【古代】邪馬台国九州・畿内並存説、魏志倭人伝の矛盾を解く ★2 [樽悶★]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
歴史堂vol.12(朝日新聞出版、11月6日)の特集は「古代史の謎を解き明かす」である。初めての古代史特集だそうだ。「謎の女王卑弥呼の正体」は武光誠さん監修、「邪馬台国はどこにあったのか?」は仁藤淳史さん監修による。
※省略
仁藤さんは、九州説の拠り所である邪馬台国までの総距離(1万2000余里)を実際の距離ではないと否定する。八幡和郎さんがアゴラ記事(19年12月19日)で紹介しているように、魏志倭人伝は「帯方郡(現ソウル近辺)より邪馬台国に至るには1万2000余里」と記述している。九州の上陸地点である末盧国(東松浦半島)まで1万里、さらに伊都国・奴国・不弥国までを合計すると1万700里で、残りは1300里だから、邪馬台国は九州北部を出ないはずである。
これに対し、仁藤さんは、当時の中国の世界観では「1万2000余里」は異民族が住む世界の外れを指す観念的な数字であり、九州説は成り立たないとしている(15年の福岡シンポジウムでも同様の基調講演をされている。「纏向発見と邪馬台国の全貌」、角川文化振興財団、2016年)。
特集全体では畿内説支持のように見受けられる。纏向遺跡によって畿内説は勢いづいており、仁藤さんの観念的数字説で補強された形となっている。
■纏向遺跡は畿内説の根拠として疑問
私は纏向遺跡を卑弥呼の都だったとすることにも、「1万2000余里」を観念的な数字だから意味がないと割り切ることにも、疑問がある。
※省略
魏志倭人伝は不弥国から邪馬台国は里数ではなく、「南へ水行30日・陸行1月」と日数で記述している。わずか「1300里」に「水行30日・陸行1月」もかかるはずがない。しかも「南へ水行30日」で行くような所に「陸行1月」も歩く陸地は存在しない。明らかに魏志倭人伝のどこかが間違っており、邪馬台国論争が決着せず、様々な解釈が生まれる原因になってきた。
逆に言えば、「1万2000里」と「南へ水行30日・陸行1月」という矛盾がなぜ記述されたのかが解明できれば、邪馬台国がどこにあったのかも明らかになるはずである。
私は、邪馬台国が九州と畿内の両方にあったとすれば、説明できると考えている。九州は福岡の旧山門(やまと)郡(現みやま市瀬高町)の可能性が高い。畿内は纏向遺跡のある大和である。以下のようなストーリーだったのではないかと考えている。
■山門から大和への移住と交易
山門にあった「邪馬台国」の一部集団が、倭国大乱が収まった西暦180年ぐらいから瀬戸内海を通って、大和に移住した。彼らは移住先でも「邪馬台国」を名乗った。
移住があったことは、九州と畿内の地名が類似していることからもわかる。鏡味完二氏は「九州と近畿の間に、十一組の対の相似地名をとり出すことができる。…(それらの地名は)ヤマトを中心としている。…これは…九州から近畿への大きい民団の移住ということを暗示している」と指摘する(※「日本の地名」、角川新書、1964年)。
※省略
九州北部と畿内にはその後も頻繁な交流・交易があった。弥生後期に鉄器が九州北部から畿内へ、畿内式土器が九州北部に普及していった。山門と大和の邪馬台国の集団も両地域を行き来しただろう。九州北部から瀬戸内・畿内にかけて、国同士の緩やかな結びつきがあったと思われる。
■陳寿は2つの異なる報告を混在させた
※省略
魏志倭人伝を記した陳寿は「1万2000余里」「水行30日・陸行1月」という矛盾する記録に戸惑ったに違いない。魏志倭人伝は陳寿が記した三国志のごく一部である。推敲の余裕はなく、矛盾する記録をただつなげて混在させたと考えられる。
これが私の邪馬台国九州・畿内並存説の概要である。並存説はネットで調べたら先人がいた(※新邪馬台国論、大和岩雄、2000年、他)。私の説は2つの邪馬台国の成り立ちや、魏志倭人伝に2つが混在した理由の説明が異なる。
大和の邪馬台国は西暦300年ぐらいから大和政権に発展した。
一方、鉄器の普及に伴い、九州北部の優位性は失われ、山門の邪馬台国は狗奴国(熊本)によって滅ぼされた可能性が高い。大和政権が九州遠征して敵を討ったのが、景行天皇や日本武尊、神功皇后の熊襲征伐の物語になったのではないだろうか。日本書記には、景行天皇が九州遠征で山門の先の八女・うきはまで立ち寄って、女神が山中にいるという話を聞いたという逸話がある。大和政権は卑弥呼のことを懐かしんだに違いない。(浦野 文孝)
2020年11月22日 06:00
http://agora-web.jp/archives/2049033.html
http://agora-web.jp/cms/wp-content/uploads/2020/11/c7a065b061f367d5910e1813a91f4b3e.jpg
★1:2020/11/25(水) 22:57:29.05
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1606312649/ [歴史にドキリ] ドキリ☆ソング『卑弥呼』 | Eテレ | NHK for School
https://youtu.be/VeLfy08CZoI 中国と日本の歴史の書物には朝鮮半島の記述に関してはほぼ同じなのに、朝鮮人はそれを否定するんだよな 邪馬台国は縄文人で、縄文人は九州に多く住んでいたから九州だろ
弥生人は山口から近畿まで
戦争はそんなにせずセックス交雑してたから別に近畿に邪馬台国支店があってもおかしくない まだ言ってんのか、奈良だって
九州は西郷どんの写真でも探しとけ 九州説が論外なのは、邪馬台国が魏と外交をやってた国だということを無視してること
3世紀に編年される中国鏡が九州でほとんど出土しないのは、九州勢力が魏や帯方郡から
相手にされなかった悲惨な状況を示す
それに九州島では伊都国や奴国以外の場所には中国との交流痕跡もない
魏や帯方郡に相手にされなかったのに、魏と外交をやってたなんてありえない
結局、九州説のやつらは南の一点張りだが、九州にあったのは魏との交流もなかった雑魚勢力に過ぎない
その魏との交流もない雑魚勢力を邪馬台国だと言い張ってることになる >>10
そもそも邪馬台国は大きな国じゃなかった
だからこそ日本国の金印で喜んだ
ちょっと中国と交流しているだけの九州の小国 東パキスタン、西パキスタンみたいに
東邪馬台、西邪馬台と別れていたんだよ 3世紀半ばの倭人伝なのにこの記事は畿内に鉄器が普及した後世を混ぜて読むに耐えないな 本居宣長には倭人伝の世界に違和感がありすぎて、
こんなの日本じゃない、と思ったところが九州説のはじまり。
倭人伝の本文も邪馬台ではなく邪馬壱だったり、微妙にフィクション臭がする。 中国の歴史書「三国志」全文を読むかすくなくとも三国志の中の「魏書」
を全文読んでから出ないと魏志倭人伝だけでは資料が少なすぎる >>1
> 水行十日、陸行一月。「邪馬台国(やまたいこく)」はどこにあったのか。
伊都国(福岡県糸島市)
↓
水行二十日
↓
投馬国
↓
水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
古代では方角や距離は間違える可能性があるけど、日数を間違える可能瀬はゼロに等しい
つまり、この時点で(北部)九州の可能性が真っ先に消えることは猿でもわかるよね?
学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
もうみっともないからあきらめろよ >会稽東治の東の海に女王国
上海付近の東だから邪馬台国は沖縄説、それ間違いだよな。
中国から日本は見えない。朝鮮半島経由で邪馬台国まで行っても当時の地理能力では現実とは違って認識されてたのだから矛盾しない。 あのさ(´・ω・`)
海越えた割りと近くに
自分達がどうあがいても勝てない巨大な国があって
その国にお前んちどこにあるの?って言われたら
侵略するのは面倒なってくらいに距離盛るだろ………(´・ω・`) 朝鮮半島は金印をもらったことがない
格の違いを中国は認識していた 魏志倭人伝を読んでると九州しかないだろうって思うけど
前方後円墳の始まりと、そこから出土する三角縁神獣鏡を見るにやっぱ邪馬台国は畿内だろうってなるんだよな
あと投馬国の5万戸に邪馬台国の7万戸は九州内じゃキツいだろうってのもある 畿内は物証も状況証拠もなんにもないのよね
奈良で古代の桃の種が見つかりました!だからここが邪馬台国!🤗
みたいな馬鹿げた論文が堂々と発表されてしまうレベルなのよ >>24
使者は九州までしか行ってないから九州の描写しかないから九州だと思ってしまうだけだろ
九州説の馬鹿どもってこんなのばかりだ じゃなんで畿内の描写全然無いのに、突然邪馬台国は畿内になるの? >>28
突然?はあ?
邪馬台はヤマトだろ
隋書にもそう書いてある
前方後円墳の広がりや土器の移動を見ても畿内
邪馬台国が九州にあったのなら突然消えるのはおかしいだろ
なんの痕跡もないしな >>29
邪馬台はヤマトってのもよくわからんが、仮にそうだとして
それが畿内となんの関係が?
古墳の広がりと土器の移動、、、、それと邪馬台国の比定に
どう関連性があるのか説明できる? >>30
邪馬台がヤマトというのがよく分からないってキチガイか
朝鮮人か それが畿内となんの関係が?
日本史知らない朝鮮人か >>30
前方後円墳の広がりや土器の移動は九州が東遷したとか九州が支配していたということを否定するだろが馬鹿か死ねや >>32
おまえキモいから死ねよ
京浜東北線で飛び込め 崇神が畿内をまとめあげて
応神が富国するまでは
畿内ってド田舎状態なんじゃないの はぁ もちっと勉強してるやつかと思えば
ただの馬鹿、論争の入り口にも立てない奴は書き込むな
邪馬台がヤマトwwww だから大和に違いない
小学生かw >>37
論争入り口だ?
お前は何も示してないだろがボケ もっとしっかり理論武装した畿内派はいねぇのかよ
九州説コテンパンに覆すほど語ってくれや
バカと小学生相手じゃつまらんわ 魏志倭人伝の『邪馬台』、隋書における『邪靡堆』から察するに、当時の発音はヤマティとかヤマテョだったのかもね なんですぐに朝鮮人とかチョンコとかいう単語が出てくるのかねぇ
語彙が少ないおつむ? >>10
デタラメすぎるwww
3世紀中期の中国鏡はほぼ北部九州でしか産出しない。 >>24
思い込みが激しすぎる。
前方後円墳はトヨの時代以降が始まりで、
北部九州や生目古墳群が最古であり、
また弥生の耕地面積も九州の方が広く、
大和に7万戸なら北部九州に7万戸は余裕。 >>36
まず九州は紀元前の頃から荊蛮・南蛮・百越・山越などと呼ばれた多民族が
継続的に渡ってきてた、熊本の松野連の系譜には呉の末裔が紀元前400年ごろ
移り住んだと記録されてる
西から文化が運ばれ、それは日本でも同じように西から東へと移って行く
記紀はそれらを外国の正史と齟齬が無いように、描写してる 中国や畿内で多く出土する画文帯神獣鏡は
晋が呉を制圧した西晋時代以降に
生産された鏡であり、
鉛や微量元素の分析でも、
長江流域の銅山の銅であることを示しており、
ソレを裏付けている。
また、畿内で多く産出する三角縁神獣鏡も、
画文帯神獣鏡と同じ鉛や微量元素の成分量を示しており、
即ち長江流域の銅山産出の銅を使った鏡であることが確定しており、
西晋時代の鏡か、魏の時代なら呉鏡であり、
魏鏡とは考えられない事が確定している。 畿内説と言うのは、
画文帯神獣鏡と同じ鉛の同位体比やから、
三角縁神獣鏡も中国鏡で、
卑弥呼に贈られた鏡確定やドヤドヤワッシャッシャー!
とか言う、思慮の浅い学者が信奉する宗教であって、
画文帯神獣鏡と同じ鉛同位体比の銅なら、
長江流域の銅山の銅で、
ソレは晋が長江を制圧した280年以降に生産された鏡か、
もしくはそれ以前なら呉で作られた鏡で、
魏鏡たり得ないよね?
という考えに至れない学者が信奉する
宗教でしかない事を露呈してしまっているのである。 時代が変わってからの又聴きと少ない資料を基に陳寿が書いたからな。 >>942
火山? なにそれ? わははははは @阿波
>・・・もう100年続きそうだな。
いや、もうすぐその馬鹿論争も静まるよ。 「阿波」の登場によって。 わははははは @阿波 そのギシアンワニワニでんみたいな古文書はそもそも正しいのか 12000里を前提するのはありえない話だが、だからといって九州説が否定されるわけでもない >>50
中国古代の1里は今とは違うらしいからな。 >移住があったことは、九州と畿内の地名が類似していることからもわかる。鏡味完二氏は「九州と近畿の間に、十一組の対の相似地名をとり出すことができる
これは逆のことが言えて、畿内から九州征伐のためや三韓征伐のために九州に拠点を置いてるのだから九州に畿内の地名があったとしても全く不思議ではない
短絡的すぎる >>52
>短絡的すぎる
「阿波」から、畿内や九州に広がっただけのこと。 @阿波 >>51
というより、そもそも後漢書ではクシャーナ朝までの距離が洛陽から16370里
短里採用だと全く届かないし長里だと遠すぎ
参考になるわけない >>52
それは無理がある 古事記には九州の地名が3割も出てくる
大和朝廷の役人が天皇の権威を高めるために大和の地で
創作したにもかかわらず、大和の地名はほとんど出て来ない
これは何を意味するのかねぇ 帯方郡(ソウル近郊)から狗邪韓国(金官伽耶)まで7000里と書かれている以上、
1里は70m前後としか言いようがないだろ。
それに従って邪馬台国は山門八女とすれば、
南に4000里が小人の国侏儒国=種子島も距離方角共に一致する。 >>55
>古事記には九州の地名が3割も出てくる
後付け地名だよ。 @阿波 地名は、山門だけでなく、
対馬も壱岐も松浦も怡土・糸島も那珂・那の津も
宇美も妻・都間も球磨国も種子島も全てが九州に残っている。
豪族としての菊池も美々も生目もな。 >>57
おい 火山はどうしたんだ?無視するなら邪馬台国論争に入るな
それか納得できる反論探してこい >>58
倭(ヤマト)国とは、
日本で唯一、大和朝廷から「倭(ヤマト)大國魂神社・倭(ヤマト)大國敷神社」と名付けることが 「許された」ところ。
その心は、「阿波」が「倭の地」だったから。 @阿波 >>59
火山がどうかした? わははははは @阿波 これ、そもそも朝日新聞社編集だから、
狗邪韓国が日本だったと書いてないだろうな。
だから、距離の考察もあやふやになっているのは間違いないだろう。
私の様に、左翼メディアから完全自由な存在であれば、
帯方郡(ソウル近郊)から狗邪韓国(金官伽耶)まで7000里なら、
1里は70m前後であると言い切れる筈だ。
ソレが出来ないという事は、
何かの意図があって、そう判断できないと言うことでしかない。 >大和の邪馬台国は西暦300年ぐらいから大和政権に発展した。
これが既に嘘だろう
朝鮮から渡来した略奪者である天皇が日本に存在した邪魔な大国を
邪馬台国として、その国を支配する女王を卑弥呼、
つまり、卑しい弥生人としたことは明白だろ。
だから歴史上からも抹殺しようとした
天皇は豪族を暗殺して背乗りしたことは分かっているからな 松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として里と日を1/5して、距離と方向を合わせると次のようになる。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州—釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津—小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城—佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀—大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川—玉名 47km
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名—緑川 26km
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川—人吉 86km
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域—屋久島 315km
裸国、黒歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国 面積 100,210km^2
. もう埼玉でいいよ
古墳もいっぱいあるし
この話お終い 「学会では、魏志倭人伝で述べられている邪馬台国は、99%畿内にあったと確定していて、議論すら起きていない」って、本当なの? >>65
>もう埼玉でいいよ
いわゆる、関東忌部だ。 @阿波 根本的な事を言えば、
どれだけC14の改定によって、
庄内期を遡らせようとも、
奈良の庄内期には、
大陸と頻繁にやり取りした
考古学的な遺物が無いのである。
最初から、畿内説などと言うものは無い。
考古学に基づいて提唱されたものでは無い。 >>18
12世紀に2回復刻された三国誌しか認めない九州馬鹿
邪馬臺の「臺」は当用漢字、平成22年内閣告示第2号の常用漢字に
含まれないから「台」で代用してるだけ。
支那の古代文献に邪馬「台」という表記は無い。
邪馬「壹」が表わすのは「富士山」だ。 奈良は西は生駒山 大阪湾は淡路島と明石海峡で塞がれてる
西からの勢力が都を作るのは無理がある
東の勢力(今の名古屋人)が奈良に都を
作ったと考えるべき コレは後の古墳時代に、
大陸との交流を示す遺物が
畿内から大量に見つかって来る事から考えても、
庄内期の畿内は大陸との交流が無かった事の対比として
明確な証拠となる。 >>1
>九州と近畿の間に、十一組の対の相似地名をとり出すことができる。
それよりもさっさと邪馬臺国聯盟の30ヶ国に相似する地名を挙げて見ろ。 畿内説の本や論文は2014年頃を
最後に出版されなくなり
畿内説派と言われる考古学者の多くは
纏向学と呼ばれる地元考古学に転向している。
いま畿内説でググっても
畿内説はなかった、とか
畿内説の終焉、とかそんな本ばかりになっている。 3世紀中期は、北部九州が
大陸と頻繁に交流していた地域である事は
考古学的に確定した事実である。
また絹の一大生産地であった事もまた、
考古学的に決定している。 >>34
オマエにとって日本語の「てにをはへにで」の使い分けは難しそうだな>チョン そもそも奈良は西からの脅威に対応するため
第1の防波堤 淡路島
第2の防波堤 生駒山
に選ばれた都
九州から移って来れないよ んー…この話題になると、首に青筋立てて畿内論者が湧いてくるんだよなー…蓮ポーみたいに
それが実に嘘くさい 九州説みたいにもっとボ〜っとできんもんかね その余裕の無さが嘘くさいんよなぁ 棺あり槨なしも、北部九州が
甕棺墓埋葬文化を持つ地域であり、
また、中国・四国以東が
槨埋葬文化圏である事から、
畿内説どころか、吉備説すらも
完全否定する事が出来る。 畿内説は三角縁神獣鏡の出土が、
その説の主要な根拠であるが、
我々は、むしろその鉛同位体比をもって、
今現状の中国鏡であるとされる三角縁神獣鏡は、
長江流域の銅であることが確定し、
魏鏡たり得ないと言い切れるのである。
畿内説は、そういう思慮が出来ない学者が
唱えてしまう宗教としか言いようがない。
なぜどうしてそのような結論に至ってしまうのか?
を考察したほうがいい。 >>40
>当時の発音はヤマティとかヤマテョ
「堆」は「対馬」の「対」と同じ読み方。
麻雀で「トイツ=対子」とか「トイトイホー=対対和」と言うだろ。
魏晋時代と異なる漢字の読み方が始まったのは
永嘉の乱の後と安史の乱の後が大きい
いづれも北狄と呼ばれた万里の長城の北から侵入した蛮族が
黄河文明発祥の地である中原を支配したから。
そして元々中原に住んでた本物の漢民族は難民となって
南部に逃げた。
だから中原と江南の支那人が会話しようとしても
ドイツ語とフランス語、スペイン語、日本語と朝鮮語ほど発音や文法が違うから
意思疎通できない。 >>78
つまり古事記は嘘八百っつうことやね?神武東征なんざあるわけねぇと >>1
九州・畿内並存はないな、当時の畿内は未開の地
縄文系の人達が暮らしていて、文字も鉄器も普及していない。 安彦良和のコミックの「ナムジ」「神武」の設定パクリじゃん
秦の徐福によって開かれた九州の邪馬台国とその一部が漢の圧迫を恐れてさらに東進した大和
卑弥呼(アマテラス)は九州にいた、その後、九州の邪馬台国と大和の統合を図ったのが神武天皇の東征 >>56
帯方郡から狗邪韓国まで7000里とというのと
韓が方4000里というのも辻褄が合わんだろ
こんなことに矛盾を感じずに九州邪馬台国まで
1万2千里を信じてる九州馬鹿の馬鹿さ加減に開いた口が塞がらないわ >>86
韓はそんなもんだ。
主要部には漢や魏の楽浪郡や帯方郡があったからな。 九州からの東征は無理
奈良は西からは鉄壁の防御
東からの勢力が奈良に都を作った筈だ >>86
方四千里の四角を思い浮かべてみたらいい
帯方郡から南に四千、東に三千で狗邪韓国に到着する
倭人伝にもこうかいてある
從郡至倭 循海岸水行 歷韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里 秦氏弓月氏が支配するジャップ支配者おつかれ〜(笑)
お前らはユダヤでも無く、邪馬台国ですら無い中央アジアでウンコ食べてた汚いホラ吹き野蛮民族だから。
気にしない気にしない。 狗食う?(笑) 地獄はあちら >>84
未開は言い過ぎ
中華文明圏に属さない別の文明が栄えてただけだ そして南には狗邪韓国という日本があった。
これらの範囲を除いて、
クニがありそうな範囲を設定してみろ。
そうすれば、方4000里程度の韓が地図上に再現される。 【三国志地図】「幽州(ゆうしゅう)」の郡県詳細地図(三国時代)
https://three-kingdoms.net/18374
仁川沖くらいが魏使のスタート地点だな
玄菟郡=初期の高句麗の領土 昔から九州から畿内とか
ワープしすぎ
途中すっ飛ばしすぎ
と矛盾かんじてたわ >>86
1里が80mくらいだな
帯方郡の南の端から巨済島までが7000里 秒速で論破してしまった。
畿内説はつまらんなあ・・・ 条坊都市は大宰府にもその形跡がある。
ただし東側はその形跡が乏しいため
完全な条坊都市ではなかったと考えられている。
これはすでに大宰府が都市化していて
有力者の邸宅などがあり
条坊都市化ができなかったと考えられる。
いっぽう、藤原京や平城京は
都市化されておらず先住民も少なかったため
完全な条坊都市が構築できた。 もしかしたら南西の方から来て四国や和歌山を通って奈良に行ったかも >>70
オマ屁は小学生未満の幼稚園児並みの知識すら無いんだなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
満潮時と干潮時には潮止まりといって
潮の流れが止まる時間帯が有って
手漕ぎの船が難なく通過できる。
潮止まりの前後には流れが緩やかになるから
進みたい方向に潮が流れてる方向に進むのは
追い風ならぬ追い潮の力を借りて楽勝
万葉集に額田王の「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
という万葉集の有名な和歌が残っている。
おれは幼稚園児の時神戸市須磨の海水浴場の近くに住んでたから
日曜日には父親に連れられてテンコチやベラ、キスなどを釣ってたし
ほとんど毎日砂浜へ行って漁船や機帆船が走ってるのを見てたわ。
おまエラは人生経験が足りない
邪馬臺國を議論するには100年早いwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています