【朝日新聞】飛鳥時代の豚肉食の証拠となる寄生虫の卵を藤原京の便所跡で発見 渡来人が豚肉を常食か [みの★]
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飛鳥時代にブタは普段から食べられていたらしい。奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が藤原京(694〜710年)にあった便所の遺構を発掘すると、豚肉を食べると感染する寄生虫の卵が見つかった。卵は豚肉食の科学的な証拠だといい、国内最古級の発見例という。渡来人が常食した可能性があるとみている。
橿考研は2018年度、奈良県桜井市の藤原京跡の発掘調査を行い、藤原京の中枢部にあたる藤原宮跡の北東で便所遺構を検出した。橿考研共同研究員の奈良教育大・金原正明教授(環境考古学)と、一般社団法人文化財科学研究センター代表理事で妻の正子さんが土壌を分析した。
金原教授らによると、土壌から発見されたのは、豚肉を食べて感染する寄生虫(有鉤条虫(ゆうこうじょうちゅう))の卵とみられる。サナダムシの一種で卵殻の状態で5個検出された。橿考研が00年度に行った藤原京の調査では、飼育された可能性があるイノシシかブタの骨が見つかっていたが、有鉤条虫の卵は確認されなかったという。
同様の寄生虫の卵は、「古代の迎賓館」と呼ばれる鴻臚館(こうろかん)跡(福岡市)や秋田城跡(秋田市)の便所遺構からも見つかっている。ともに奈良時代のものとみられ、飛鳥時代の藤原京で見つかった卵よりも後の時代になる。
また、弥生時代の遺跡からブタとみられる骨が見つかった事例もあるが、寄生虫の卵の発見は豚肉食のより直接的な証拠となるという。金原教授は生に近い状態で豚肉を食べ、寄生虫の卵が排泄(はいせつ)されたとみている。日常的に使われた便所跡で卵が見つかったことから、常食したと考えられるとする。
日本最初の本格的な都城とされる藤原京が造営される少し前の7世紀後半、朝鮮半島では百済や高句麗が相次いで滅んだ。多くの人々が日本列島に渡ってきたと考えられている。金原教授らは、豚食文化のあるこうした人々が藤原京でブタを食べていた可能性があると考えている。
…続きはソースで(会員記事)。
https://www.asahi.com/articles/ASP5P7J4HP56POMB007.html
2021年5月22日 16時00分 >>534
韓国には、水+田を意味する「畓 (논)」という国字があるが、日本は火+田で「畑」にした
いずれも中国にはない独自の国字である
歴史でみると、米好きの韓国人は水田にこだわり、雑穀好きの日本人は焼畑にこだわったようだ
しかし近代に入り、寿司が日本人の国民食となり、ナショナリズムに深く関わるようになったため
ネトウヨは日本人が併合時代に韓国人に稲作を教えてあげたなどという偽歴史を広めている
https://static.news.zumst.com/images/1/2019/12/11/093cca9109b64695b363b471a65ac44b.jpg >>537
モンゴル語族では内蒙古居住のホルチン族が比較的CHB・JPTに近い位置にプロットされている
カザフ寄りのオイラトはコーカソイド(Aralid)の影響があるのか、PCA上でかなりの幅でスキャッターしている
ブリヤートとハルハも日本人とは割りと遺伝的距離がある
こうして見ると、彼らの遺伝子プールには(東アジアのそれよりもよほど)多様性があり
一口にモンゴル人と言ってまとめることはできないようだ。顔つきや骨格などもかなりバラつきがあると予想される
東アジアの集団では、朝鮮の遺伝子プールが最もコンパクトかつ綺麗にまとまっており、
ネトウヨなどが理想とする「単一民族」は朝鮮民族が最も近いことになる
Fig. 1: Sampling, variants, and imputation.
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41588-018-0250-5/MediaObjects/41588_2018_250_Fig1_HTML.png
Fig. 2: Population genetic structure.
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41588-018-0250-5/MediaObjects/41588_2018_250_Fig2_HTML.png
Whole-genome sequencing of 175 Mongolians uncovers population-specific genetic architecture and gene flow throughout North and East Asia
doi: doi.org/10.1038/s41588-018-0250-5 >>547
韓鍛冶部(からかぬちべ)
朝鮮半島から4〜5世紀に渡来し、鉄製の武器・馬具・農工具を製造した金属技術者の集団。百済系技術者を組織したもので、宮廷工房に上番した。
陶作部(すえつくりべ)
『日本書紀』の雄略天皇7年(463年)条には百済より陶部高貴ら工人が貢がれたことが記されている。弥生文化の名残であった土師器が、5世紀頃になると須恵器に取って代わられる。
鞍作部(くらつくりべ)
大和朝廷の馬具製作にあたった職業部。坂上系図には仁徳朝に鞍作村主(すぐり)らが阿智使主に従って来たと記すが、これは東漢氏の管掌下にあったことから造作されたもので、5世紀後半に百済渡来の工人を組織したものだろう。
錦織部(にしこりべ)
錦部とも書く。大陸系の技術により錦,綾の織成に従事した大和朝廷の職業部。5世紀中葉以降に百済より順次渡来した技術者を組織したものだろう。
史部(ふひとべ)
文書や記録の作成など文筆をもって奉仕した氏族。史部は知られている限りにおいて70氏ほど存在が確認されているが、全て朝鮮半島からの渡来人系。
衣縫部(きぬぬいべ)
大化の改新以前に、衣服の裁縫を仕事として大和政権に仕えた職業部(品部)。百済系、呉系、伽耶・加羅系渡来人を中心に衣縫部が編成され、大和国・伊勢国に居住していたことが判明している。
門部(かどべ)
宮城諸門の守衛にあたった武人の集団。古来のカドモリとよばれる人々が、7世紀ころ百済の部司制の影響を受け、門部に編成された。
日本音楽の歴史
継体・欽明の政権あたりから、朝鮮の音楽ついで中国の音楽が伝来。新羅楽・高麗楽・百済楽・唐楽と呼ばれた。名高いのは、推古天皇の時代(7世紀)に百済から帰化した味麻之によって伝えられた伎楽。
百済の瓦博士
飛鳥時代に百済によって仏教の教えと共に寺院建築が伝えられ、飛鳥寺造営で初めて瓦葺の屋根が作られました。瓦製作は、百済の「瓦博士」が直接指導したことは有名で、軒瓦の文様には百済風の蓮花のデザインが採用されています。
要するに現代日本の匠、職人さんたちってのは、朝鮮半島からの職能集団(品部)の子孫 要するに現代韓国には、匠、職人さんたちってのは存在しない >>15 その頓珍漢な知識はどこへ行けば習えるの? >>552
だから前も別のスレで書いた記憶があるけど技能ってのは子孫じゃなくても伝わるのよ
それとその技能だけを頼りに国が今まで存続してきた訳でもなし
今現在その古くさい民芸品がどれだけ世の中に必要とされているか考えればわかるだろ
司馬遼太郎みたいにそういうのが好きならそこにルーツを特に感じたくなるってだけの話でしかないと思うんだがそれでいいならお好きに
なんとなく勉強にはなるよ >>555
前天皇陛下(現上皇)のお言葉を100回くらい音読しとけよ?
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html
日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。
韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。
宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。
こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,
幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,
桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。
武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。
また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。 >>556
朝鮮人はゆかり発言で大騒ぎするの大好きだよねw
日本人からすると普通のリップサービスって程度なのに >>556
だからさーゆかりはあるってそらそうでしょ
なんで大和朝廷時代の文化を文化の始祖みたいに考えてんの?
そのずっと前から邪馬台国もあったし弥生縄文まで遡っても文化の基礎はあっただろうからさ
>>552みたいに専業化する以前は腰ミノつけて言語も知らず道具も使わず戦いもせずの生活だったのか?
違うでしょ
現代でもチョンミュージックを受け入れる人とそうでない人がいるからいくらその時代にチョンミュージックが日本に伝わったからってチョンミュージックイコール日本音楽のルーツというのは無理がありすぎる あとまあチョンがいい加減に伝えた仏教がいまいち信用できなかったから鑑真がシナから来てくれたのでは?
最初に伝わったものが必ずしも役立つものとは限らんから改良が必要なんだね ID:IARg2tpK0 ID:4oI6DCfm0 ID:53C5CPel0
古代から朝鮮半島の内臓取り出し屠畜屠殺奴隷のペクチョン生活地獄
ずっと論破され続け脳ミソの遺伝子が壊れている在日韓国人クラスターチョンw
毎日がナマポ糞尿漬けキムチw
http://hissi.org/read.php/newsplus/20210407/dVh5NUdNQzQw.html
http://hissi.org/read.php/newsplus/20210330/T3ZBWXRzNWkw.html >>561
チョンが早口でまくしたてて「ええ〜ブッダはこう言ってたんですぅ〜」とか丸めこもうとしてぐぬぬとなってるご先祖様の姿がありありと目に浮かぶよ…
これが俺のルーツかもしれない ★ 瞬殺される在日韓国人ID:53C5CPel0、ID:D2KWpsao0の無茶苦茶な願望妄想w★
353ニューノーマルの名無しさん2021/04/14(水) 22:43:56.13ID:VJqgbyTJ0
>>337
神社の起源は半島。そもそも神道そのものが渡来人が持ち込んだ文化
上代、紀元節の二月十一日には、宮中で韓神の祭りが行われていた
出雲大社も伊勢神宮も元々祭神は韓神
『広辞苑』 第一版 「〔韓神祭〕上代において二月十一日に行なわれた、宮内省の内にまつられてある韓神社の祭。」
神社に祀られる朝鮮神(新羅神、高麗神、百済神)
https://pbs.twimg.com/media/EvdM9m_VkAQaquq.jpg ★ 在日韓国人の無茶苦茶を瞬殺する日本人の解説★
261名無しさん@1周年2019/06/11(火) 17:28:28.93ID:9AHJWisa0
>>253
虚言という言葉も当てはまらないくらい朝鮮人て嘘つき?
伊勢は内宮も外宮も斎宮ができる前からずっと泳げない朝鮮人とは何の関係もない
海人族の磯部氏なのですが
知らないとかはありえませんよね
366ニューノーマルの名無しさん2021/04/14(水) 23:00:43.07ID:8LTe4GRf0
>>353
繰り返される在日韓国人の薄っぺらいチープな前頭葉`∀´)Ψギャハハ
595名無しさん@1周年2019/08/09(金) 20:14:17.31ID:PB25NG50
>>555
それは宮廷使用地の付近にあった渡来人集落の神を一時期祀ってあげただけの話
渡来人の中でも漢民族系の半島経由の渡来人が役に立つ文物をもたらしてくれたからそのお礼
599名無しさん@1周年2019/08/09(金) 20:14:36.79ID:OAc65hcX0
>>579
延喜式の最強神社は園韓神神社です
それいがいのすべての神社は本来格下
この事実は隠ぺいされているけどね
636名無しさん@1周年2019/08/09(金) 20:19:38.52ID:PB25NGc50
>>599
園神は朝鮮半島は何の関係もありませんよ
それは日本国家が成立して200年経った頃でしょうか
その時代から日本の朝廷は「おもてなし」の心に満ち溢れていたのです。
平安京に遷都時に、周辺の地域の一部を扶余族の百済人の渡航者が
生活地としていたのです。
そこで彼らの韓神を祀っていたのです、土地収用もすることなく
かれらの祀っていた神を合祀してあげたのが発端です
その後宮内省内でしばらくまつられました >>548
仲哀天皇が博多の香椎宮付近の高い丘から韓国が見えないと言って、住吉大神の神託に逆らった形になったので急に崩御された。
その逸話にちなみ、「この雪岳、甑岳からは韓国が見えますよ」という意味の由来から韓国岳との通称がついた。
もちろん「空国」の意味もある。
ほかにも当時の三韓はそれぞれが騙し合いをし合い、互いに漁夫の利を得ようとして軍事大国の日本に取り入り巻き込もうとした背景があり
警戒も兼ねて朝鮮半島の方向に向かって建つ神社にも韓国・・・神社という名を持つもが複数ある。
九州一帯から対馬にかけてはワタツミに護国神の働きを依存する形でワタツミ神社が数10社、中国の出先隷属地域の朝鮮半島に向かって建立されている。 朝鮮半島の遺伝子は・・・・・・・
中国人のO2が 多数派
次に多いのがO1b2 L682
このざっくり大まかに弥生系といわれるO1b2に関しても、
日本と韓国では全く違う! ←ココ重要 !!!!!
韓国では水稲文化と関係がないO1b2のタイプの L682
(旧 XO-47z)が35%で、対照的に日本ではたった8%
日本では水稲遺伝子と言われるO1b2a1a
旧47z (O-47zが多くで日本で30%もある
これは韓国には少なくて、だから朝鮮半島には水稲が少ない
未だにBC500年より以前の水田祉が出ない状況と合致!
次いで朝鮮半島では≪エベンキのC2≫ ←ココ重要 !!!!!!!
で構成されている
日本は〔D1b縄文遺伝子〕が多数派 ←ココ重要 !!!!!!!
(これが朝鮮半島や中国東北部と、日本人との決定的な違い)
次に多いのがO1b2の中でも水稲耕作遺伝子のO1b2a1a
次が中国人のO2
★エベンキのC2は日本ではごく僅かしか発見されない ←ココ重要 !!!!!
(これが朝鮮半島や中国東北部と、 日本列島人との決定的な違い) >>507
韓国最大の単一古墳の発掘調査が開始されたところそれはなんと日本独自古墳である前方後円墳であることが明らかになった
これは任那という日本植民地が実在したこと完全に裏付ける証拠だったため驚きを隠せない発掘隊は埋めなおしてしまった
全羅南道海南の北日面方山里の長鼓峰古墳だ。 【韓国】
「韓国の前方後円墳は 倭人の墳墓」
朴天秀 (パク・チョンス)著 (朝鮮日報)07/11/18
http://www.chosunonline.com/article/20071118000001
前方後円墳は倭国の表象規格・・・つまり当時の朝鮮半島は倭国の管制下 前方後円墳は実はソウル北部地域でも発見されており古代朝鮮半島の南半分いわゆる今の韓国の地域までは日本の支配下にあったことが出土物からも十分に考えられている >>552
当時の在地古豪族の支配下にあった様々な渡来の部民たちは日本に尽くし日本人に同化しようと懸命でしたね
秦氏などは近世の文書にも普通の日本人としてよく出てきますよ 朝鮮半島に神社の原型の列島系の祠や高床式すらなく
朝鮮人には日本人では当たり前の神道文化の禊や斎戒沐浴もない
入浴もないし米食や魚介に合う飲み物もない
お茶もない
しかも民族遺伝子すら全く違うのはもちろん言葉すら全く違う
しかも朝鮮人達はシベリアエベンキ同様名前しかなく
苗字が19世紀まで全く無く
明治の日本政府の統治で住民登録で朝鮮人達に苗字を名乗らせ
全く血の繋がりの無い同じ苗字が乱立
しかも朝鮮人達は字も書けず読むことすら出来ないありさま
家は木造でなく藁葺き屋根の家でトイレや風呂すらなく
石器時代さながらの生活
古代の日本人には苗字があったことは記載され
しかも木造住宅に住み
字も書け読めた
そういう民族だからこそ日本列島のほとんどの場所で言葉もほぼ同じで通じ会えたわけだから
結局は半島のプレ半島人が扶余や満蒙に蹂躙され百済や新羅となりシベリアエベンキが元寇に
追われ朝鮮半島に侵入し隅々まで定着
そんな朝鮮民族だからこそ劣化モンゴルの亜種のような満蒙扶余の動物的生活風習が融合し
だから海人族や関西の豪族の私有民の半島遺民の通訳がないと大昔から日本と全く言葉すら通じない ★ 《イネの伝搬 》 (日本と長江流域の稲作文化の共通点)
1 . 5000年前の湖南省の洞窟遺跡で陸稲発祥が確認された
2. 5000年前の淅江省の河姆渡遺跡から 水稲栽培のコメが150トン出土
3. 更にその米を静岡大学でDNA分析をした結果、佐賀県の菜畑遺跡の炭化米のDNAと一致した
コメの渡来については、 すでに 縄文遺跡からのプラントオパールの検出によって縄文中期まで その可能性が指摘されていた
4. この菜畑遺跡の確認によって、長江中流 ・下流域との人と 文化の移動 ・交流の結果として熱帯ジャポニカの渡来が明確になった 💎最新:現代日本人 (≠韓国人) のまとめ
〔日本人のDNAは朝鮮人や中国の東北部人とは異なっており琉球人やアイヌ人のDNAと共通点が多い〕
Y染色体の80種類ほどの遺伝子のうち
日本人は 「D2 (D1b)」 を持っているが
Y染色体の中でも 非常に古くからある系統。
日本人のD系統は、ほぼ100%が 「D2 (D1b)」系統。
同じD系統であってもチベットや東南アジア が
D1とD3系統。
もちろん同じD系統だから近縁であることは
間違いないが D2 (D1b)系統は世界の中で
日本人にしか存在しない固有の系統。
さらに大きな意味な持つのが、 日本の隣の
【韓国にはY染色体D系統が存在しないこと】。
この系統を持っているのは世界的にも珍しく
【圧倒的に日本人に多く存在し韓国人には先ず
見られない】。
核DNAというのパターンを網羅的に解析した
結果、【日本人は韓国人と大きく異なる】ことが
判明した。その【「D2 (D1b)」をいちばん多量に
持っているのがアイヌ人と沖縄人である】。
[現代の科学がアイヌ人と沖縄人が日本人の源流であると証明してしまったのである。]
DNAでわかった東アジア人は大きく分けて
「4集団」ある。
・東南アジア集団
・中国集団 (北京、ソウル(韓国)を含む)
・モンゴル集団
・日本列島集団(ヤマト人、オキナワ人、アイヌ人) 現代の科学がアイヌ人と沖縄人が日本人の源流であると、
証明してしまったのである。
DNAでわかった東アジア人は大きく分けて
「4集団」 ある。
・東南アジア集団
・中国集団 (北京、ソウル(韓国)を含む)
・モンゴル集団
・日本列島集団 (ヤマト人、オキナワ人、アイヌ人)
であり、4つの集団は各々DNA上離れて存在する。
【ソウル(韓国人)は中国集団に分類され】、DNA上、
華北人と韓国人とはそれほどの違いはなく、
【韓国人は日本人よりも中国東北部の人間に近い】。
またこのD系統は、アジア人種のみならず地中海
沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、
Y遺伝子の中でも非常に古い系統である。
東アジアの地域全体には南方系O系統が広く分布し、
島国の日本や山岳のチベットにのみD系統が残ったと
考えられる。
D2 (D1b)系統は
【アイヌ人88%】、
【沖縄人56%】、【本土日本42〜56%】
チベット33%で、【韓国ほぼ0〜3%】
である。
アイヌには南方系O系統は殆んど無い完全なD系統
であり、 本土日本人と沖縄人には 南方系のOが混ざり、
つまり事実上アイヌと本土日本人は大差がなく、
アイヌに南方系を足したのが 本土日本人となる。
つまり【 日本国は民族として非常に安定したまとまり
を持った国家 】 である。 【天皇は縄文人と同じY染色体がD1bであったと確定している】
健康診断で全国民のDNA調査をした結果は男の9割以上がY染色体がD2であった。
ちなみに朝鮮人韓国人シナ人はD1bは無い。
N253487/ Sumeramikoto (Emperor of Japan) D-CTS8093
http://www.familytreedna.com/public/japan/default.aspx?section=ycolorized
http://wiki3.jp/famousdna/page/23
伏見宮家
伏見宮家のY染色体遺伝子は、ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)。
これは、伏見宮家の男系子孫1名から得られた解析の結果に基づく。
東山天皇
人皇第113代・東山天皇(Emperor Higashiyama, 1675-1710)のY染色体遺伝子は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)(注3)。
これは、東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔粘膜の解析による(注7)(注8)。
南朝・後村上天皇
南朝・後村上天皇(Emperor Gomurakami, 1328-1368)の男系子孫のY染色体を調査した結果、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)であることが判明した(注1)(注2)。
近衞文麿
内閣総理大臣を務めた、近衞文麿(Fumimaro Konoe, 1891-1945)のY染色体は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)である(注1)。
2019年6月19日改訂のISOGGより D1a2 (旧D1b1'2)に変更。
「縄文系」のD1a2 (旧D1b1)、(チベット系D1a1)
オクスフォード大学の遺伝学研究チームのクリス・テイラースミス(Chris Tyler-Smith)及び、
カラー・レッド(Color Red)は、 日本人男性のY染色体の一塩基多型(SNPs)および
縦列反復数(STRs)を解析した結果、 天皇家のハプロタイプは(D-CTS8093)に属する
系統であると結論づけました。 ◆近年の学術研究結果のまとめ
@日本ヤマト最初の国家官製規格の前方後円墳ができたときの纒向では朝鮮半島の遺物がほとんど出ない
Aその時代から同一モデルを含め複数と考えられる半島王子と名乗る者が「聖人君子が日本におられると聞きまして参上いたしました」と
訪日するが、どれもよそ者でかろうじて任那からきたソナカシチは纏向染めの絹を土産に持って帰らせてもらっている
B倭王・武の雄略天皇は、 宋から半島の軍事顧問を任されている
C古墳全時代を通して朝鮮半島の使者で都まであがって天皇と会えた人間はほとんどいない
ほとんど全てが北九州で追い返しか、大阪湾の内湾南の難波館止まり
D厳格な都の中での肉食禁止令を徹底
E八乙女にしても八十島まつりにしろ、国家祭祀の中心から外縁までの全てが
海洋性神話にもとづく内容
F伊勢内宮のアマテラス大神の御神体の八咫鏡がおさめられてる箱も御船代
G大嘗祭で建てられる高床式の屋代家屋の屋根が温帯〜南洋の葉の束 (昨秋は秋篠宮様実費削減提言に沿って板葺き)
H古墳時代の天皇や大王級の御遺体を古墳に運ぶための葬送儀礼用の舟形木製箱
※ 朝鮮半島の文化要素がほぼゼロ 「高天原はどこか」
縄文人は自然の恵みに感謝して、あらゆる自然物を祀る祭祀を行なっていた。
これが神道の原形であるが、神道は稲作の始まりと共に日本に稲作を伝えた江南
(中国の長江下流域)の祭祀を取り込んで大きく発展した。
「記紀神話」に描かれた高天原とは、その神話を創作した人々の先祖が生きた
弥生時代の日本であったとも、日本の稲作の故郷と呼ぶ古代の江南であったとも
考えられる。
「航海民が祭った大物主神」
少彦名命が海の果てに去っていった後で、「新たな神が海からやって来て大国主
命を助けた」といわれる。
『古事記』に次のような話が記されている。
「大国主命が海岸であれこれ先行きのことを悩んでいるときに、美しい光で海面
や空を照らしながら近づいてくる神が現われた。その神は大川主神に『私の魂を
祀って戴けるならば、あなたに力をお貸ししましょう』と語った。
そこで大国主命は、その神の意向によって大和の東方の三輪山の上にその神を
お祀りした」
この神話は、大物主神を祭神とする桜井市の大神神社の起こりを説いたもの
である。
大物主神は大国主命と同一の神で、出雲の大国主命を守る「幸魂」つまり幸運
や思いもよらぬ奇蹟をもたらす神とされていた。
大物主神は、南方に広く見られる竜蛇信仰の流れをひく神である。古代の
ベトナムや江南には「竜神」と呼ばれる蛇の姿をした水の神を祀る習俗
が広くみられる。
そのためにそのような竜神が、人間の若者の姿になって人間の女性と結婚
する「異類婚」の神話や伝説も各地に残されている。 「記紀神話の中の南方系神話」
天皇を中心とする朝廷の人々が最も愛着をもっていた物語が「記紀神話」である。
だから「記紀」神話を読み込むことを通じて、皇室の源流となる地域がどこで
あったかを知る事ができる。
さまざまな話を集めた「記紀神話」中のかなりの部分が、南方的な信仰や文化の流
れをひいている。
前に紹介した北方的な要素は一部の神話だけに見られるもので、騎馬民族の文化
の影響は表面的なところに限られている。
そこでこのあと、日本神話の中の南方的要素を持ち込んだのはどのような
人びとだったかを考えていこう。
「日本に移住した江南の航海民 」
皇室の日向に対する思い入れ『古事記』と『日本書記』の中に、日本人が北方
から来たという発想はみられない。
「記紀神話」などには、南方を日本文化の故郷とする意識が見え隠れして
いる。江南の航海民は、日本の南方から来て南方系の文化を伝えた。
そして「記紀神話」がまとめられた時代の大和朝廷の勢力の最南端が、
日向であった。
それゆえ皇室の祖先にあたる二ニギ尊が降臨した地は、日向の高千穂の峰で
なければならず、磐余彦は日向から大和に来て初代の天皇になったとされた
のである。
皇室の先祖は江南から来た移住者の首長であろうか、あるいは江南系の文化
を学んだ日本に古くからいた縄文系の首長であろうか。
武光誠 2019 >>564
百済王神社はだいぶ昔からあるみたいだから白村江の戦い(663年)あたりから日本に来た百済の人の為に建てられたとして、高麗神社と新羅神社は年代不明ということだけどいつ頃作られたんだろう
日本に来た百済人と新羅人と高句麗人が別れてそれぞれコミュニティを作っていたというのは本当だろうか?
この後高麗で1145年に三国史記が書かれて、更に1341年に日本で北畠親房の神皇正統記が書かれている
この三国史記の記述による三韓一体の考え方がその後の日本での朝鮮の歴史観に影響を与えてるとしたら、この2つの神社の建設時期次第で歴史が歴史書を作ったのか、歴史書が歴史を造ったのかがわかるのでは 渡来人が寄生虫を腹に飼っていて、日本に持ち込んだんでしょ
同じ頃「不老長寿の妙薬」と思われてた水銀も持ち込まれてたし たまたま変人貴族が食べてみただけじゃね?
常食は無い。 戦国時代の武士は背が低く乗馬はポニーみたいな小型の馬だったらしい。
そうとすれば飛鳥時代の農業は牛ではなく
牛よりも小さな豚に手伝わせていた可能性もあるのではないか? >>463
ヴィーガンの暴力行為で肉食関係ないって判明してるだろ。 本当は人肉だな
豚肉とタンパク質の構成が近いしね
と適当に書き込み >>522
大韓帝国を立てた際に、古代の馬韓、辰韓、弁韓の三韓に由来すると、詔に言われている。 >>592
ポニーみたい
それ間違えたデータからとってる
土葬された木曽馬の骨の長さ測ってるんだけど
これ一体のみでデータの平均とってない
さらに当時の身長をこれまたデータなく、
「こんなポニーにまたがることができる身長に違いない」とやってるから。
学術的に批判がすげえ多いよ
そもそも武田騎馬隊、木曽馬じゃないんでね >>590
猪が自生してるんだから、在来寄生虫と見るのが普通
あと食った人が渡来人としてるが、ふつうに食ってる
犬追物による狩りのメインの対象
>
日本では弥生時代の遺跡から出土し当初イノシシと思われていた骨が豚の骨と判明した。
古墳時代の遺跡からも豚の骨は出土している。
『日本書紀』、『万葉集(萬葉集)』、『古事記』に猪飼、猪甘、猪養などという言葉があり(「猪」は中国ではブタのことを指す)、
その当時は日本でも豚の飼育が行われていたことが窺える。
その後、675年に最初の肉食禁止令が出され、
天武天皇5年4月1日から9月30日までの間、稚魚の保護と
五畜(ウシ、ウマ、ニホンザル、ニワトリ、イヌ)の肉を食べてはいけないとされたが、これに豚は含まれていなかった。
戦国時代にキリスト教イエズス会の宣教師たちが、
キリシタン大名たちを介して肉食の慣習を日本に持ち込んだため、一時的に豚肉が食べられるようになった。 あー、新撰姓氏録の
「阿智王の後也って」
アッチらアッチら、アッティラ王?! いわゆる支那な土地に
アッティラ領あった
って事?? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています