【佐賀】吉野ヶ里遺跡『謎のエリア』発掘現場を特別公開 新たな墓発見も [すりみ★]
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佐賀県・吉野ヶ里遺跡で『謎のエリア』の発掘現場を特別公開です。新しい墓が発見されました。
5月3日に公開されたのは、吉野ヶ里遺跡の中でも神社の敷地があったために発掘調査ができず、『謎のエリア』と呼ばれてきた区域です。
佐賀県は去年、10年ぶりに発掘を再開し、『かめ』や『つぼ』に人骨が入った『かめ棺墓』や、青銅で作られた重りが出土しています。
《中略》
佐賀県の担当者は、「いましか見ることができない貴重な発掘の様子を見に来てほしい」と話していました。
吉野ヶ里遺跡のゴールデンウイーク特別公開は、5月7日まで行われます。
全文、動画はソース元でご覧ください
FBS福岡放送|2023.05.03 19:09
https://www.fbs.co.jp/news/sp/news96c5t46cics0876yd0.html
※関連ソース
吉野ヶ里遺跡公園|ナゾホルよしのがり|吉野ヶ里遺跡の発掘現場を特別公開します!
https://yoshinogari.fun/news/%e5%90%89%e9%87%8e%e3%83%b6%e9%87%8c%e9%81%ba%e8%b7%a1%e3%81%ae%e7%99%ba%e6%8e%98%e7%8f%be%e5%a0%b4%e3%82%92%e7%89%b9%e5%88%a5%e5%85%ac%e9%96%8b%e3%81%97%e3%81%be%e3%81%99%ef%bc%81/ >>1 ディープなマニア向けだなw 知識もないと楽しめないだろうし・・・ 大都市は大国の近くにできる
邪馬台国が九州にあった証拠だな 神社が立ち退いてくれて、発掘できるようになったから、早速調査してたところだな
何か出たという報道はコレと言って聞いたことないけど、新発見はなかったのかな? 初代天皇が九州地方から出現して近畿地方を制圧した神武東征あるだろ
ルートにも兵士の魂を鎮める何らかの痕跡あるし
よは西日本全体邪馬台国だったが真相みたいよ 佐賀とかw邪馬台国の価値が1/1000000000000000になっちゃうよねプ 筑紫平野の肥沃な土地だから、文明は生まれるんだよ。
近畿なんて無理無理 弥生集落が放棄されて以降、前社殿建立に至るまでの祭祀跡は調査したんだろうな?
まさかお目当ての弥生遺物以外には目もくれず破壊したんじゃねぇだろうな? 想像してた以上に広い地区だな
邪馬台国に関連するムラの一部なんかねぇ、やっぱ 漢字を発明したのは殷王朝
殷王朝を作ったのは日本人 抑、前漢は倭だろwwwww
倭国と日本国が別なだけで 邪馬台国は九州説の気がしてきた
邪馬台国と大和朝廷はまた別物なのかもね 吉野ヶ里遺跡って住居跡じゃなくて、王家の谷の様な集団墓地なんじゃね
平安時代は川に流したり山に捨てていたのにそれより遥かに昔の墓だよ
焼くのが大変な瓶棺なんて、アレは偉い人の墓なはずだよ、偉い人の上で暮らすかね 北内郭と南内郭間にある住宅地あたりを発掘したいアル >>25
最終的にはヤマト王権に制圧されるけどねw >>33
九州説における邪馬台国王都候補地って何処だっけ? >>22
去年から発掘を始めたばっかりなのは知ってる
元々吉野ケ里の中に神社があって、そこだけ発掘できていなかったところ
神社が移転することになって、渡りに船で発掘ができるようになったこともな
今回わざわざ特別公開するってニュースなわけだけど、それに見合うような何かが出たという話を聞かないから、どういう事だという問い
全然経緯も何もわかってないんじゃないのか? 邪馬台国とかいう都市伝説に熱狂する輩たち
アフリカのサハラの目がアトランティス大陸説よりも遥かに符号性がない邪馬台国ドコドコ説 >>40
邪馬台国=女王の都を王都と考えること自体間違いかもしれない
卑弥呼は豪族達に祭り上げられた神輿に過ぎないので恐らく卑弥呼よりその豪族達の方がよっぽど良い暮らしをしてた
個人的な推測としては祈祷の中心地は恐らく阿蘇山なので巫女の首長としてその近くに拠点を構えてた可能性はあるかなとは考えてる >>48
倭国の方から日本国を併合したのか?
倭国は🇫🇮フィンランドの方まで領土あったんじゃ? 時代的には邪馬台国があった紀元三世紀より古い遺跡で、先邪馬台国遺跡なんだよね
因みに邪馬台国のあった三世紀には既に遺跡となり、別の集落が跡地に建ってた >>8
奴隷制度で魏に奴隷を輸出していた邪馬台国より
吉野ヶ里遺跡は紀元前7世紀まで遡れる古き邑なのに、
なんで邪馬台国に固執するのか
逆に理解出来ないよ つか、そんな強権力で支配できないでしょ…古代に
なんでおちんちん切られたのやら??逃げればいいのに >>42
結局特定されてない(できていない)のねw
候補地がハッキリしない状況じゃ、大和説の優位性は揺るがないどころか、本来論争の舞台にも立てない筈
考古学はモノが全てだからな 奈良に卑弥呼がいた時代より200年くらい前の時代かもね 山形県で出土した東北の卑弥呼をDNA解析して復元したら黒人かポリネシア人だったな 武漢と提携「国防上問題ない」 大阪知事、「一帯一路」で物議も ★3 : 2022/05/31
ps://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1654039625/
>>1
>大阪府の吉村洋文知事は30日の府議会本会議で、府と大阪市の共同部局が昨年12月に結んだ中国・武漢との港湾提携について
>「国防の観点から、問題があるなら当然やめるべきだと思うが、そうとも思わない」と述べ、協力関係を維持する考えを示した。
問題ありすぎでしょ↑↑、都構想やIRや上海メガソーラーと同じく、松井橋下維新は中華や安倍スガ河野[親中親韓:反日(DS]の命令でやってるんだろ
ps://i.imgur.com/iunpbhp.jpg 共産も立憲もその背後にあるのは敗戦後の日本の思想の崩壊の混乱のドサクサ紛れに起こった集団ヒステリーだから
その時代の老人達が訳も分からずにその思想を信奉してただけ
もはやそんな時代は過ぎ去り過去の遺物に過ぎなくなってる
昭和や平成初期なら「自民を叩く」と言えば拍手喝采して内容なんて関係なく称賛された
彼らは今もそれをするしかないんだよ
共産も立憲もその滅び去った化石にしがみついて滅びるしかない哀れな存在 DNAが採取できるモノが出てきたりとか
筆や硯が出たりとかすれば邪馬台国云々抜きでも
凄いんでないの 吉野ヶ里がヤマタイコクとかデマ言ってたペテン師達は謝罪しろ そろばんも実は違う?
なんでこんな偉大な中国に歪められてるんだ? >>63
この時代にあって然るべきなのに、出てきてない木簡・竹簡や木牘・竹牘が出るといいな
文字があり書簡のやり取りをしてるはずなのに、文書資料がまったく出てきてない
木簡・竹簡は現代まで持つので、実在してたらそろそろ出てこないとおかしい
これまで出土した硯(だとしてるただの平たい石)が本物であれば、その対になるもののも出て然るべき 邪馬台国は商時代の長江流域から来た農耕民族の国
ヤマト王権は大陸北東から来た騎馬民族
近畿説に拘ってる人は、邪馬台国と天皇の繋がりを信仰してるから、九州説がどうしても許せない
九州説に拘ってる人も神武東征が九州から近畿へ行ったことだと信じてるので似たようなところがある 顔に入墨はオーストロネシアの文化
商、縄文、弥生、アイヌに共通する
一方でヤマト王権はそれを野蛮だとした
九州で木簡などが見つかる可能性はあるが、近畿で古墳時代前期の木簡が未発見
ヤマト王権を作る勢力は文字を持たなかったのだから当然 文字は文明が一定水準に達するまでは無い方が優れている
嘘が残りにくく、信頼性のある考えを受け継げる
文字で残そうとするから、正しい歴史や伝承が途切れる >>69
つまり大和政権は元々大和で発生したという説? >>71
歴史書の類ならそうかもしれないが、木簡・竹簡の類は荷札であったりの事務的な記録が多い
何年何月に何処そこから何をこれだけ持ってきた。といった事務的なもの
しかしそれが現代人にとっては重要な資料になる
年号や地名、産物どれも一級の資料
徴税をしていたのなら、こう言った文書記録は必ず存在したはず 国民民主 玉木代表 山上容疑者を肯定する言説もあるが完全に間違っている。テロにいかなる理由も正当性も与えてはならない★3 : 4/15(土)
://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1681557980/
三浦瑠麗氏 テロに断固反対「テロリストに同情したり名声与えたりしてはいけない」 : 4/15(土)
://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1681558175/
>>59 >>1
安倍系似非保守/偽右翼(アベパヨ)三浦瑠麗(太陽光メガソーラー開発投資=親中派:反人権=テロ賛成)はもう消えたのかと思ったらまだ居たのか(※玉木N国れいわ維新..もアベパヨ)
ps://i.imgur.com/4jPSzKL.jpg 中国が公文書を紙に残すようになったのは、三国時代が終わって、東晋からのこと
日本がそれより先行していたり、即右へ倣えしてたとは考えにくく、当時の文書連絡手段は木簡なり竹簡を使っていたはず
魏志倭人伝でも文書のやり取りをしていた記述もあるし、徴税の仕組みがあったことも書かれている
木簡、竹簡自体は長期間持つはずなので、これが出てきてない事は違和感しかない
檄を送られてるのも紙ではなく、木簡、竹簡であった可能性がある
糸島か或いは吉野ケ里か、どちらにせよ早く文書遺物を探せ
吉野ケ里が女王卑弥呼の王城だったとしたら
一番期待するのはこういった文書類
女王への報告は全部口頭です、女王からの命令も口頭ですってのは、時代背景的にも合わない 着々と証拠が積み重なって邪馬台国が筑紫平野以外考えられない状況になって行くよ。
だって未だ掘り返して無い場所が糞の様に在るんだから。
佐賀ってマジで殆ど開発が入って無いので掘れば幾らでも出て来るぞ。 >>42
多分八女辺りまで続く広大な地域が邪馬台国。 金印が捏造でなければ、弥生後期には日本に文字はあったが
古墳時代に消える理由はヤマト王権が文字を否定していたということ >>78
ないよ
弥生時代に文字があったのなら「必ず」文字の痕跡が残る
それが今まで全く見つかっていないということは当時文字はなかったということ 文字は人口が増えることで使われるようになる
東アジアでは商時代に使ってたが、倭国に流入した数が少ないから、弥生人はさほど重宝しなかった可能性もある
流入してきたのが王朝とは関係ない農民なのであれば使う謂れもない
倭国で文字が使われるようになったのも、半島からの流入が増えてから 一般的に使われていたかどうかなら使われていない可能性が高い
文字があるかないか、弥生人が文字の意味を理解していたかどうかでは
金印が捏造でなければ、していたことになる
文字が呪術に使われる場合は、一般に使われなくても村の長が儀式の時にだけ使うということも考えられる
その場合あっても残らない
一般的に使ってたら残る 大陸から一番近い九州に邪馬台国があった方が自然だけどなぁ
近畿まで大陸からわざわざ来たと考えるより
近畿にはまた別物の権力集団がいたんだよ、多分
それから大和朝廷へと発展していった
まぁ、吉野ヶ里から色々これから発掘されると思うわ 邪馬台国は南の狗奴国とセットで考えると九州がしっくりくる
卑弥弓呼は熊襲隼人の首領だろう 中国歴史書に登場、最初の日本人「帥升」 弥生時代の吉野ケ里の王か 邪馬台国論争に一石
https://news.yahoo.co.jp/articles/86b629d80ec3a383287078f0504d1655ece57c52
「後漢書」には「倭面土(わめと)国王帥升」は西暦107(永初元)年、後漢の第6代皇帝・安帝(あんてい)に対して160人を献上し、謁見(えっけん)を願い出たと記されている。 「面土(めと)」(面土国)の位置には諸説あるが、七田館長は古墳時代の行政区分に用いられた「米多(めた)」に通じるとして、現在の上峰町米多(めた)や、吉野ケ里の「目達原(めたばる)」に引き継がれたと推測する。 出土遺物では、吉野ケ里遺跡周辺の複数の首長墳墓から、中国の鏡や鉄製の刀剣などが副葬品として見つかった。このうち、帥升が後漢と外交を行った107年までに作られた中国鏡は、上峰町の二塚山古墳と五本谷遺跡から出土しており、いずれかが帥升の墓だった可能性もある。 邪馬台国は弱小国
だから群れて魏に泣きついた
小国でも度胸と渡海技術があれば大国にコンタクト可能 >>81
古墳時代に大和政権が否定したから文字が消えた、なんて説がどんだけアホらしいことか分かったか? >>40
筑後平野一帯だろ
海岸線は現在よりもずっと内陸部にあったけれども、同時代の畿内の土人集落と比較したら、ずっと広大だったのは間違いない >>89
今の筑後・筑紫平野だけでは無く耶馬溪方面(大分県側)に勢力範囲を拡大してたんじゃと俺は予想してる。 >>89
だから、それが「特定されてない(できていない)」ってことじゃないの?
何処を掘ったらいいのよw >>91
佐賀県部分は佐賀の発展に合わせて其の都度開発途中に発見されると思う。
だから結構時間は掛かるんじゃ無いかね。 >>90-91
「王都の場所」だから大和朝廷のように事あるごとに遷都しまくったかもな
現代の万博やオリンピックみたいに誘致合戦してたかもしれん >>78,79
まさに古墳からの出土物に文字が使われてるケースがいくつかある
知識層、支配層に限定されるんだろうけど、古墳時代にももし使われてたことは否定しようがないよ なんか誤解されてたら申し訳ないが、俺は邪馬台国は何処だ!!をやりたいのではない
もちろん吉野ヶ里がどういうふうに見られてるのかも理解してるが、だからこそそろそろ木簡であったりが出てくることで
今まで確実な物証のなかった邪馬台国がはっきりしてくれば良いと考えてる
少なくとも糸島や吉野ヶ里が魏志倭人伝と関係のある、重要な地点であれば、木簡の一つや二つは出てきて当たり前のはず 後漢の時代には紙が普及し始めてて、書物が邪馬台国に渡ってても腐って残ってないかもしれないぞ >>96
うまい具合に、中国で公文書が紙を使うように決められたのは東晋頃なので
三国時代はまだ木簡、竹簡に頼ってたはず 九州の何処か忘れたけどすげー鮮やかな色彩が施された古墳とかあるんだよな
あそこに葬られたのはどんな人物なのかね 馬王堆帛書なんかは前漢時代だし、絹布も九州じゃ高温多雨で湿度が高くて残りにくいだろうなあ >>99
出てきたらいいね
人の空想で作られたストーリーを語るよりも、当時の文書が出てくる方が遥かに場所の特定は前進できる
吉野ヶ里は結構期待できるはず >>100
秤が見つかった吉野ケ里や中国との交易において重要な土地だったと思われる糸島でも文字が見つかってないんだから
当時文字によるやり取りはほぼなかったと見るべきじゃないかね ://kansaihanji.up.seesaa.net/image/E4BA8BE4BBB6E794B28E8A990E6ACBAE7AB8BE8A8BCE382B3E383A1E383B3E38388E4BB98E3818D-62660.pdf
https://kansaihanji.up.seesaa.net/image/E4BA8BE4BBB6E794B27E8A990E6ACBAE7AB8BE8A8BCE382B3E383A1E383B3E38388E4BB98E3818D-4bc08.pdf
長谷川卓司もまっさおな
あほさんばかとりおなのか?
裁判官
神戸地裁 裁判長裁判官久
保井恵子 裁判官 藤田晃弘 裁判官山形一成の合議体判決
CarCr eateH IRO どうするどうする?
警察にも同じの提出されてるぞ
加古川市尾上町今福2-18 漆原北全真史 訴訟代理人
村山愛子命稔 長谷川猿以下しょんべん徐々もれ村山法律事務所 姫路市北条宮の町213番地
を被告とする不当訴訟損害賠償請求事件ついて神戸地裁 裁判長裁判官久
保井恵子 裁判官 藤田晃弘 裁判官山形一成の合議体判決に対する上
告状は提出済み。上告理由書も作成済み。で、それに添付する採証法則違反
の甲7及び甲8について幼稚園児以下の裁判長裁判官久保井恵子 裁判官
藤田晃弘 裁判官山形一成でも間違い探しができるように間
違いの隣にコメントかきこんだPDF作成しました。
ps://carcreatehiro.seesaa.net/article/499227180.html 邪馬台国の時代には近畿に大きな集落跡や古墳が見つかっている。
そもそも隋の歴史書に大和は魏志倭人伝に書かれている邪馬台国のことだと書かれている。 >>102
伊都国で書類確認してたって書いてるし、糸島でも何らかの文書遺物は出てきてもおかしくはないはずやん?
吉野ヶ里が卑弥呼の王城であるなら、行政書類も読まず、支持も出してないはずもないし
こちらも出てこない方が違和感のが大きい >>86
大国だよ
今の西日本のザックリ半分を配下に置いてた >>69
オレは近畿パーはただのバカの猿だと思ってる >>112
吉野ケ里が魏志倭人伝に書いてあるとおりの邪馬台国なら
文字の書いてある遺物が出てこないのは無理がある >>114
吉野ヶ里歴史公園の学芸員いわく
外環壕までの内側(つまり吉野ヶ里遺跡内)では、1200人程度の人間が暮らしていたと推定される
山村の村の最盛期の人口並みには人がいたっぽいね 卑弥呼が神社みたいなとこに住んでたら遺跡なんて残ってないな 畿内は文字どころか、厳重に警備された館や豪華な装飾品、鉄製品もろくに出てきてないけどなw >>116
昔の人間の集落の広まりかたを考えれば、神社がある事は不思議ではない
立地の特性として、人が住みやすい平地があって、飲料水に困らない川がある(田手川)
そういう場所を見つけたら、人は磐座を設置して祀る対象を定める
磐座はその後神社として固定化される
巨石の磐座は持って移動できないが、小さな磐座は人ともに持ち運びされていたと考えられてる
伊勢神宮が元伊勢を転々と磐座とともに移動したのも、そういう人と磐座の移動の歴史と考えられてる 田舎の遺跡を掘っても何も出てこん
昔も今も都市の中心は一緒だろ >>85
中国の研究家に聞いても邪馬台国は九州説が自然だという見解なんだよね >>8
九州は大陸の検問的役割地区
だから出土はせいぜい土器や交易関連の物品程度
大陸からの脅威の背景で隣接九州の遷都があるはずないだろラーメンハゲ >>123
そう
大陸と交流できた九州が中心地で畿内と出雲にも第二、第三の都市があった
どこかのタイミングで九州から畿内に移動したか、畿内が九州を滅ぼしたと考えるのが自然 >>124
土器や交易関連ってw
まさに纏向じゃん
交易は交易でも日本国内の交易だけどな >>126
実際九州は大陸からの侵略に晒されていた
背が高く大陸人特徴の出土人骨が多い
九州の邪馬台(大和)国の守人的役割の恩恵を受け奈良、京都、大坂の後続都の存続が実現し得た この当時に大陸からの脅威なんてあるわけないじゃん
中国人なんて昔は「えーw島になんか住んでるのw ないわー、島とかないわーw」って文化だから海の外は化外の地でしかない >>125
日本書紀に神功皇后が九州の諸部族を征服していく話があるからヤマト王権が九州の王国を滅ぼしていったんじゃないのかな
山門郡の田油津媛なんてモロに卑弥呼の一族の末裔を感じさせる >>129
神功皇后の九州征伐は「天下取ったる!」みたいなモチベーションだったんだろうか?
それとも大飢饉等で困窮して略奪が目的だったんだろうか?
街道も無い時代に、わざわざ畿内から遠征して小国を滅ぼして回るって相当なキチガイだったんだろうな >>129
卑弥呼に補佐役の弟がいたように田油津媛に兄の夏羽が付いていたところも被るね 畿内説、九州説色々あるが、結局今の所魏志倭人伝なんかの文献資料のみに頼ってるのが実態
シュリーマンのトロイアにしても、文献を裏付ける物証が出てきてはじめて本当にあった事と認められた
邪馬台国が本当にあったとすれば何が出てくるのが一番確実か?って、その当時の文書記録が手堅い
地名や人名の書かれてた文献が出てくれば、それでほぼ誰も反対意見は言えなくなる >>132
>その当時の文書記録が手堅い
712年に書かれた古事記が日本最古の文書記録なのに
「その当時の文書記録」って何? >>133
吉野ヶ里遺跡が使われてた頃の文書記録の事だよ
具体的には当時の木簡や竹簡の事
三国時代はまだ中国でも公文書を紙に残すようになった時期ではないので、木簡や竹簡が一番手頃な記録媒体
そこに墨で書いた文書が見つかるのが一番わかりやすい
木簡、竹簡の類は、まだ腐って消失するような時間が過ぎてるわけでもないので、残ってる可能性はある >>1 関連ソース追加
⬜︎吉野ヶ里歴史公園 遺跡展示室の来場400万人達成【佐賀県】
SAGATV|2023/05/05 (金) 17:30
https://www.sagatv.co.jp/news/archives/2023050513097 >>132
親魏倭王の金印や銀印がいいな
奴国の聖地だった島から金印が出てきたみたいに >>136
金印でも持ち去られたり鋳潰されてない限り残ってるだろうね
金自体は腐ったり錆びたりはしないし、地球上で最も安定した物質だしね
金印でもいいけど、当時の具体的な様子を知るためには、やっぱり行政文書の木簡、竹簡が見つかったら一番良い >>137
伊都国からは硯が発見されてるから、何かしらに文字は書いてそうだもんね
ただ、木や紙だと残ってるか怪しいな
太宰府で見つかった7世紀の木簡が最古みたいだし タイムマシンがあれば邪馬台国がどこにあるか見に行きたいね
だけど人権概念が無い昔の人々は
不審者見たらすぐに襲って殺しに来るだろうなぁ >>134
今までに発見された木簡で最古のものは650年頃のもの
それより400年ぐらい遡る時代に木簡があるとでも?
見つかってない以上は仮にあったとしても腐って消失したんだよ >>121
佐賀は代替地は山の様に在るからいざとなれば巨大遺跡公園整備の為に代替地用意するかもよ。
少なくとも重要度にも拠るが遺跡の埋め戻しはしないと思うね。 親魏倭王の金印が出たら決定だが、率善中郎将、率善校尉の銀印でもいい >>138
鉄器を磨いてた砥石を硯と言ってるだけかもしれんしな
明らかに墨とわかるものが付着してたわけでもないし >>140
それは日本の木簡の話でしょ
中国だともっと古いものも見つかってる ゴッドハンドのせいで考古学も胡散臭く見えてしまった 木簡・竹簡ではないけど、鉄製品、青銅製品に文字が刻まれているケースも可能性がありそう
日本最古はおそらく4世紀後半の東大寺山古墳の金象嵌の彫られた剣(金錯銘花形飾鐶頭大刀) >>148
後からの検証が不可能な旧石器時代の「石器」だから
ゴッドハンドができたってだけで、検証のできるような時代のものまで信じないのは
ただのひねくれ者じゃね?疑ってかかるのも必要だけど検証可能な時代のものは
科学的な検証を受け入れればいいだけ >>138
あれ出てきた硯の写真見たけど、これを硯というのかー、、、
ってものだったけどな
ただの薄くてひらたいだけの石じゃんってなる >>142
印なんてどこへでも動かせる
壇ノ浦で三種の神器が見つかったら「ここがミヤコだった証拠」と言えるか 吉野ヶ里は伊都国じゃないか
筑後川の北、那珂川の東が奴国で 筑後川の北の日田は奴国の一部で魏の使者が立ち寄った場所かもね
全国的に珍しい古墳時代前期の豪族の館跡が日田から見つかっている >>153
ぶっちゃけ伊都は明治の郡の整備までずっと残る地名なので
糸島が伊都国なのは揺るぎようがない
怡土郡と志摩郡が合併して糸島になった >>147
だから日本の卑弥呼の時代には木簡が無かった
って考えようよ
今までに銅鏡や銅鐸は山ほど発見されてるが
木簡の出土は全く痕跡すらない >>156
吉野ケ里の発掘をしてますってスレなんだから、何を期待するかって話なら、一番は当時の文書遺物でもよかろう?
卑弥呼の時代には木簡が存在してなかったら、魏志倭人伝は嘘じゃん 既存の木簡・竹簡は土や泥の中に埋まった状態で2000年ほどは残っているので
気候風土を理由に吉野ヶ里だけ木簡が風化して消失したという考え方は理にかなっていない
そもそも鉄製品ですら残ってるんだから、木簡だけ都合よく消えるというのは考えにくい
硯と目される遺物も出ており、文字を操っていたと考えられているのに
木簡が出てこないのはどう考えても不自然
糸島の平原遺跡やこの吉野ヶ里は徹底的に土を漁って木簡を探すべき場所だと思うよ 実際に魏志倭人伝の通り、各地からの書簡が出てきたら面白いのにな >>159
日巫女(天照大神)の当て字だから出るわけない 日本の考古学者は邪馬台国と卑弥呼が好きすぎて考古学を歪め過ぎている
正史の三国志だってけっこういい加減な歴史書だし >>162
漢字の現代日本語読みそのまんまで、中国人があて字したと思ってるのは短慮 >>93
吉野ヶ里はほんの一部だそうだからね。
恐らく肥沃で広大な平地が延々と続く地域だから馬鹿デカい集落が無数に点在してたと思うよ。
少なくとも八女・朝倉・大牟田や場合に依っては大分の日出生台辺り迄ね。 >>163
考古学者ではなく、アマチュア歴史愛好家が邪馬台国好きすぎるんだよ >>165
吉野ケ里の周りも散々発掘やってるが?
妄想をさも本当のように吹聴する、典型的九州論信者 >>167
吉野ヶ里周辺だけで1万人位居たんじゃって話だぞ。 半島に点在する前方後円墳も
韓国の偉い学者先生が発掘しかけてすぐに埋め戻してしまったしな
都合の悪い事実が出てきてしまったんだろう ここの遺跡が弥生時代の代表の様に持ち上げられる理由は、頭部のない人骨が沢山出土してるからだ
好戦的な外部から来た集団だと明らかだから
弥生時代は原住民とは程遠い技術と戦力を備えた人々が支配してましたよと、日本人に教える為だ
骨も大きく身長高く、人相を絵で表現し、アジア北方民族を匂わせてる日本人への刷り込み弥生集落
同じ時代に日本最大勾玉、日本最大井戸が出土してる大阪府の遺跡は、石包丁を周辺集落に配りまくっている
大阪府全域及び周辺県から同じ石包丁が出土
このような戦闘性が低いが強力な神殿跡があり、水に特化した和的でかなり独自信仰が強めに出ている集落は絶対にメディアに出されず隠されている >>168
吉野ヶ里歴史公園の学芸員は、吉野ヶ里遺跡内部とその周辺での総人口は5400人と推定されると言ってるよ
吉野ヶ里では、こうした様々なことについても調査研究を行い、現時点で最盛期には、外環壕の内部におよそ1,200人
吉野ヶ里を中心とするクニ全体では、5,400人くらいの人々が住んでいたのではないかと考えられています。 >>169
吉野ヶ里の方から発掘が進めばもっと居た可能性があると聞いたよ。
今の吉野ヶ里はまだまだ一部に過ぎないからって話。 >>171
弥生時代最大の戦乱跡は、鳥取県の青谷上寺地遺跡 >>51
それはそれ
だからといって近畿邪馬台国説は
万世一系をゴリ押ししたいカルトの思想だから 史実にあることだけでも、事あるごとに畿内からキチガイ集団が来て殺戮略奪焼き討ちが行われてるのに、書簡類が残ってると考える奴はどうかしてる
墓に入れるような習慣があればいくらかの可能性はあるだろうが、古墳時代後期の古墳からさえ出土してないだろ >>163
それしか文書が残ってないからだろ
日本にもっと文字記録が残ってればね >>177
だからこそ吉野ヶ里の今回の発掘には期待してる >>176
史実が全てその通りだったとは言い切れんよ?
書いてあるならそれを見つけたり、客観的な裏付けを見つける必要がある
吉野ヶ里が仮に焼き払われていたとしたら、その地層には焼き払われた痕跡が残る
例えば黒焦げの土器片や土そのもの、溶け落ちた鉄器などね
そんな痕跡が見つかるのでも、当時の出来事を知る手がかりにはなる 木簡竹簡は日本の土壌じゃ残りにくいんじゃなかったか?
仮に見つかったら大発見だけど見つからないこと自体は不思議じゃない この時代の住民は中国語を話していたのか朝鮮語を話していたのか?
遺骨からは古代中国南部のDNAなのか、高句麗とか古代朝鮮人のものなのか? >>180
そんな奇妙な話はないよ
縄文時代の木製の船やおもちゃなどの木製遺物が残るのに、弥生時代の木簡はことごとく消えてしまう
そんな事が起こったら、やはり不思議な出来事以外の何物でもない 【考古学】福岡・八女市に弥生後期の環濠集落跡 大規模集落の一角か 吉田・辺田ノ上... ★ 2023/03/30
ps://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1680186646/
>>1
そもそも徳川トクチョン家康が朝鮮人(元寇の後に日本に浸入して今の群馬埼玉辺に居付いた李氏朝鮮役人の日本乗っ取り係スパイ8世)
だし、関東/東海も朝鮮顔多いよ。お前もだろ?(※もっとも、数世代結婚詐欺やレイプ続ければY染色体を除きほぼ日本人由来だろうが)
ps://i.imgur.com/yieh40Y.jpg >>1
徳川トクチョン家康は李氏朝鮮パシリの日本乗っ取り役人(スパイ朝鮮人)だからな。
ps://i.imgur.com/YtKPo9V.jpg
>特に外様大名の多い西国に徹底させた。
とあるが、城(特に山城)というのは元来が侵入高麗/朝鮮人に備えた櫓 だから、もともと西国(福岡〜大阪間や山陰)に多いはずとは思うが
〜wikiより〜
一国一城令(いっこくいちじょうれい)は、慶長20年閏6月13日(1615年8月7日)に江戸幕府が制定した法令である。
諸大名に対し、居城以外のすべての城の破却を命じたもの[1]。
概要
土井利勝、安藤重信、酒井忠世の連判の元、徳川秀忠が発令したが、法令の立案者は大御所徳川家康であった。
目的は大名、とくに西国諸大名の軍事力を削減するためであり、数日のうちに約400の城が壊されたという[1]。
発令されたのは大坂の陣(1615年5月)のすぐ後であり、幕府に対する反乱はもちろん、大名同士の戦争も封じるためのものである[2]。
実施の意義
これにより安土桃山時代に3,000近くもあったといわれる城郭が約170まで激減し[13](陣屋を含めると約300)/
大名の勢力(軍事力)を統制して徳川家による全国支配を強化することを目的としており、特に外様大名の多い西国に徹底させた。 韓国の犬食、果たして終息するのか…社会的合意づくり、難航
4/18(火) 7:03配信 KOREA WAVE
https://news.yahoo.co.jp/articles/39a615135799f2cd41d3b986a2be871d76744e44
>>1
戦前に日本で秋田犬(日本犬)が絶滅しかけたのはアベ朝鮮スパイ創価維新みたいな反日主義者連中が関係してるだろ ↑ >>182
木簡の保存状態が良い場所っていうのは旧河道とか池・濠の跡とか、水の多い場所。
なので今回の発掘場所のような丘の上から木簡が出る可能性は低いよ。 >>187
じゃあ川を発掘してみるしかないでしょ、環濠跡から木簡が発見されたって話は聞かないしね。
環濠を埋め立てた頃にはまだ木簡を捨てるような事は無かったって(木簡は使用されていなかった)事だから。 >>188
飛鳥宮跡は池の跡から出てきてるけど
難波宮跡や藤原宮跡は普通に土の中からもでてきてるけど?
本当に文書でのコミュニケーションが支配者層の間で行われていたのであれば
木簡は出て来ないはずはない
可能性の一つとして、魏志倭人伝が盛って伝えていたって可能性もあるけど どっちも低湿地帯じゃん
地下水位の高低で大きな差が出る >>191
川からの流れ込みもあるだろ?
そもそも藤原宮跡を低湿地帯というのは大きな誤解だぜ? >>192
藤原宮で出土した木簡も濠や溝の跡から出土してる、
木簡を探すならそういう場所を狙った方が良いよ。
なお、吉野ヶ里の環濠跡から木簡が出たと言う報告は無いね。 木簡は奈良時代のものですら偶然水に浸かってて保存状態が良かった超ラッキーな場合しか見つかってない
縄文弥生時代の木製品もそういうのがごく僅かにあるだけだよ シルクを発明したのは夏王朝
夏王朝を作ったのは日本人 >>189
そもそも
卑弥呼の時代250年頃から飛鳥時代650年頃までの木簡が
1枚も発掘されてないのに「存在を信じる」理由を説明しろよw
ピンポイントで邪馬台国の存在を立証する木簡が見つかるなんて
フツーに考えたら有り得ないって気づけよ >>198
絹布や紙の可能性だってあるのに木簡に限定してる時点で頭がおかしいって気付けよ
しかもその時代の国書なんて中国側の文書に記載されていたとしても発見さえされてないレア中のレア
出るとしたら、往来が頻繁だった半島とのやり取りの物が出る確率の方がずっと高いはず >>193
何故か吉野ヶ里からは木簡が出てほしくないような輩がいるみたいだね
とは言っても、吉野ヶ里からも木製の祭祀具や倉庫の鼠返し、木製農機具なんかは普通に出てる
吉野ヶ里から木簡が出てこないことは当たり前じゃないよ あ、クローゼットの奥からジョン手書きの楽譜が出てきました。 >>198
魏志倭人伝の当時の記述が正しくて、吉野ヶ里が仮に邪馬台国であったのなら
木簡が出てきて然るべきだということ
一応最悪のケースとして
> 可能性の一つとして、魏志倭人伝が盛って伝えていたって可能性もあるけど
こっちの可能性も捨てきれないとは書いてるけどな >>200
吉野ヶ里遺跡の奈良時代の遺跡からは木簡も出てるんだけどね。
弥生時代の部分から出るとしたら、埋められた環濠や溝の跡からなんだけど、
今のところ発見された報告は無い、ただそれだけの事実を指摘しただけだが、
なんかきにさわった? >>204
吉野ヶ里遺跡のどの部分が奈良時代で、どの部分は弥生時代ってのが厳密にわかるわけでもない
一緒に出土したものの時期なんかで、時代を推定するしかない
木製の祭祀具なんかは、奈良時代ではなさそうではあるが ところかギッチョン、木簡は使われている字体や内容で書かれた時代の推定が可能になってるから。
奈良時代のものと判定されたものは、それで間違い無いとおもわれます。
もし、弥生時代のものと思われる物が出てきたら、
それだけで大ニュースな訳。 吉野ヶ里遺跡から木簡以外の木製遺物は出土している
例、祭祀具、農耕具、建材
この事から吉野ヶ里では気候や土壌の関係で、木製品が必ず風化してなくなったとは言えない
それは奈良の遺跡の鉄器は溶けたと言ってるやつと変わらない暴論 >>207
吉野ヶ里のサイトに簡単にまとめて有る、
それ読めば分かるよ。 >>210
あるのは知ってる
だから吉野ケ里から木製遺物が出ないで当たり前というやつは、現実を見てない >>212
最近掘ってるのは小高い丘の上の神社の跡地付近だから、
木製品が出る可能性は比較的低いと思いますよ。
木簡のような小さなものなら尚更です。 台はトと読むんだよな
ヤマト国が九州にあって神武東征で関西に進出したで合ってるじゃん
関西説は天皇10代偽物とか言ってて失礼にも程がある 倭が倭面上になって倭に戻るから一回場所変わってんのやろな >>215
卑弥呼か台与をアマテラスに比定すると、神武東征が本当にあったとしても神武天皇の系は邪馬台国の亜流になるわけじゃん
遣隋使の時に、「我々は親魏倭王の子孫です」と言う事で通りがよくなるから、畿内の連中が「邪馬台国」に連なる「やまと」を詐称したのが始まりだと考えるべきだな >>215
欠史八代は詳しい記録が残っていないという意味だ >>217
卑弥呼とアマテラスの類似点なんて、女性であるという一点しかない >>217
神武東征は本当にあったと考えて妥当な根拠
波速之埼、白肩津という土地がが存在できたのは紀元前の時代
河内湾の土砂の堆積でこれらは3世紀の卑弥呼の時代には消失してる
草香邑まで船で行くことができた時代 神武東征が実在したと考えられる根拠
神武天皇が大和で居を構えたとされるのは橿原の畝傍と言うところ
ここには実際に紀元前7世紀頃に実在した、橿原遺跡が見つかっている
科学技術もなく発掘調査もまともにできない時代の人間が、河内湾や橿原遺跡を記紀に記せたのは
実際にその時代に見聞したと言う証明
卑弥呼😣 神武東征の出発点は瓊瓊杵尊の居である、笠沙宮のある鹿児島県南部
神武東征の行程と適合するのは九州南部しかない
卑弥呼🤗天照大神
弟🤗なんとかー
万歳っ系である 邪馬台国を滅ぼしたのは神宮皇后
山門の土蜘蛛の女棟梁田油津媛の討伐として記紀にも残ってる >>227
じゃあ倭国大乱はヤマトタケルの熊襲討伐かな? 靖国参拝、高市氏回答せず 例大祭、首相は見送りへ ★2023/04/18(火)
ps://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1681784674/
>>183 >>1
中曽根(朝鮮統一教会合同結婚式に祝電)や小泉(鳩山カン河野スガ等の同類)や安倍(河野談話大賛成)や櫻井杉田百田維新みたいな反日主義者(似非保守:スパイ)が行くところだからなあ
《 ※高市も結局4/21参拝 》 >>1
ゴッドハンド仕込み済み?
下手に現場公開とかするといろいろバレるんじゃない? 吉野ケ里はお隣の国みたいに対抗心が必死すぎて何か胡散臭い 奈良とか自治体総出で偽装しまくってるもんな
国ぐるみでやってる韓国みたい やっぱり必死だなwこっちは奈良なんかどうでもいいのにwww >>234
いくら奈良でもそこまでヒマじゃないよ、というか遺跡だらけで偽装するのも大変だろw
東北辺りじゃあるまいし、偽装なんかしなくても古代史好きはやって来る 吉野ヶ里の復元建物群、昔は何も感じなかったが、
ありゃテーマパークだよね。
ちょとやりすぎ感が。 >>236
必死じゃないなら神武天皇陵や雄略天皇陵を開けろよ
数千年後まで維持するには今のうちに手を入れて記録とって手入れしておいた方が良いぞ
そのうち、移民だらけになって天皇象徴制が崩壊して予算出なくなったり不良移民のイスラム過激派あたりに爆破でもされたら元も子もない >>238
もう日本にはまともに管理できる金も体制がないからあけられないのよ
壁画の色落ちさせた時にはすでにボロボロだった >>238
それ奈良県の責任か?
そもそもゴッドハンドは東北での出来事だし、旧石器時代の石器の捏造事件だ
やったのも本物の考古学者ではなく、アマチュア歴史愛好家の藤村新一
全く経緯も知らずに文句垂れてるだけじゃん 邪馬台国が何処かには興味ないけど
親魏和王の金印の所在には興味ある
墓に埋めたりはしてないでしょ?玉璽みたいなもんだよね? >>241
玉璽は皇帝だけのもの
印綬制度では金印は玉のワンランク下
玉、金、銀、銅の4ランクがあった
金印は皇帝が部下に官職の印として渡すものとしては最上位
皇帝の親族や外国の王族に与えたもの 王というのも皇帝から与えられる爵位の一つ
魏は王、公、侯、伯、子、男、県侯、郷侯、亭侯、関内侯と言う10段階の爵制をとっていた
ついでに綬というものもある
これは印綬と一体に言われるが、印に通す紐の事
親魏倭王の金印紫綬が与えられたというのは
皇帝から王爵位とそれを表す金の印と紫の紐を与えられたという意味
魏の皇帝から見ると外臣の一人 なるほどー
すると後のヤマト政権からすると
墓に埋めちまえ案件なのかな? >>233
畿内もやりたいんだけどないんだよ。マキムクには住居跡も水田跡もない。古墳作りのプレハブ小屋とかからかわれてたけどどうやらそれが笑えない状況になってきて邪馬台国の話を避けるようになってる。 >>244
金印がどうなったかなんて、当時の人間には追跡しようがないじゃん >>246
ついでに書くと住居跡は普通に見つかってる
環壕の中に水田なんて作らないのは吉野ヶ里でも同じ事
なんか書いてることがズレてるんよな >>247
そうかな?和の5王は割と必死に将軍の肩書貰おうとしてるし
後の足利さんも王様貰って喜んでるっぽいし
なんなら現天皇家が現物持ってる可能性もあるのかなって >>251
日本国王の称号は、足利だけで無く、大内氏とかももらってるんだよ、称号よりも、朝貢貿易による利益が目的だったみたいだが。 >>238
必死も何も、神武天皇陵が現在の形になったのは紀元2600年の昭和15年だw
親善訪問中のヒトラーユーゲントにまで手伝ってもらって、周辺の被差別部落を撤去するなどして拡張整備した
陵の本体は聖域とされた森の中にあるが、本来誰の墓なのか、本当は墓かどうかすら明らかでない小さな2つの盛り土であることは、江戸時代の地図を見れば分かる >>253
神武天皇陵は元々はただの円墳
場所は畝傍山の北東にあると日本書紀にもあるので、場所自体は大体あってる
兆域は東西100m×南北200m、墓守は5姻というのが、平安時代の調査結果 >>253
比定したのは皇国史観ありきの水戸光圀だろ
不敬になると言う名目で調査させないのは宮内庁なのか?
それとも露見したら不味い様な秘密が出るとか、ほかの理由があるのだろうか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています