【江戸時代】4歳で将軍となり、8歳で逝去した「徳川家継」の生涯 [記憶たどり。★]
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https://news.livedoor.com/article/detail/19874240/
270年近く続いた江戸時代には15人の徳川将軍が存在した。歴代将軍の中、最年少で将軍に就任し、
最年少で死亡した人物が徳川7代将軍「徳川家継(とくがわいえつぐ)」だ。
今回は、わずか8年間で生涯を終えた徳川家継の短い人生をご紹介する。
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出生から将軍就任へ
1709年。徳川6代将軍・徳川家宣の四男として生まれる。母親は側室の月光院。
兄弟たちは早世し、1712年に家宣が倒れた際に存命していた子は家継のみであった。
同年に父・家宣が死亡すると、遺言通りに7代将軍への就任が内定する。
一説には家宣の遺言には尾張藩主であった徳川吉通を次期将軍とする選択肢も提示されていたが、
家宣の侍講を努め学者であった新井白石の推進により、家継の将軍就任がなったとの見解もある。
1713年。将軍宣下を受け、徳川幕府第7代将軍に就任。4歳での将軍就任は史上最年少記録であった。
家継を支えた2人の側近
7代将軍となった家継だったが、若年であり自ら政務を取り仕切ることは困難であった。
幕政は「新井白石(あらいはくせき)」と家宣の側近であった間部詮房(まなべあきふさ)」が主導し、幼き家継を支えた。
間部詮房は家継の父親代わりでもあり、幼き家継は間部を慕っていたという。
また、新井白石からは幕政の傍ら帝王学を学び将来を期待された。
早世とその後
聡明であったとされる家継だったが、家宣の子は体が弱い傾向にあり家継も例外ではなかった。
1716年に病の床につくと、すぐに死亡した。享年8。風邪をこじらせた事による急性肺炎であったといわれる。
家宣の直系は途絶え、8代将軍には紀州藩主の徳川吉宗(とくがわよしむね)」が就任。
吉宗の就任には間部・新井の幕政に反対する勢力が加担しており、家継の死亡により政治基盤を失った2名は相次いで失脚した。
東京都にある増上寺には家継を祀る霊廟が存在する。早世したため未婚であり、跡取りはいない。
現存している資料には家継の人格や人柄を称えるものが多く、将来を渇望されていた様子が伺える。
病に侵されていなければ、歴代将軍の中でも名君となり得たかもしれない。 8才って小学3年生で死んだのか
その人柄ってやんちゃ坊主いがいにあんのか 江戸時代の繁栄って将軍本人の才覚よりは天候任せな側面大きいと思うわ てか死にすぎだろ
兄弟みんなとか
子供を殺すことになるような変な風習があったんじゃねーか?鉛のおしろいつけてたとかさ 光とか徳が苗字や名前についたらなんでも在日認定かよ!
ほんとマジひでえよおめえら!
徳川家光がその巨大な低身長でカオスに叫ぶ この時代の将軍て病の床につくと頭にネクタイみたいの巻くのは何故なの?おまじない? 徳川宗家の秀忠系統がこれで終了して
暴れん坊系になっちゃう
種無しブドウ綱吉め >>1
新井白石と間部詮房って、今でいうと橋元と玉川みたいなもんだろ。 凄いな。
ところで童貞のまま死んだの? これ速報性のあるニュースじゃないよな
>>1が自分のサイトのPV稼ぐために宣伝してんのか? >>1
>現存している資料には家継の人格や人柄を称えるものが多く、将来を渇望されていた様子が伺える。
>病に侵されていなければ、歴代将軍の中でも名君となり得たかもしれない。
8歳の子供からはよほどのことがない限り明るい未来しか見えないだろ >>9
昔は成人するのが今より難しかったんだよ
神社で七五三の祝をやるのは、その年齢までに亡くなる事が多かったから さすがに8歳でしかも病弱ではセックスも無理だったか >>1
お前ら、金正恩の息子が夭折したとして、興味ある?
徳川もそんな感じだな >>9
あまりに吉宗に都合よく人が死にすぎてる
という研究があったな
結論としては吉宗が暗殺を指示してた 昔はおしろいに鉛が含まれてたから、おしろいを日常的に使える財力を持ち
乳母を雇えるような身分の高貴な家ほど子供の死亡率が高かったなんて話もあるな
逆に女も土にまみれて働いてた田舎では間引きが横行するほど子供が増えまくってた >>32
子供は農作業の人手だよ
しかし飢饉になると… ケンガンアシュラの第2話
拳願仕合の発端はこの子だったか… >>6
欧州国が植民地拡大してた時期に鎖国してたのもあるね あれ?
確か吉宗の周りにいる忍びの者が家宣に連なる人間を暗殺しまくったんじゃ? 少し奥に入ればこの世の極楽だったのに本当に極楽だったのに本当の極楽に逝くとは 8歳じゃ精通もしてないから
いくら頑張っても子作りできないな 家康の家系が7代まで
8代目の吉宗から血統がかわる 4歳じゃ何もわからんだろ
実際には側近政治でいいようにやってたのだろう
紀伊から吉宗が来たら、側近も反対して抵抗勢力で排除されたのか
政権争いは今も昔も変わらない 将軍って精のつくもの食わしてくれなかったからね
魚で好まれたのは淡白な鱚
なぜなら魚編に喜ぶって書くからだってw
今みたいに肉をガンガン食ってれば長生きして子孫もたくさん作れたのにね 山村武彦
感染症と大規模災害が同時に発生する複合災害は、過去何度も起きている。
例えば平安初期の貞観富士山噴火(864年)のときは、咳逆病(しはぶきやみ・インフルエンザ)の流行が続いていた。
『日本三代実録』には「863年は前年から咳逆病が大流行し、大納言・源定、内蔵権頭・藤原興邦、平城天皇皇女・大原内親王、大納言・源弘などが相次いで死去した」と書かれている。
5年後の貞観地震(869年)のときもまだ咳逆病は収まっていなかった。
そこで朝廷は、京都の祇園社(現・八坂神社)に祭られていて疫病を打ち払う神と敬われていた牛頭天王(ごずてんのう)と素戔鳴尊(すさのをのみこと)の祭り「祇園御霊会」を挙行。
当時の国の数に合わせ66本の鉾を立て巡らし、諸国の悪霊が宿るように仕向け、そこへ祇園社の神を祭り、みこし3基を送り込んで諸国の穢れを祓い厄払いした。
以来、毎年7月30日が祇園祭として今日まで定着している。
江戸時代の南海トラフ地震ともいえる宝永地震(1707年10月28日)と、その49日後に発生した宝永富士山噴火(12月16日)のときもインフルエンザが蔓延していた。
100キロメートル離れた江戸でも、新井白石の自叙伝『折たく柴の記』に「夜に入りぬれば、灰また下る事甚し。『此日富士山に火出でて焼ぬるによれり』といふ事は聞えたりき。
黒灰下る事やまずして、十二月の初におよび、(中略)此ほど世の人咳嗽(しはぶき)をうれへずといふものあらず」と書かれており、降灰とインフルエンザ(咳嗽)で呼吸器疾患者が続出したといわれる。
現れた4つの預言一気読み
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/contemporary/1561503978/ 3代、5代、8代、15代くらいしか憶えてないわ
9~14代は何やってたんだろ まだ幼い、甘えん坊将軍だったのに
吉宗が壮絶にすべる この後、吉宗と根回し合戦して将軍の座を競り負けた尾張徳川が
なんやかんやと幕府に仇成す悪党の最終的な黒幕をやってるというのが時代劇のテンプレ… >>9
最近は鉛中毒っていわれてるね
将軍家や大名家、公家などの母親や乳母が鉛を含んだ白粉をたっぷりと使い、顔から首筋、胸から背中にかけて広く厚くぬったため、
抱かれた乳幼児が乳房をとおして鉛入りの白粉をなめたうえに、
乳児にも白粉を顔や首にべったりぬられたため、鉛が体内に徐々に吸収され、
鉛中毒の症状である貧血や歯ぐきの変色、便秘、筋肉の麻痺などがおこり、脳膜の刺激症状が出ることもあった。 0歳 乳母を投げ飛ばす。
2歳 兎2羽を捕まえる程の俊足を得る。
4歳 岩を投げてクマを撃破。
6歳 遊郭に入り浸り、城の金を使い込む。
8歳 賭場において酒の勢いで博徒達と大喧嘩。
8歳までのを載せたけど、
光月おでんの方が凄くないか? 秀頼も4歳で関白に就任させればよかったじゃん。
そしたら家康も頭上がらなかっただろうに。 将軍さんって暖かい食事が取れなかったんでしょ?
魚は脂を落としてから配膳されるんだって聞いた
そら、そんな不味い飯ばっか毎日出てきたらチビ虚弱ばっかりなのも当然だろ >>48
よしながふみの男女逆転大奥だと
各将軍のキャラ立ちがすごくて、全員完璧に覚えられるw ただの風邪でも死ぬんだよ
たかが風邪と馬鹿にするなと昔から言われてるだろ
ただの下痢で死んだりする時代だからな
まぁ、何をもって「ただの」と言ってるのか知らんけど
麻生が言い放った「ただの風邪」発言も、そんな程度で死ぬなら寿命だろと言ってると受け取っても何ら違和感ねえわな
でも実際はそう、ただの風邪なんだわ
ただ、そのただの風邪の甘く見すぎてる事こそが大馬鹿野郎って話であってな
リーマンショックの時も「そんな大事では無いだろう」からの、記者の追及に「え?そんな事なってんの?」なんて半笑いで返した総理とか記憶に残らん訳がない
そいつが今、日本の経済がどう向かうかの鍵を握ってる大臣だっつうのがもうな
「ただの風邪だろ」や「給付金なんて貯金されるに」だの、日本の害悪としてはダークホース的に麻生の存在があると思うわ
最近は露出控えてるけど 普通ならこども園の⚪⚪組に行ってるのに将軍だったのか 男って幼児の時は迷惑なほど体弱いよね
大人になれば犯罪者だし…
そりゃ女の子が欲しくなる気持ちがわかるわ >>59
なんでそこだけ興味が湧いてるんですかねえ… 光圀が立ち寄った納豆屋で助さんが印籠を取り出して拭いてたら
店長が前にも来ましたねといいがかりをつけて代官所の役人が来て
ラストは痛快に店長のさらし首 第10代将軍家治も子供のときは神童ともいわれ、将来を期待されていたが
大人になったら只の人になってしまい、主体性のない何でもそうせいしか発言しない
「そうせい公」になってしまった
しかも嫡子の家基は不可解な死をとげて跡継ぎがいなくなり、一橋家に乗っ取られてしまった
子供のときに死んだ方が未知の未来お妄想できるのよね >>2
僅か4歳で大将軍に就任した8年の生涯を描いた感動の長編時代劇大河ドラマか
全て子役で終わるな >>59
女は尼さんや男装娘に萌えるタイプだったみたいだからなあ。 >>73
家基は聡明だったらしいからね
彼の死は怪しいね >>5
生誕 宝永6年7月3日(1709年8月8日)
死没 正徳6年4月30日(1716年6月19日)
今だと小学校1年生だね。
なお婚約者はいて本当なら初の皇女降嫁の予定だった。
吉子内親王(霊元法皇皇女)
生後1か月で婚約、1才7か月で後家になって17歳で出家させられた。 >>57
特に学生さん達はこれで15代将軍を覚えよう(戦隊俳優多数出演) 将軍家とか近親婚しまくってるから体の弱い奴が増えて限界になるんだよ 将軍のくせに冷や飯食いってひどいよな
毒味毒味でせっかくの料理が冷めきっちゃうんだぜ >>1
名前からしてとりあえず“継ぐ”のが目的だったんだから目的は果たせたんだろ? >>90
ドリフのコントで毒見役が殆ど食ってしまい、
将軍のブーが嘆くのがあったな。 80訂正 18歳で出家
>>85
近親婚が多いのは公家で徳川将軍は全然近親婚じゃないよ。
正室は飾りでよくて旗本出身、庶民の娘が側室になって子ども産んでるから。
ここまで子どもが死にまくるのは化粧の鉛中毒だろう。 徳川将軍の名前に偏が付くと跡継ぎに恵まれないって話があったな。
4代家綱、5代綱吉、6代家宣(綱豊)、
7代家継、10代家治、13代家定(家祥)、
14代家茂(慶福)
偏がつかない吉宗、家斉、慶喜は長生き ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています