>>493

続きもあるぞ

1985年(昭和60年)頃からは、圧力釜爆弾・時限発火装置の製造や、飛距離が数キロメートルに及ぶ迫撃弾・ロケット砲も使用するようになった。1985年(昭和60年)10月20日には、革労協などと共に10.20成田現地闘争で機動隊と大規模に衝突し、1986年の第12回先進国首脳会議では、新東京国際空港と迎賓館に向けて、迫撃弾と飛翔弾(ロケット弾)を発射する事件、放火事件、皇居の爆破未遂事件を起こした。

1988年(昭和63年)9月21日には、千葉市内の路上で、当時千葉県収用委員会会長で弁護士の小川彰を襲撃している(千葉県収用委員会会長襲撃事件)。小川弁護士は全身を革命軍から鉄パイプで殴られ、両足と左腕を骨折するという重傷を負った(その後、小川弁護士は2003年〈平成15年〉7月にこのテロの後遺症を苦に自殺する)。

このテロ行為に中核派は犯行声明を出し、「収用委員会解体闘争」と称して「電話と手紙を集中せよ」として、他の収用委員全員の住所と電話番号を、機関紙『前進』に掲載した。中核派は収用委員およびその親族に対し大量の脅迫状と脅迫電話を送りつける手口で「家族ごと殺す」などと脅迫を行い、その結果翌月、遂には収用委員全員が辞任する事態となる(千葉県収用委員会は2004年(平成16年)に再建された)。

中核派による闘争が最も激しかったのは、昭和天皇崩御と皇太子明仁の天皇即位(現在は上皇)に関連して、1989年(昭和64年 / 平成元年)から約2年間の「天皇決戦」であった。中核派は、「大嘗祭粉砕」と称して、「一切が軍事的決着として帰結する死闘戦」を行うことを宣言。大山祇神社や秋田県護国神社等の旧日本軍の戦史に繋がる神社や、三千院・仁和寺・青蓮院など、皇室とゆかりの深い神社仏閣に対する器物損壊・放火事件を起こした「京都寺社等同時放火事件」を皮切りに、伊勢神宮に対する迫撃弾発射未遂事件・伊勢神宮爆破未遂事件、常陸宮正仁親王襲撃未遂事件、往来妨害事件、行政対象暴力事件、企業恫喝事件、新幹線線路爆破未遂事件、造船所放火事件、成田空港襲撃未遂事件、新東京国際空港公団関係者脅迫事件、成田空港行き京成電鉄列車への放火事件など、124件ものテロ・ゲリラ事件を引き起こした。