乗りものニュース11.25
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「うどん県」を称するほど独特の麺類文化を築き上げてきた香川県で、最大の鉄道駅であるJR高松駅構内の「連絡船うどん」が、2021年11月末をもって営業を終了します。最終日には駅長による花束贈呈などのささやかなセレモニーが行われる予定です。

今回の閉店は、2023年度に完成が予定されている駅ビル建設のための立ち退きで、同店横にあったスーパーマーケットも2019年に閉店、跡地に作られたパーク&ライド駐車場も「連絡船うどん」とともに閉鎖が告知されています。

連絡船うどんは新型コロナウィルスの影響で数か月休業し、10月に営業を再開したばかり。その矢先の閉店発表とあって、ひさびさに来店してうどんを味わいつつ、同時に別れを惜しむ人々が多くみられました。

「連絡船うどん」はその店名の通り、高松港と岡山県の宇野港との間で運航されていた鉄道連絡船「宇高連絡船」船内で販売されていたうどんを再現し、提供しています。瀬戸大橋が開通すると連絡船は姿を消し、船上のうどん店も過去のものとなりましたが、当時を懐かしむ人々も増えたため、連絡船廃止から10年を経た2001(平成13)年、関係者にヒアリングを繰り返して当時の味に近づけた「連絡船うどん」が営業を開始しました。店内には現役時代の連絡船の写真を掲示し、屋外に飲食可能なデッキを設置するなど、往時の記憶をできるだけ呼び起こせるようなつくりとしています。

宇高連絡船といえば、鉄道との乗り継ぎ時に列車の席を確保しようとする「高松ダッシュ」「宇野ダッシュ」が鉄道ファンの語り草にもなっていますが、船上では「うどんダッシュ」も見られました。というのも、1回運航あたりのうどんの積み込みに限界があり(100食程度とも)販売数が限られていたからです。また、食べる場所が主に甲板上であったことなど、ここならではの光景を思い出す人が少なくありません。

味については、麺を高松市内の有名店4店(中浦製麺、源芳、井筒、かな泉)が提供していたものの、実際に食べた人からは「食べながら見る景色は素晴らしいけど、味はそこまででも」という声も。その証言を集めると、ダシは「薄味ながら風味がかなり強め」で、「イリコ(カタクチイワシの稚魚の干物)、昆布だけではなくサバ節(香りにインパクトを出す際に用いられることが多い)が相当強めだったのでは?」という推測も聞かれました。

このように、さまざまな形で記憶に残っている”連絡船のうどん”は、なぜ多くの人々に語り継がれ、懐かしまれているのでしょうか。同時に、連絡船とはまた違った道を歩んできた“高松駅改札内のうどん店“の歴史を振り返ってみましょう。

全盛期は2店で1日5000杯!連絡船うどんに負けない改札内うどんの歴史

1988(昭和63)年に瀬戸大橋が開通するまで、鉄道と連絡船の乗り換えが発生した高松〜宇野間では、連絡船の船上以外にも、高松駅で2軒、宇野駅で1軒の立ち食いうどん店舗が営業しており、どのタイミングでもうどんにありつける環境でした。

そのうち高松駅では、1952(昭和27)年、連絡船乗り場の手前にあった「高松桟橋駅」(高松駅構内扱いの乗降所。1959年に高松駅に統合)で、早朝と深夜のみ営業するうどん店が開業、その後1963(昭和38)年には高松駅3番ホームに常設の立ち食い店舗が登場しています。高松駅弁(現在は会社清算)と鉄道弘済会が営業していた両店舗は、ピーク時に合計で1日約5000杯が販売されていたそうです。

一方、連絡船上のうどん店は1969(昭和44)年開業で、高松駅の改札内より後発です。ただ、この店に麺を卸していた店舗は、それぞれ「ぶっかけうどん発祥の店」や、香川県のうどんが全国で知られる前から地元タウン誌で推されていた店など、高松市内でも名の通った店でした。

しかし船上には本格的な調理設備がなく、当時は冷凍麺の技術も発達していません。半生の状態で片道1時間の連絡船に積み込むとなると、特に復路では麺は伸び、ダシは煮詰まってしまいます。船上のうどん店の運営元である高松駅弁も、のちに宇野側からの積み込みを行うなど改善を模索していたものの、やはり船上では不利な条件も多かったのではないでしょうか。

昭和末期には、国鉄の経営改革の一環で、船から鉄道への乗り継ぎ時間が大幅に削られ、高松駅改札内でのうどん店は短期間で売り上げが半減。瀬戸大橋開通後は高松駅弁が運営する1店のみになってしまいます。そうしたなか高松駅弁は、前出の通り“連絡船のうどん”を懐かしむ声を取り入れ、駅構内のうどん店を「連絡船うどん」へリニューアルしたのです。
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