【ダイヤモンド】北条時宗はモンゴルから日本を救った英雄に非ず 非礼を重ねて無闇に国を危険にさらす★4 [みの★]
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鎌倉時代、2度にわたってモンゴルに攻め入られた日本。そんな大国の侵攻から日本を救った英雄とみられているのが、北条時宗だ。しかし、モンゴルが日本に攻め入った経緯を踏まえると、むしろ北条時宗が日本を“危険にさらしていた”ともいえることが分かってきた。世界最大の帝国が小国・日本を2度も攻めた理由とは何だったのか。
※本稿は、本郷和人著『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
● 疑われることがなかった 「北条時宗=英雄説」
そもそもなぜモンゴルは日本に来襲したのでしょうか? 実は戦前、この疑問について考えられることはほとんどありませんでした。
面積として世界最大の帝国をつくったモンゴルは、言わば侵略マシーンです。だから日本に攻めてくるのは、彼らの本能からして当たり前。それで話は終わり。
一方、北条時宗は疑問の余地もなく、モンゴルから日本を救った英雄とされ、また、どこまで信じていたのかわかりませんが、太平洋戦争当時、日本はいざとなれば神風が吹いて救われる国とも言われてきました。
そのようなニュアンスで、モンゴル来襲については「時宗が国を救った」ことばかりが強調され、そもそもなぜ攻めてきたのかについて、真面目に考えられることがなかったのです。
● なぜモンゴルは 見返りの少ない日本へ来襲したのか
それが戦後になって、ようやく変わりました。日本の歴史家があまりしっかり研究してこなかった問いでしたが、むしろ東洋史、モンゴルの専門家の方々が調査し、考察し始めたのです。それを機会として30、40年前あたりから、認識がかなり変わってきました。
趙良弼(ちょうりょうひつ)という元の使者が書いたレポートがあります。モンゴルは文永の役と弘安の役の2度にわたり、日本へやってきたわけですが、この人はその文永の役の前にフビライ・ハンのもとから派遣され、日本にやってきています。そして1年近くも日本に滞在し、様子をよく見て、報告したのです。
ではその趙良弼がどのようなレポートを書いていたかと言えば、まず「日本という国は狭いです」と。そして「ろくな作物が育たず、豊かではない。人間も野蛮で、皇帝陛下がわざわざ日本を征服しても、何の見返りもありません。だから、やめるべきです」と報告していた。
そうした事実がわかってきたので、あらためて「ではなぜモンゴルは、そんな日本に攻めてきたのか」という疑問が論じられるようになったのです。
…続きはソースで。
https://news.yahoo.co.jp/articles/dc7937965ffa8f463c8d2be484cd0ae0fdfe95ab
2021年5月31日 6時01分
前スレ
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1622619854/
★1が立った日時 2021/06/02(水) 11:46:37.74 元寇が北方から侵入してたら日本はやられてたんじゃないの? ぶっちゃけ、これが1万人のスパルタだったら危なかった チョンコが日本侵攻を勧めたから。
それもしつこく何度も。 朝鮮はモンゴルの属国とされ、若い女を差し出して、日本侵略の際は軍備や兵士を提供させられた
日本がそうならなかった保証はあるのか? NHK「その時歴史が動いた」の批判的考察を思いだした
グローバリズムを理解しない偏狭な政治家として描かれていたな ● 日本政府、勝利宣言まで、あと50日 ●
東京 オリンピック 開会式カウントダウン
https://tokyo-olympics-2020.com/
\(^o^)/ 結果的に元寇は惨敗したのだから英雄
負けたら馬鹿野郎 こんな学のないアホが書く記事読むのがダイヤモンド読者って判断で良いんですよね 史上最大の征服をした帝国が、日本だけを見逃すとかあり得んだろ
どこまで平和ボケしてるの? 北条時宗ってたまたま元寇の時に執権だったおかげで過大評価されているイメージだな
本人は一度も元軍と戦っていないのに >>1
これはニュースじゃないだろ
歴史板でやってくれんか 征服されていたら
オレたちはストッキング面になってた 英雄の行動の是非を考える時に、その時の情報と知識で俺なら最善の手段が取れただろうかと考える
とても北条の責任を問うことはできない やってきたのが朝鮮半島と南宋のポンコツ兵士だったからな
基本モンゴル軍は侵略した国の兵士で構成されてる 九州の武士が情けない
厚かましく恩賞要求するなんてそれでも日本人かよ 宋の国から日本へと大量に亡命していたエリート階級の人間らが
宋を侵略したモンゴルに対して当然敵意をもっていただろうから、
北条時宗に「モンゴルと戦うべき」などと進言していたのは間違いないだろうな
モンゴル兵は陸では強いが海では弱いってのも進言してただろうし、
日本へと侵略しに来る兵士は寄せ集めなのでそこまで強くないってのも進言してただろう
つまり海に囲まれた日本ならばモンゴル軍とも十分戦えると宋からの亡命者らも考えていたはず キングダムもびっくりの妄想だけで書かれた記事で怒りすら覚えたわ 確か戦闘前にお互いの武将が名乗り合う古い戦いをしてたから相手に通じなくて面食らったんだよな。 >>14
その通りよ
本当に有能なら対馬で全部終わってる 白村江で大敗した倭国と同じで、自国の力を過大評価
昭和の大日本帝国も こいつバカだろ
日本から使者を送るってことは属国になるってことだぞ
そんなこともわからんのか
乞食バカライターの与太話でスレ立てすんなボケ! 文永弘安の役はは明らかにモンゴルと朝鮮半島の侵略なんだけどそれを否定したい反日左翼系の印象操作だな 朝日新聞社説のロジックと一緒だな。
寄稿した奴は頭おかしいのか この記事は何なのか?仮にモンゴルの要求を呑んだら、日本はモンゴルの属国になっていたぞ。
日本に宛てた国書からして高圧的な内容だったし。 345 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2020/01/07(火) 01:06:51.65 ID:JilJ9WL20 [5/6]
日本の外交がまずくて丁寧な元の文書に硬直化した対応を取ったって学者誰だったか調べたら
「概説 中国思想史 湯浅邦弘 編著」ミネルヴァ書房
これで元代を担当している久米裕子 だな
文永の役や弘安の役のあとに使節を送った元の寛大さに比べ日本はもう…って書き方で滅茶苦茶だわ
369 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2020/01/07(火) 01:21:25.47 ID:JilJ9WL20 [6/6]
「兵を用いるに至っては、其れ誰か好む所ならん」の表現を日本側が威嚇ととったかもしれないが、国書の主旨はあくまでも日本との通交だったらしい。
で、これを二重権力によってグダグダと無視した日本に対し開戦を決断したんだそうだ。
文永の役の後の蒙古国使を殺し、高麗侵攻計画を立てた幕府を非難する口ぶり。
その後にもう一回来た使者も処刑したから和議の意志無しとして弘安の役になったと。
弘安の役の後に粘り強く寛大に国使を送る元朝の粘り強い態度にも最後まで鎌倉幕府は態度を変えたかった事が悪いことみたい。
そして、元寇はけっして元朝の一方的な侵略ではなかったのである。と締めくくる
どうだ、酷いだろう 受け入れてたら
朝貢→モンゴル人貴族が使者で来て朝貢品に文句をつけて領地getされる→近隣領主といさかい→橋頭保確保された上でvs開始
ぐらいな展開だろからな
中華王朝というかモンゴルの征服王朝なんだから朝貢で済むって考えは大甘ちゃずるな気がするが >>4
> 義経=チンギス・ハン説好き
これって、日本で言われてるのと逆の説もあるんだよね
日本人の義経が鎌倉幕府から逃げて(逃げる方向は北=東北・蝦夷・樺太・大陸しかない)、
大陸でチンギス・ハンとなったのではなく、
どちらも大陸からの亡命貴族だった頼朝や義経が仲違いをして、義経は追っ払われて
本国へと戻りチンギス・ハンとなったって説
そもそも日本は本来八百万の神(=祖先神)を祭ってることからわかるように、
多民族国家であって、単一民族国家ってのはあれは大嘘 焦土作戦とゲリラで
はね返したベトナムは
ベトナム戦争の予行演習やってたなw >>3
元には東北地方やそこから京や鎌倉への地理の知識がない
文永の役前の使者は九州に滞在して京や鎌倉へ行かせてなかったし
文永の役後の使者は処刑されてるので
元の使者が文永の役前に調査できたのは九州のみ 元寇=「モンゴル+支那朝鮮 による日本人大虐殺」だからな >>14
直接は戦ってないが、防衛に関しての指示を出してたから
防衛の功績が全くないわけじゃない >>28
元寇では戦いに勝利した、鎌倉幕府は傾いたが
時宗は優れてはいないかもしれんが、この勝利はその後よい脅しになっただろう >>26
それ古い説
名乗りにしろ一騎討ちにしろ史料や元寇で戦った武士の残した絵巻には書かれてない
元寇よりずっと後に寺社が描いた本がかなり元寇観へ影響してしまった
>>27
地図みればわかるが対馬は小さい島で大軍が駐留できるような地形じゃない 中国の文献とか
考古学とかもあまり当てにならないからな
むしろ 中国の墓泥棒とか盗掘者の方が わかってるかも
なんせ先回りして 盗掘してたりするから モンゴルが侵略マシーンなら侍も殺戮マシーンだからな。
土地を護る事が生業なのに芋引いたらそこまでだし。
それに元が無抵抗で恭順した相手には寛大てのも現代人は後知恵で知ってるけど時宗が知ってたかはわからん。 >>3
どうなんかね?
北海道は当時日本じゃないしなあ
とりあえず大陸から最も接近してる地域へ侵攻は一番普通の作戦だわな
大軍も送り込むからできるだけ近道したいし
あと当時北方は大陸の人間も地理的な把握が碌になかったんじゃないかね
北九州が大陸への玄関口なのは卑弥呼の時代からだったが >>45
いわゆる「北の元寇」?
樺太は東北地方ではないが… 高麗忠烈王が1278年にフビライへ日本侵略を要請した記録なら残ってるんだが
何で無かった事にしてるんだ? 文永の役と弘安の役って中学のときはかなりマイルドだったけど、実際は完全に戦争で殺し合いだったんだよね
なんであんなにマイルドに教える事ができるんだ? >>50
>>3が言ってるのは樺太侵攻のことじゃないの?
樺太侵攻後、東北、関東と来るのは自然な発想だと思うが 歴史的には古代の白村江の戦が影響してるんだろう(大和朝廷の敗北)
おそらく天皇家も朝鮮系になった >>14
この馬鹿、戦争が起きたら総理大臣自ら戦場で戦うとでも思ってるらしいwww >>54
神風信仰だな
実際は鎌倉武士は鷹島掃討戦に見られる位何万もの敵を倒してた 元の使者に日本国内の軍事的情報を持ち帰らせないためには殺すしかなかっただろうな
>>3
北からも来てたよ
アイヌとかとごたごたやってた >>53
それより前、文永の役より前の1272年3月にはもう
日本侵略への積極的な協力を約束して賛同してるよ
当時の高麗王は父王の元宗の方だけど
忠烈王は王子だった時には元にいたからね >>58
総理大臣自ら前線の歩兵やるならちょっと戦争してもいい気がするな 北条時宗の精神性、武士の時代精神は評価されてるだろ 鎌倉時代 >>1
したり顔でこういうことをペラペラくっちゃべる専門家気取りが心底嫌いだわ >>23
南宋から亡命した僧侶が時宗に、モンゴルの残虐な面を話したってのは聞いた事ある
他にもモンゴルから逃れた亡命者が、一般の日本人に同じ事を言った例は多かっただろうな
当時の日本にとってモンゴルは、海の向こうに恐怖の軍団というイメージが強かったかもね
こんな恐怖心を持った時宗が、いくらモンゴルから平和な事言う使者が来ても信用できんかったかもしれん >>14
北条の本隊が九州入りするまでに
九州の武士団だけでモンゴル倒しちゃたからな
その後、恩賞下げようと神風吹いたとか言ってみたりした チンギスハンは服従か虐殺の手法を取っていたから、
北条時宗のやり方は正解だろ。 >>51
吾妻鏡や鎌倉年代記はもちろん、幕府が出した命令にも名前があるのに実在を疑う必要がどこに? 講和を結んだ分けでも停戦中でも無いのに対馬と壹岐で大虐殺した上に本土に進行して来た国の使者なんて生かして返す分けないだろ >>64
でもまあそこは肩書き上許したれよ
そうしていいだけの人生を歩んできたんや 使いの人間が帰り道に地形調査して帰るので、切り捨てて帰らせなかったんだろ 時宗と日本を守った九州武士こそ日本最初にして最大の英雄である。 中国が攻め込んだんじゃなくその気はなかったから仕方なく攻め込んだ論 >>70
あほらし。肩書きに見合うこと言ってねえだろこいつは >>71 >>60
というか実際に文永の役の前の使者は調査して帰ってしまった
記事にもあるけど趙良弼って人は日本のこと調べてそのレポートをクビライに報告してる
だから文永の役後の使者も同様と思われて次は調査されてレポート報告されるの防ごうとしたのかもな >>55
モンゴル軍は博多方面ばかりに兵を集中したみたいに思われがちだが
一部の兵は長門方面に来たはず
対馬〜壱岐諸島を攻めて博多方面に攻めて来たが
博多に土塁を作らせ防御高めたが、隠岐から出雲地方に軍を集中してたら
戦局も大分変ったかもしれんが、当時の航海術では常識的に朝鮮から一番近い対馬経由になったんだろうな フビライ
皇帝なったけど遊びに来ない? 既読
無視すんなよ 既読
今から後輩にボコらせにいくわ それ以前に
神風がたまたま吹いて日本は助かっただけいう嘘を教え続けるの
日教組はいい加減やめろよ。
鎌倉武士はモンゴル兵をガチムチ返り討ちにしてんじゃねえか
モンゴル兵は上陸したがそこで追い立てられ船に逃げ台風にあってんだよ。
教科書に載ってる蒙古襲来絵詞も日本兵が一方的に蹂躙されてるように見えるが
思っきり図を半分切ってるし、捏造レベルの印象操作だわ。
歴史とか学問を、思想で歪めてちゃんと教えない教育とか一体何なの?
自虐史観とか曖昧なものじゃなくてハッキリ嘘刷り込んでんじゃん
思想優先で平気で嘘教えられる奴は学問に携わるなと言いたいわ 共産党指導者以外の偉人はことごとくこき下ろすのがパヨクのやり方 >>74
高麗の金方慶とか鷹島の数隻残った船で逃げ出して
置き去りにされた10万もの高麗南宋兵は武士団に掃討され全滅
鷹島は血の池地獄と化したそうな ユーラシア大陸がモンゴルに蹂躙されていた歴史的事実がないなら、こいつの言うことも正しいかもしれんわなw 最近の学問はイデオロギーというか自分たちの主義・主張を押し付けたいだけのカルト化してるな >>77
使者の見聞が当時は最大の情報だったし、逆に言えばそれさえ阻止すれば情報漏えいは防げたわけだな
衛星も偵察機もインターネットも何も無い時代だ >>57
神道の物部氏を仏教派の蘇我氏が滅ぼして
聖徳太子が遣隋使を送りシナの官位とかを真似て
図に乗った蘇我氏を中大兄皇子が打ち取り大化の改新の後
斉明天皇が白村江の戦いを挑んだのだな? >>83
キエフ大公なんて可哀想にな
滅んだキエフルーシの代わりにモンゴルタタールの徴税都市として作られたのがモスクワ >>64
専門家気取りだから嫌いなんじゃなくて、
お前が本郷の学説が嫌いなだけだろ。 >>1
日露戦争についてもこれが言える
結果としては奇跡的に勝ったものの
正しかったのは戦争を回避しようとした伊藤博文
朝鮮半島が永久にロシア領になってたかも知れんが
日本は致命的な国益を賭してまで
英米との対立に及ぶことは無かったであろう >>67
1回目の元寇の時は、南宋と日本は同盟しており
モンゴルは日本に「南宋と切って我々と同盟しよう」のつもりだった
それを日本は服従か虐殺と思い込んでしまった
その後南宋は降伏し日本は孤立してしまった
モンゴルは1回目で強さを見せつけたと思い、同盟から服従に格上げし交渉してきた
日本の態度は相変わらずで、さらに使者を斬るなどさらに強情な態度に
そして2回目の元寇が行われる だいたいどんな分野であれ断言するような学者様は疑えよ
白痴アジア人種よ >>83
ちょっと偵察で
スブタイとジェベにボコられるw >>78
長門へも襲来した弘安の役の前に幕府は中国地方へも防衛体制を敷かせてるよ
九州ばかりを防衛してたわけじゃない
大軍だったら別かもしれないが、元軍は中国地方の情報も持ってない 中華帝国の後継者だと主張するために侵略してたと予想してるのに
何で日本に対する対応は利益で計算されてるんだよw
実質的な朝貢の要求だろ 南宋と交易があったからな
火薬の材料とか輸出してたから
南宋に事はそれなりに 知識がありそう >>80
八幡神が蒙古兵にお家を壊されたのを怒って、火矢をかけ街を燃やし蒙古兵はなんか海燃えてると勘違いして逃げ出した、と文献にはある
これが真相である イルミナティは古代シュメール、エジプトの頃から存在した。
人類を奴隷化するのが太古の昔から秘密結社イルミナティの基本思想であった。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はイルミナティの人類支配の道具に過ぎない。
人類の精神を監獄に入れる宗教システムを作り、人類奴隷化を効率化する事を考えた。
西暦480年に西ローマ帝国が滅び、ローマ帝国の貴族達がヴェネチアに避難。そこからヴェネチアがイルミナティの世界首都になった。
彼等はヴェネチアの黒い貴族と呼ばれた。
彼等は莫大な金融資産や他の富や財産を持ち、国家権力を独占し、貿易により、欧州や地中海沿岸、ロシアにまで勢力を伸ばし、イスラム圏にまで浸透していた。
現代のユダヤ金融資本家と同じ働きをしていた。
十字軍戦争もヴェネチアの黒い貴族が自作自演していた。
カトリックとイスラム、カトリックと東方ギリシア正教を戦わせた。
次にヴェネチアはモンゴルに目をつけた。ヴェネチアがモンゴル宮廷にエージェントを派遣し、
ヨーロッパやイスラムをどの様に攻めれば落とせるかの情報を与えた。
そうしてモンゴルを世界的帝国に仕立て上げたのがヴェネチアだった。
ヴェネチアが世界権力支配を推進するために、モンゴル帝国を作る必要性があった。
東方見聞録のマルコ・ポーロもヴェネチアの黒い貴族のエージェントであった。
🤷♂🐖👿/👁\ 2回目の大敗が中国側の苦い記憶になってそれ以降の政権でも日本遠征が出たときに心理的ブレーキになったんだろ
十分に意義あること ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています