🌟新羅本紀🌟

弥生後期 〜 古墳時代
 
高句麗が調子乗り出すまで百済を瀕死にまで虐め抜いた残虐新羅が
当時の日本国にボッコボコにされている様子、朝鮮半島側の記録
戦後長い間、 韓国忖度が続いてだれもが議論しなかっただけで
当時の百済人に呪われるほど憎まれた新羅が倭国人からボッコボコ状態
14年 倭人が 兵船百余隻で海辺に侵入。
57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。 姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。
其國在倭國東北一千里」 脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。(注:中国の1里は約400mであるので、一千里は400kmとなる。)
59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、 使者を派遣し合った。

73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三月に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。 (「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。

208年 夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍昔利音に反撃させた。
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、昔于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。

295年
春 王が臣下に向かって
『倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。
私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見
はいかがか?」ときいた。

これに対して、舒弗邯、弘権が
「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。
王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
これに対して、舒弗邯、弘権が、

▶「われわれは海戦に〔不慣れ〕でございます。
冒険的な遠征をすれば、 不測の危険があることを
恐れます」

※当時から海に不慣れな新羅人が明確。
この後も新羅、百済の両国とも人質を日本に差し出し朝貢する日本の被支配国である。