早世後、所領や女性問題をめぐって、筑波山麓地帯に勢力を張っていた東国平氏の族長的な存在であった伯父の平国香(くにか)や平良兼(よしかね)たちと激しく対立し、互いに武器をとって戦うようになった。戦いを繰り返すなかで次第に勢力を広げ、宿敵・良兼の病死後は常陸(ひたち)一帯をその支配下に収め、やがて朝廷側から見ると公然たる反国家的な行動をおこなうようになった。
そして、ついに天慶2年(939)、将門は常陸の国衛(こくが)(国司の役所)を攻撃して焼き払い、さらにその余勢を駆って下野・上野以下の関八州の国衛を制圧した。そして「新皇」を名乗り、関八州の国司を任命して、朝廷の支配から離れた関東の分国化を目指した。しかし、将門の関東支配は数カ月しか続かず、朝廷側の藤原秀郷(ひでさと)・平貞盛(さだもり)らに追討される。
その首級(しゅきゅう)は京都まで運ばれて、獄門にかけられたという。
■京都側のイメージ「将門の死=神仏の罰」
後世の人びとのあいだで語られる将門には、異なる視点から形成された二つのイメージがある。一つは京都側のものである。王朝文化が花開こうとしていた時代、京都から遠く離れた坂東(ばんどう)の地で起こった反乱は、京都の天皇・貴族たちを恐怖のどん底におとしいれた。それは将門が京都にまで侵攻してくるのではないかという物理的恐怖をともなう、まことに深刻なものであった。
天慶3年(940)正月、朝廷は将門を極悪非道な狼籍者と断じて将門追捕(ついぶ)の軍勢を送り、また宮城十四門に兵士を配置して防御させ、さらには諸寺社や高僧・宮廷陰陽師たちに将門の調伏(ちょうぶく)(呪殺)の祈祷を依頼している。武力と呪力の双方を動員しての怨敵退散を図ったのである。
その調伏の呪術のやり方は、悪鬼(将門)の名前を書いたものを護摩壇(ごまだん)に投げ入れたり、賊徒(将門)の形代(かたしろ)である人形を棘のある木の下にくくりつけて呪詛するというものであった。すなわち、こうした呪術的コンテキストでは、将門の死は神仏の罰が下されたもの、つまり調伏・呪詛の呪法の成功というふうに理解されたわけである。
※省略
怨霊化はしなかったが、将門は京都の人びとのあいだで語り伝えられていく。賊徒として、悪鬼として、超人として、地獄に墜ちた罪人として。そして、そうした伝説のなかで、将門はどんどん神秘化されていった。
※省略
これほどの超人であった将門も一カ所、こめかみだけが生身であることや、影武者は灯火を通して影がないという弱点があった。これを愛妾・桔梗前(ききょうのまえ)の裏切りによって秀郷に知られ、敗れてしまうのであった。
このように、京都の人びとにとっては、伝説のなかでも将門は「敵」であった。しかも、将門は時代を超えて「朝敵」であり続けた。その烙印は江戸時代になって後水尾天皇から勅免が下されるまで続いたのである。
■関東側のイメージ「将門=悲劇の英雄」
京都の宮廷社会では、将門は朝敵であった。しかし、京都の朝廷に対して思うところがある人びとは、朝廷に反抗して敗れ去った将門に親近感を抱いていた。その筆頭に挙げられるのは、関東に古くから住む人びとである。関東に縁もゆかりもない下級貴族が中央から派遣されてきて、国衛の役人として権力をふるい、私腹を肥やしているのを快く思っていなかった。だからこそ、かれらは関東の「独立」を図った将門を支持したのである。京都政権に敗れたとはいえその志は高く評価され、悲劇の英雄として在地の人びとに語り伝えられてきた。
※省略
■例祭をボイコットした江戸っ子たち
ようするに、徳川将軍家のお膝元の江戸っ子たちは、天皇にこびへつらっている輩を将門の霊の威徳に背く人非人だと非難し、一文の寄付をするのも惜しみ、例祭をボイコットしたというのである。(続きはソース)
5/25(月) 9:15配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200525-00035560-president-soci
https://amd.c.yimg.jp/amd/20200525-00035560-president-001-4-view.jpg そうは言っても首塚周辺のビルは首塚方向には窓無いんやろ? 関東の独立を目指したという英雄に見られてるからさ
天皇に対する新皇
江戸時代は神田明神の主要神だが
朝敵なので明治にはずされて
また戦後、神田明神に端っことはいえ戻ってきた
本当の将門は単なるテロリストといえるかもだが
昔の朝廷なんてはっきりいってヤクザのボスなんでどっちが正統ともいえない時代 小学生のころ歴史人マンガで平将門読んだな
悲劇のヒーローみたいなタッチで描かれてて、いいやつなんだなって記憶しかないw 江戸幕府ができた時点で三河や駿河の人らがエラくなった街だし
明治維新で薩長が入ってきたし、そんな昔の崇拝残ってるの? 武士なんて強盗団と変わらんからな
将門なんて巻き込まれ型だからなおさら、比較して叩く要素がない
朝敵ってんで問題視されるのは当然だが うちのエリアだと神様扱いだぞ
成田山には行けないし胡瓜を輪切りにもしない (-_-;)y-~
地獄組のボス、名前なんやったかな。
飛田新地がどうとか言うてたT岡さんやな。 >>4
偃王の秘儀とかドーマンセーマンとかあったなぁ…
地方豪族やらが京に上って高位の貴族観てキレるのは、現代人が東京でデカい面曝す自称高所得な糞野郎にキレる感覚と然程かわらんやろ?
其れで居て桓武五世孫だか何とか言って皇室の権威翳して新皇を称した将門が滅び、始末した俵藤太の家系から奥州「藤原」氏が興り、潰した源氏嫡流も三代で断絶…平家物語が国民の古典になるわけやな。
菅公や崇徳院をも祀る京都に、将門も祀る義理なんざ無い。 >>14
そもそも西じゃ悪人かどうか以前に話題にのぼることもないしな
関東で怨霊扱いされてるのを聞く位で
>>15
関東って江戸幕府は東海の家康と関西から移住した職人と漁師達が作った街で
明治の東京は薩長土肥の西日本の人間が作った政府だからなあ
鎌倉幕府にしても北条氏が京出身の源頼朝を看板にして当てた一発屋だっただけだし 将門の時代は朝廷から見た東国は野蛮な国で蔑んでいたわけで、新皇なんて名乗られたら許せないだろ。
殺した後に徹底的に貶めた。 日本三悪人で、平将門と足利尊氏は名誉回復されたところがあるが、道鏡だけはデカマラ大魔王から復活できてないよな お前らよくディスりコメントかけるよな。
テラスハウスより怖くて叩きコメントなんて書けないよ (-_-;)y-~
アベマ競輪コメで芸人がつかかってきよった。
創価ヤクザっぽいな。 >>19
平安最初期に国軍を解体した朝廷が全部悪い >>29
そもそもそんな括りが一時の流行り廃りでしょ
全然共通点無いしw (-_-;)y-~
回覧板まだ来てないんやろ?
2Fの奴か、隣のM川が止めてるんやろ。
回覧板来たら、創価お断りの貼り紙をとるよ。 メガテン5早く出せよアトラス
将門公も頸を長くして待っておるぞよ (-_-;)y-~
日本版蚩尤(しゆう)みたいなもんやろ。
正倉院南倉宝物田上王記銘緑綾の袍(ほう)の双竜連珠紋って、
蚩尤退治の2匹の竜やと思うねんなぁ。黄帝の竜。 >>29
将門は名誉回復というより日本三大怨霊に昇格しただけ 西の人が将門知ってるとは思わんな。実家の方だと地元民は成田山行っちゃいけないとかで知名度あったけど。 (-_-;)y-~
蚩尤調べたら、饕餮も調べないかんで。
ちなみに、日本最古の饕餮紋様が出土しているのは種子島。
てことで、創価ヤクザっぽい芸人は北朝鮮ミサイルで、日本人競輪ファンを脅したんやな。 「西では極悪人、東では神様」
こういうのは大体後世が作り出した脚色だと思うよ
この先生が脚色したわけじゃないと思うけど D2メガテンではマサカドが最強キャラだよ
猛将マサカド グレード98
英雄マサカドグレード99
こんな特別扱いされたキャラいない 三大祟り神のうちの一人・・・ 崇徳天皇も忘れないでね >>1
将門お
かっけー
ちなみに成田山は将門追討のための神社
神田明神は将門を守る神社
両者は敵同士 >>1
>朝廷側の藤原秀郷(ひでさと)・平貞盛(さだもり)らに追討される。
なお、平貞盛さんが清盛さん達平家のご先祖様で、藤原秀郷さんが奥州藤原氏のご先祖様である模様 徒士戦の上手といえば↓にはいない九州武士。
弓射儀礼=歩射の成績(『中右記』、『吾妻鏡』)
1096年(京都にて)
140回中 11回命中、命中率7.9%、射手数14名 ※最高成績:源明国(多田源氏) 40%
1260年(鎌倉にて)
240回中 181回命中、命中率75.4%、射手数12名
『御的日記』の最高成績者 下河辺行平(下総国住人)、和田義盛(相模国住人)他
『御的日記』の最低成績者 橘太公忠(伊予、山城→相模) ←京都時代は弓の名手と呼ばれたらしいが、鎌倉ではビリ…。
鎌倉武士は騎兵戦の達人。馬上組討無敵の猛者熊谷、畠山、金子、朝比奈に騎射で名高い那須、結城、愛甲、下河辺。
騎射の中でも難易度の高い笠懸、より実戦的な追物射の成積ならさらに圧倒的な差が付いたはず。 >>26
室町幕府は栃木の足利が作った幕府だし
大坂は東海の秀吉が作ったみたいな話か ここは将門側で戦った城だよ、ここは将門が勧請して建てた神社だよ、という感じでローカル英雄みたいな感じだわ。 >>26
【文人1%、剣豪0の三大都市があるらしい】
橋下摂津守「学力もだめ、体力もだめな大阪の幕末、どないなっとんねん」
【幕末の学問】
『コンサイス人名辞典日本編』に採録された文人の出生地(塚本学/信州大教授/福岡県出身)
1801年〜1850年 ※江戸出生の大名は江戸生まれの人数に含まない。
江戸生まれ 73人
京都生まれ 11人
大坂+堺生まれ 5人
長崎生まれ 6人
その他 326人
幕末の大阪府は長崎市以下…
【幕末の武芸】
江戸(東京都区部)出身の幕末剣豪 → 男谷信友、勝子吉、寺田五右衛門、白井亨、高柳又四郎、千葉栄次郎、伊庭八郎、榊原鍵吉、山岡鉄舟…その他多数
埼玉郡(埼玉県東部)出身の幕末剣豪 → 秋山要助、岡田十松、戸賀崎熊太郎、中村万五郎
肥前国(長崎県)出身の幕末剣豪 → 中村一心斎、高尾鉄叟、渡辺昇
五畿内(大阪府+京都府+奈良県+神戸市)出身の幕末剣豪 → なし
幕末の大阪府は久喜市以下… 今の神田明神の変貌ぶりを将門はどう思って見てるんだろうな
大己貴命は間違いなく喜んでるだろうけど >>55
将門に追っ払われた源経基は、頼朝のご先祖だったな。 千葉県佐倉市に将門町ってのがあるけど特殊な地区扱いになってるな あいつは、早く生まれすぎたんですなあきっと。
いや、もっと大昔に生まれておればよかったのかも。 メガテン好きとしてはどうでもいい
時々個人的に参るだけだし 将門は教科書出るから西の人もまだ名前くらい知ってるだろうけど、太田道灌とか知名度ゼロだろうなあ。 後に生まれたほうが良かったんじゃないかな
この頃は、まだ朝廷のほうが強い 日本最弱畿内兵wwwww
『御堂関白記』
「斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し。依りて的を打たしむと云々。射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如しwwwww」
『山槐記』
「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww」
『吉記』
「於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww」
『吾妻鏡』
「所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww」
『愚管抄』
「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwwwww」
『吉田定房奏状』
「戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんやwwwww」 >>67
将門は裏歴史の伝説に強い側だからな
下総はやはり将門ゆかりの地だからいろいろあるのだろう
佐倉城は元々下総の中心地で旧城下町だから
古い由来がいろいろあるのだろう
市境を渡った反対側の方がメイン >>72
太田道灌の頃を知らないから西国史観主義者は
上杉謙信の行動の意味なども全然わからなくて
冬場に農作物ドロボウをするために南下してた、とか
わけのわからない解釈をする
自分たちがそういう性格なのだろうなきっと 西と言えば藤原純友だろう。
緒形拳によく似た男前だった男だ。
将門の君とも示し合わせていたんだよ。 >>9
小説を読めば気づく。将門は悲劇のヒーロー。
関東を守ってくださる神様だと。 将門公は没後1000年以上経っても
墓をどうこうしようとすると呪殺されてしまう日本最強の怨霊
というのが自分の印象 勤皇諸藩による皇国史観
・吉良義央 勤皇家(子孫は天皇三代に仕え左大臣に昇る)
・浅野内匠頭 勅使を私怨でほったらかしにし職場放棄した非国民
・赤穂浪士 朝鮮人(実際は半島で捕虜になったシナ人の在日三世)の仲間 藤原忠文とかいう七十近い無能爺さんを大将に選んだ腰抜け京都政府w
安心して!将門は栃木の鳥取氏系藤原秀郷が討ち取ったっペよ 西の田吾作の評価も東の田吾作の評価もどちらも歪んでるだろ。
極悪と言われるほど極悪でもなく神様と呼ばれるほど神様でもなく。
キリスト様の教え的には残念ながらおまえら以下の人間の屑だったろうな。 東の将門はかっこいいけど
西の清盛はアベも真っ青の私腹肥やし魔じゃん >>1
京都に天皇が住んでもいないのに
いつの時代の馬鹿話をしてるの? >>83
それ、気付いたのではなく、小説の作者の意図通りに洗脳されただけw
小説なんて、NHK大河ドラマと同じく、虚構だらけの創作物だから。 東京だと、将門、道灌は存在感が多少あるけど、俵藤太はまったく空気な感じ。北関東行くと違うんだろうか。 そもそも関東でも「こいつ小物過ぎてリーダーの器じゃないわ」と周囲の求心力失った結果たった数か月で討伐されたわけでな
死んでから生前の姿まで神格化されてしまったが メガテン好きだったので、東京へ行く時には、最初に行く場所だわ、神田明神は 蘇我氏みたいなものか?
地元では慕われてた
ゆかりの地名も残ってるとか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています