【歴史】徳川家康、豊臣秀次宛ての新たな書状見つかる 「伊達政宗は味方」と伝達 [ごまカンパチ★]
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https://news.yahoo.co.jp/articles/e86d86432265fdc7cf4bd3e3b39acdcf6d9aded6
静岡市は1日までに、徳川家康が豊臣政権下で秀吉のおい、秀次に宛てた書状が新たに見つかり、原本を入手したと発表した。
ともに東北地方の平定を担っていた秀次に「伊達政宗は味方」との情報を伝える内容。
市によると、書状は1590年12月8日付。
北条氏を攻めた小田原合戦後、家康が秀吉の命で居城を駿府(現在の静岡市)から江戸に移した時期に当たる。
当時は東北で一揆が起き、伊達政宗の関わりがうわさされていた。
書状では一揆鎮圧に当たった浅野長吉(のちの長政)から報告を受けたとして
「政宗の動向が分からないとのことだったが、味方であるのは間違いない」と記されている。 ここまで味方してもらって関ヶ原にこないとか不義理なやつだな、結局家康に従ったし >>1
この頃の東北の平定の総大将は秀次だったからなw
まあ配下の蒲生氏郷とか前田利家は後始末で苦労していたけどなw また教科書屋と学者が歴史捏造か
40年くらいでだいぶ日本史も変わったなあ笑笑
さすが親朝鮮 でも十字軍創設を企んでたから
実は寝首をかくようなゴリゴリのダークホースだよん 秀次にはそりゃみんな近づくよな。秀吉亡き後の豊臣の主って建前なんだから
凄いトラップだったよなw >>20
北条征伐後の奥州仕置で家康が東北大名の取次役をしてたことがこの書状により証明されたってことだな 支倉常長にスペイン艦隊を引き連れさせて幕府を倒すつもりだったんだろ?
イギリスに負けてスペイン無敵艦隊は壊滅してたのに間抜けな奴だったよな >>14
ヒマなんじゃねーの?w
契丹文字の解読やれよ。自分の国だろ 過大評価の政宗、奴はアテにならん・・・の書状なら納得w >>26
18世紀辺りまでアジア交易なんて
点でしか支配してないんだが >>25
証明は散々されまくってるよw 新たな史料が出て来ましたよって話で
何か意味があるとするならば家康が政宗寄りの立場だった→政宗に恩を着せることで関東東北の権益を確固たるものにしたい。後の婚姻政策の伏線がより一層明確になったということ 家康も既に狸の兆候出てるよな。東北で政宗が一揆の後ろで暗躍してた頃だろ
知らんわけないのに、よう言うわって感じw 伊達政宗は天下取る取る言って何もしなかったクソザコナメクジ 秀次からの文はないのか?
「四条河原から見ると見晴らしがいいですよ」とか 時代が遅すぎた、政宗は秀吉に媚びへつらい家康にも頭が上がらないただの雑魚かっぺ 伊達政宗って過大評価されすぎじゃない?
最上あっての伊達でしょう >>39
豊臣政権の東国での影響力を削ぎたいって部分で、家康と利害が一致してるからなw 大崎一揆か
蒲生氏郷と政宗が険悪になったり浅野と伊達が絶交して平成まで続いたり 大崎葛西一揆で蒲生氏郷とケンカして
花押の鶺鴒の目に穴がないから
扇動の書状はニセモノとか言い逃れて
黄金の十字架背負って上洛したとかだっけ
この秀次宛の書状も
関白切腹の巻き添えになりそうになった遠因か? >>32
言葉が足りなかった
勿論この史料で初めてそれが証明された訳ではなく家康が取次を務めてたことを更に裏付けることが出来ただな
伊達家文書見ても政宗の小田原参陣の手配なんかも家康は既にやってたしね
政宗に恩を着せたかったってのは同意
この時期江戸に移ったばかりで家康も大変な時期だったし関東東北の安定は当然最重要課題だったと思うしね
ただこの時点でそれが後の婚姻政策の伏線になってたと言うにはいささか時期尚早のような気がする 富澤「・・・だってさ」
伊達「しらねーわそんな昔の話」 外様大名なのに広大な土地持ってたのは家康の庇護があったからなんだなと改めて思った この書状がなかったら
金の十字架に磔にされてたかな 血液型はB型
良い時代だったな
今だったら炎上してるわ
しょうもない時代だ その後の徳川と伊達の関係を考えるとあったのかもしれない 秀吉が死亡時に秀次が生存してたら
関ケ原は秀次派VS秀頼派
大坂の陣は、関ケ原で勝利した後継者VS家康派
みたいなことになったかな? 戦国時代の書状をそのまま素直に解釈してはダメでしょ笑 伊達政宗「この書状の押下の鶺鴒には目が入っていない。怪文書だ!」 ほんとどうでもいい小さな話お前ら好きだね
アジアの小国の戦国時代なんてハナクソやん >>23
そこで問題です
2代目、4代目、6,7代目は答えられるかな? 政宗は登場からタヌキやな
秀吉には見抜かれていた感じだけど >>52
政宗の外交術もある。家光にも好かれてるし。福島正則なんか家康の代は良かったけど
秀忠の治世になったら潰されてしもうたw >>43
自力で切り取った領土が100万石以上なら一流戦国大名とすれば
伊達政宗も一流戦国大名だろう
武田信玄120万石
毛利元就120万石
上杉謙信110万石
伊達政宗100万石
今川義元70万石 政宗はゲリラ戦が得意だったんだよね 一揆扇動も得意技の一つ 農家に鉄砲配って敵を襲わせたり おっかねぇ >>69
それぞれ時期が違うからなぁ
最初の北条早雲と後期では100年近くの差がある >>69
個人ではなくお家で評価しないとな
伊達や武田は親子で殺し合いを続けてるし
今川も石高こそ100万いかないが当時最も天下に近い体制を作ってた 大川隆法に本人の霊を呼び出してもらえばすぐわかるだろ 小田原での、あの臭い演出は、徳川の事前の斡旋があったから
やったんかも知らんな 戊辰戦争の時の動きをみると
譜代でさえ裏切るなか伊達は義理堅く徳川についてるのだよな >>80
義理といえば米沢上杉家
保科の恩という事で会津についた
天下分け目で東軍の大軍を引きつけたが関ヶ原で西軍が敗れたため120万石が30万石に さらに15万石になるも徳川を恨むこともなし
一方毛利は総大将でありながら西軍敗北後総大将なのに防長2州を残してもらう温情 それで260年間徳川恨むべし
総大将のくせに空弁当のでサボタージュ決め込んだ毛利が石田、宇喜多、小西、大谷、真田、上杉、立花と言った諸将に恨まれる側だと思う
梟雄元就 義将謙信 藩祖の性格の差なのか >>80
子孫も最後まで徳川側に付いてたのがすげー
維新政府の勝ち馬には乗らなかった >>26
その頃て3.11より弱いけど地震で大津波で被害受けて
幕府とガチコンどころではなかっただろw >>83
毛利と上杉の違いは部下への非情さ
上杉は無理して家臣を抱えたから藩の財政は常に火の車
毛利はクビ切りで帰農させたから幕末で暴れる事ができた >>56
秀次が生存できた条件は中継ぎで
自分の娘を秀頼の正室にして政権を譲るてことを
了承することだっただろw
まあ秀次自身はこの条件飲んでも 秀次の跡取り息子の家来は
それを反故にしようと暗躍はするのは世の常w
とくに豊臣政権は欲で集まった家臣の集まりだからなw
足利尊氏のとき高師直が主家を凌駕する武力があって
観応の擾乱のときなら尊氏を殺すこともできたが結局やらなかったw
先祖代々の執事て因習から踏み出せなかったらしい。
が豊臣の家来にはそのような枷はないからなw なので結局秀吉は秀次をチョッパー
さらに係累も族滅させる徹底ぶりwww >>80
単に薩長土肥の下につきたくなかったからだろw
とくに長州の底辺あがりの不遜の言い方に腹が立って
暗殺しているくらいだしなw ほんとに本物なの?中国のおばちゃんが適当に書いたんじゃないの? >>5
ところどころ間違ってるかもしれんけど
□の部分は分からなかった
(天正18年)1590年12月8日付豊臣秀次宛徳川家康書状
奥筋之様子、依爰元浅弾へ以飛脚申届作候處、如此返札参着申候、□□□□□□/\候、
㝡前者政宗様躰不見届之由申来候間、驚入存候處、無相違之旨浅弾書面候、
先以安堵候、相替儀御座候者、可申述候、恐々謹言、
十二月八日 家康(花押)
中納言殿
【現代語訳】
奥州方面の様子は、こちらより浅野長政へ飛脚を遣わそうと思っていたところ、只今返事が届きました。
先だって政宗の様子はその動向が分からないとのことで報告を受けており、驚いていたところ、(味方で)間違いないと浅野長政より書面で連絡が参りました。
先ずは安堵しております。何かありましたらまたご連絡いたします。恐々謹言 馬上少年過のスレ
まあ伊達政宗公は野心家にして英雄ってところは間違いないでしょ。
まさに真田じゃないですが表裏比興ってところだよ。
そのなんとも本心のわからん捉えどころないところが
大成する英雄の一証左なんでしょうなあ。
なんやかやいうて徳川体制の中でもサバイブしているしね。
で、>>80 くんが述べている戊辰の役のこもごもだけどさ
奥羽越列藩同盟のなんと盟主であるというねw
あの伊達が、仙台伊達藩があの時期にだよw
佐幕徳川方のアンシャンレジーム擁護の主になるっていうんだからねえ。
いま佐幕っていったけど、幕府はないんですぜ? 大政奉還したし。
あの、時流の見えなさは政宗公が見たら嘆いたろうねえ。
むしろ西国雄藩四賢侯に座する四国宇和島伊達藩の伊達宗城公の方を
おおいに嘉して称えたと思うよ。そうでなくっちゃ! 再検証されるべきは騎馬鉄砲やな
連射しながらの騎馬突撃ならともかく
最初の一発さえやり過ごせばただの騎馬隊だし 嘘くせーなー
そんな手紙がなんで今頃見つかるんだよ
もしくはなんで見つからなかったんだよ 全然珍しくない。どっかの蔵に眠っていて、或いはどっかの図書館や大学に収蔵されたけど
解読が進んでないとか、古本屋から出てくるとか。今でも毎日のように新史料ってのは出てくる 秀次はなんだかんだの言っても2代目関白様だからな。
大大名も平伏する。
それを粛清したら豊臣も揺らぐだろうよ。 >>1
こうやって、豊臣政権の崩壊工作をしてたんだな、家康は。さすが嫌われ者タヌキ親父。 反意ありだったんだな
家康もせっせと内乱煽ってるしw
光秀使嗾もやってただろ 秀次があのまま生きていれば家康の天下はなかったけど
秀忠か家光の代で徳川の天下はあったかもしれない
それくらい圧倒的な東の大大名 政宗は土地掠め取ったり蝙蝠外交だったり伊達をでかくしたのは確かだが小者臭がすごい >>104
凡愚2代目とコンプレックス拗らせ3代目が天下人?
無い無い
だからこそ家康が目の黒いうちに嫌嫌ながら無理無理豊臣を潰してあげたんだろうが
大坂の陣で一番得したのは秀忠
旧主家を潰した悪名は全部親父が背負ったままあの世に行ってくれたんだからな >>13
前田は絡んでないだろ。
総大将が秀次でその補佐が家康。
東北勢にネットワークを作りあげていた秀次を何も考えずに誅殺して家康に
全部くれてやってしまったのが秀吉&三成の数ある失策の1つ。 >>32
婚姻政策を進めるきっかけになったのは秀次を失脚させたから。
家康が望んでそうなったというよりは、お膳立てしてくれてやったのが秀吉&三成。
三成は優秀な内政官ではあっても外交に関してはかなりの無能なんだよね。
もちろん軍事もダメなんだが、外交の方もかなり酷い。 >>107
前田も奥州仕置軍として参陣してるし伊達や南部との取次もやってるぞ
北条滅亡前から家康と共に政宗に秀吉への謁見をしきりに勧めてる利家の書状が残ってる
奥州仕置の頃は浅野や家康が取り次ぐことが増えたが、前田にも政宗からの報告が行ってて、政宗が利家に秀吉への取り成しを依頼してる書状が残ってる >>1
伊達は一揆扇動してたのにアホだな浅野
浅野がクソなんだよ
こいつ宇都宮も潰してるし
地縁がある大名が佐竹以外消えて家康の自由度が上がる 戦国有名人二人がスレタイに入ってるのに、北条時宗スレのほうがめっちゃ伸びてるのは面白いw >>111
この宇都宮国綱の突然の改易で
長政と長盛、三成の間に不信感と距離が出来た
原因となったようね
当時、宇都宮に居た真田昌幸がどんな動きをしていたのか 大阪の陣の時に大阪と仙台で徳川を挟み撃ちにしないと
まぁそれは関が原で上杉がやったか >>104
秀次は将棋が強かったからな
まぁ公家は将棋やってたのかな >>7
火事場泥棒して白石を切り取っただけ
福島まで攻め寄せたが撃退された >>82
最上はお家騒動がこじれにこじれて両派とも
幕閣まで取り込もうとして騒いだからさすがに
潰すしかなかった 家康は会津を拠点に関東を睨む蒲生氏郷が怖かったから、
蒲生と激しく対立する伊達政宗に、
敵の敵は味方の理屈で連帯感を感じてた。
政宗は家康の味方になった覚えはさらさらなかったはず。 >>69
一代で上野、下野半国、上総切り取った北条氏政超有能だな >>70
陽動作戦も上手
会津攻略の時は嫁の実家の田村に佐竹軍を引き付けさせて突然会津に侵入して事前に調略してた猪苗代氏を味方にして勝利、会津黒川に進駐 秀次は切腹にしたって家老まで皆殺しにしなくても
ただでさえ少ない豊臣の幹部減らしちゃって
徳川は先祖の代から仕えてる幹部が揃ってて人材でも差がついた
秀次と会ってもいない佐竹の姫まで殺してるし
秀吉はどうしちゃったんだろう
痴呆説とか脳血管障害説とかあるけど ま、思っきり政宗が一揆けしかけてたわけだけど
家康も何かあったら味方がいるから
秀次にではなく政宗は自分にとって味方という意味での書状だわな
つまり秀吉存命時から家康は秀吉が死ねば反旗を翻すと決めてたってことで
それは秀次が切腹させられず跡を継いでも実行されてたんだろな >>125
蒲生に関東を睨む余裕なんて無かっただろ。w
新天地で伊達に良いように翻弄されてアップアップ。
そのうち朝鮮征伐が始まって間もなく病気で他界。 >>100
逆に秀次と家康の関係が昵懇だったということで
奉行側がくさびを打ったとも解釈できる
忘れてると思うけど家康は秀吉の妹婿で豊臣公儀一門筆頭だからな
加藤清正なんかより全然近しい >>125
家康と政宗と北条は秀吉に対抗するため
誼を通じてた
その後家康が秀吉にひざまづき北条が落城寸前の時、小田原にかけつけた政宗は家康や前田のとりなしで助かった >>129
秀次家もそうだが、大和大納言家も潰してしまったからな。
末期養子を入れてでも残しておけばよいものを取り潰して家臣団を取り逃がしている。
秀吉お気に入りの誰かさんが権力を独占したくて政敵をおいやることばかり考えている
からでしょ。武断派から獅子身中の虫として毛嫌いされたことには相応の理由がある。 田吾作脳ほぐしが進めば進むほど己の中で家康の神様の存在は
小さくなっていくのだよ。聖書のマルコ5章では
レギオンがキリスト様に数千体の悪霊を追い出してもらって
豚の群れに入れてもらう話があるけれども、お前らも家康の神様なる悪霊を
己の中から追い出してもらえよ。家康が己の中で必要以上に大きな存在と
なり、うっとりとなって、効かされに効かされ、踊らされ
あんなんなりたい!などと思って一生を送る人もいるからねえ。
家康の悪霊に憑かれた者ですよ。この国は古来より八百万の愚の神々(実は悪霊)
が跋扈しており、車の神様、学歴の神様、金の神様、性欲の神様、医者の神様
タワマンの神様、ロマンスの神様、のぞきの神様・・己の中で存在が
大きくなりすぎてるわけだ。ひとつひとつ棄てていかねばならぬ。
死ぬまでに間に合うか、おい。という話。
あ、ちなみにキリスト教国の人々にとって家康はチンカス野郎でしか御座いません
から。 これは結構貴重な発見なのでは
秀次と関わりがあると思われると連座で何らかの処分があることを恐れたので、秀次の名前の入った書状や書類は
廃棄した大名が多かったそうだが
さすがに家康はそんなことは屁とも思わずしっかり保管してたのか、
単に処分し忘れたのか… >>132
氏康の最大版図はすっかり謙信に刈り取られた
越相同盟で固定化
以後の再拡大は氏政の独力
特に里見のお家騒動につけこんで安房一国に押し込んで従属的同盟押し付けたのは大きい
ゲリラが跋扈してた江戸湾相模湾が平定できた
つーかツッコミどころソコじゃないだろw >>136
石田三成は秀次事件については関わってないと思うけど
秀次の遺臣には三成に仕えた者も多くいるし
もし三成が秀次の死に関わってたら遺臣からも嫌われるだろう >>138
原本の発見だから貴重であることには間違いないけど
この書状と同じ日付で秀吉側近の津田盛月・富田一白に宛てたこれとほぼ同じ内容の家康書状が
伊達家文書として既に知られてるから内容的には大発見ってわけでもない >>22
支倉常長が海外へ行ったら連絡無しで何年もほったらかしたり、あの船旗は逆卍マークだしで、政宗は良くない人だろうと思いました >>140
遺臣が忠義者ばかりと誰が決めた?
って宇喜多秀家さんがゆってましたよ そりゃあ江戸に移されたけど東北と戦争なんてわざわざしたくないし
逆に味方に付けとくに越したことないだろ
いざとなったら関東連合で秀吉に灰皿にウンコさせればいいだけだし >>146
そうだな本田忠勝はガンダムだったもんな 葛西大崎一揆か…大崎やその家臣はもうちょっとクローズアップされてもいい気がする
大崎義隆も馬鹿殿じゃなくて本当はただの苦労人だし
古川忠隆(大崎合戦で留守政景を撃退、この一揆にも参加し政宗本隊に攻められ行方不明)も
大河ドラマに出る役どころなのに未だにゲームではドマイナーですな 家康は政宗に岩手山城を作ってあげたり、仲間だと思ってたんだろうね こういう書状に書いてあることって、当時の人は鵜呑みにして信じていたの? >>149
その辺は仕込みやね、政宗のガス抜き兼ねて恩より実力示した感じ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています