0001七波羅探題 ★
2021/02/19(金) 17:29:51.82ID:KzA5KbTC9https://toyokeizai.net/articles/-/410833
「○○大学新聞」といった媒体を目にしたことはあるだろうか。中高年には郷愁を感じさせるメディアだが、いまの大学生は「?」かもしれない。大学新聞の歴史は古く、中には前身も含め戦前から続くものもある。存続中の各大学では部員や資金が不足し、紙からWebに軸足を移している。廃刊・廃部に追い込まれた新聞も少なくない。それでも「紙」にこだわり、新聞を作り続けているところがある。
コロナ禍が広告収入減が「大打撃」
「約20万円の広告収入減は、私たちにとって大打撃でした。購読による売り上げが年間約190万円。各月の広告費で上智新聞は年間約100万円、合計で約290万円の収入を得ていました。でも紙面を印刷するには1回10万円前後もかかるときがあって……。郵送費で年約130万円、そこに備品購入やWebページ管理費などの支出もあり、常にキツキツで。そこに追い討ちをかける形になりました」
東京の上智大学には「上智新聞」という学生新聞がある。発行は上智新聞編集局という大学公認の団体だ。その「局長」を2020年8月まで務めた山田みうさん(国文学科・3年)は、「大打撃」という言葉を使って苦しさを表した。いつも広告を出稿してくれていた大手金融機関から、広告の掲載を止められたという。
上智新聞は月1回発行の月刊紙で、学内で配る「紙」は昨年11月時点で4300部。自宅へ届ける定期購読数は約700部だという。定期購読の料金は年間2700円だ。山田さんは言う。
「今年の4月号は拡大号で、12面カラー版の予定です。広告収入の大きなチャンスでした。毎年4月号だけは、大手銀行さんから約20万円の広告費をいただいていたんです。広告費としては一番大きな金額でした。それが、コロナの影響で広告出稿の話がなくなってしまった」
大学新聞の歴史は古い。日本初の大学新聞は1917年に創刊された慶應義塾大学の「三田新聞」といわれる。その後、東京帝国大学や早稲田大学、日本大学など戦前にいくつもの大学で学生の手による新聞が発刊された。
戦後は学生運動の高揚とともに各地の大学で次々と創刊が続く。全日本学生新聞連盟の史料によると、1966年時点の「加盟新聞名簿」には、133の大学新聞が載っている。今ほど大学数が多くない時代であり、未加盟の新聞があったことを考えれば、実際はさらに多かったとみられる。「名簿」には、「共立女子大学新聞」「神戸女子学院大学」などの女子大、「新潟大学高田分校新聞」「別府大学新聞」といった地方の大学も少なくない。
ただ一世を風靡した大学新聞はその後、衰退を重ねた。多くの媒体は消えてしまい、かろうじて生き残った大学新聞もかつての批判精神を失って大学のPR媒体になったり、資金難に直面したりしている。若者の「紙」離れにより、大学新聞の購読者自体が減少してきたうえ、部員数も右肩下がりが止まらない。
コロナの感染拡大前から窮地に立たされていた
上智新聞の場合、山田さんの学年はわずか3人しか残っていない。彼女が入部した当初はおよそ30人もの部員がいたのに、である。昨年8月まで「編集長」だった齋藤由季花さん(総合グローバル学部・3年)は、残った3人のうちの1人だ。昨年8月に代替わりした。
「前年度の幹部構成を参考に、私たちの代ですと上智新聞編集局の幹部は当初、局長が1人、編集長が2人。それに経理が1人で、広告営業が1人。最後にレイアウターが4人の予定でした。編集長は局長のように組織決定権はありませんが、記事の編集における責任者というポジションです。結局、私たちの学年は、全員で複数の役職を掛け持ちしていました。それでも足りないところは、後輩にお願いしてなんとか……」
新型コロナウイルスの感染が広がる前から窮地に立たされていた。仲間が辞めていく理由はさまざまだった。もっと自分が書きたいものを担当したい、「紙」の新聞は読む人がいないからやりがいがない……。それでも、残ったメンバーは新聞発行をやめず、「紙」の制作をあきらめなかった。齊藤さんはこう続ける。
「55年の歴史を潰さない責任もあります。でも一番は、取材で目にした世界を学生と共有して、新しい選択肢を提示したい。学内でこんな行事があるとか、OBにはこんな人もいるんだとか。世界ってこんなに広くて、こんな業界でこんなモチベーションで頑張っている人がいると知ってほしい。それに、大げさかもしれないですが、“使命”があります。これまでの取材で、上智の学生は、抱えている不満を学生課に直接言えない面があると感じています。例えば、科目履修の際に倍率が高すぎて、興味関心があってもその授業を受けることができないとか…」
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