コロナ感染者は増加の一途を辿り、「同調圧力」と「自粛警察」がまたぞろ跋扈するのは時間の問題だ。
いつの時代も「世間」に抗えない日本人の闇を作家・古谷経衡氏が喝破する。

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では、なぜこのような措置が講じられているかというと、一にも二にも視聴者(あるいは聴取者)から
「この非常時にどうして“密”な状態で放送しているのか」というクレームが寄せられるからである。
要するに、日本社会全体の「同調圧力」に社会の公器たるメディアが屈したのである。

コロナ禍における日本社会の同調圧力は端的に言って異常であった。

自治体の窓口に「自粛要請を守らないで営業している」という通報が何百件と相次ぎ、
それでも自助努力で営業を続けるパチンコ店には投石事件が起こり、郡部の感染者は、
菓子折りを持って「感染したことを周囲に詫びる」謝罪行脚を繰り返した事案もあったという。これはもはやリンチであり、差別である。

だが、それをオカシイと言う正論は、まさに「空気」によって遮蔽された。

我が国における自粛要請には法的強制力はない。であるからこそ、「強制ではないから公的補償もない」という理屈が当初は先行した。
法的には、国や自治体が緊急事態を宣言しても「ウチは営業します」「私は普段通りの生活を続けます」の一声で拒否できる。
しかし、こういった健全で民主的な反駁精神は、強烈な同調圧力によって全て吹き飛んだ。

感染者はいわれのない差別を受け、特に有名人は、感染前の行動履歴を逐一取り上げられ、ワイドショーによって「不道徳」であるかのように報じられた。

極めて不思議なのは普段、「人権擁護」、「民主主義的傾向の護持」を謳っている進歩派が、
このような同調圧力に特段異を唱えず、「STAY HOME」に拍手万雷、賛同の構えを見せたことである。

同調圧力によって生じた私的制裁やメディアリンチの方がよほど「民対民」の私権制限であると思うが、
進歩派を含めた野党は、結局、コロナ特措法にも学校の一斉休校にも、科学的根拠が曖昧なまま賛同した。

翼賛体制とはこのようなことをいうのである。

1942年に行われた「翼賛選挙」の際、非推薦候補が見せた反骨精神は、現在の進歩派には微塵もない。
当時、非推薦候補として当選した議員こそが戦後民主日本の屋台骨を背負う訳であるが、このような気概はまったく現在の進歩派に見られない。

猫も杓子も「STAY HOME」と言った。自宅に居ようと居なかろうと、自称自粛者がすでに感染していれば何の意味もない。
コンビニや小売店ではレジの前に特設のビニール遮蔽板を造った。ところがちょっと角度を変えて横に逸れればガラ空きの無防備さで、
飛沫感染防止の根本的対処には疑問符が付く。

失笑したのはお笑い芸人のコントで、演者2人の掛け合いの間に白線を引き、「ソーシャルディスタンス」を表現する。
しかし、この演者が楽屋でもそれを貫徹しているとは到底思えない。移動時間はどうだろう。
マネージャーとの人的距離はどうか。舞台上でのみ社会的距離を保つことは非科学的である。

結局、これらは全て視聴者や観衆に対し、「とりあえず感染防止措置を講じているんです」と示すポーズに過ぎない。
そしてそのポーズは、クレームを防ぐための予防的措置であり、とどのつまり批判をかわすための方便に過ぎない。

結局は姿なき同調圧力に、科学的根拠なく大多数の人間が屈していたのである。
これに正面切って異を唱えない多くの日本人と、多くの人類を、後世の歴史家は嗤うだろう。

私たちがペスト下のキリスト教指導者を「中世的・非科学」と言って嗤うのと同じように。
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/08020556/?all=1&;page=1