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黄河決壊事件
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黄河決壊事件(こうがけっかいじけん)は、日中戦争初期の1938年6月に、
中国国民党軍が日本軍の進撃を食い止める目的で起こした黄河の氾濫である。

「河南旱魃と民衆の離反」

作家の劉震雲によれば、1942年から1943年にかけて河南省では
水旱蝗湯(すいかんこうとう)と呼ばれる水害、旱魃、イナゴの発生(蝗害)、および湯恩伯による重税により、
300万人あまりが餓死した[32](オドリック・ウーによれば死者300万人、土地を捨てた者300万人、
救援を待つ飢えた人々は1,500万人を数え、河南の西部、南部、東部の順に伝染病の被害があったことも指摘している[33])。
この状態が続けば河南省は全滅していたが[34]、1943年の冬から1944年の春までの間に日本人が河南の被災地区に入り、
軍糧を放出して多くの人々の命を救った[35](ウーによれば飢饉の数年間、日本側は各地の食糧倉庫から食糧を放出し、
飢えた人々に食糧を調達していた[33])。そのため、河南省の人々は日本軍を支持し、日本軍のために道案内、
日本軍側前線に対する後方支援、担架の担ぎ手を引き受けるのみならず、
軍隊に入り日本軍による中国軍の武装解除を助けるなどした者の数は数え切れないほどだった[36]。

1944年春、日本軍は河南省の掃討を決定した(一号作戦)[36]。
そのための兵力は約6万人であった[36]。この時、河南戦区の蒋鼎文司令官は河南省の主席とともに農民から彼らの生産手段である
耕牛さえ徴発して運送手段に充てることを強行し始めた。
これは農民に耐え難いことであった[37]。農民は猟銃、青龍刀、鉄の鍬で自らを武装すると兵士の武器を取り上げはじめ、
最後には中隊ごと次々と軍隊の武装を解除させるまでに発展した[38]。
推定では、河南の戦闘において数週間の内に約5万人の中国兵士が自らの同胞に武装解除させられた[38]。
すべての農村において武装暴動が起きていた[38]。日本軍に敗れた中国兵がいたるところで民衆によって襲撃、惨殺、あるいは掠奪され、
武器は勿論、衣服までも剥ぎ取られた[31]。3週間以内で日本軍はすべての目標を占領し、
南方への鉄道も日本軍の手に落ちた[38]。この結果、30万の中国軍は全滅した[38]。

ウィキペディア「黄河決壊事件」
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