【佐賀】「邪馬台国」ひも解く手掛かり!? 吉野ヶ里遺跡で新発見の石棺話題に――関連株探る ★8 [樽悶★]
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佐賀県の国指定特別史跡「吉野ヶ里遺跡(吉野ケ里町、神埼市)」で新たに出土した石棺が、5日に開けられる。弥生時代の日本列島に存在したとされる邪馬台国の謎が解き明かされるきっかけになる可能性があるとして・・・
2023/6/1 12:38
https://kabushiki.jp/news/589754
★1:2023/06/03(土) 12:10:06.13
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1685965691/
関連スレ
【佐賀】世紀の大発見!?「邪馬台国時代の墓」を発掘、有力者の墓の可能性も…吉野ヶ里遺跡の「謎エリア」で発見された石棺墓 ★10
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1685697010/ オモシロ畿内説まとめ
Q:奴国から南に向かって畿内に着くのは無理でしょう?
A:そんなん知らへん!!
Q:東の海の先に倭種の国があるそうですね?
A:知らんのや!!
Q:三角縁神獣鏡ってシナでは1枚しかでないのに、どうしてザクザク畿内から見つかるのですか?
A:知ったこっちゃおまへん!!
Q:畿内のどこに倭国大乱の跡があるのですか?
A:知らんがな!!
Q:纒向遺跡から馬具が出ましたよね?
A:知らんちゅうとんねん!!
Q:吉備国や出雲国を通らずどうやって畿内に入るのですか?
A:知らへんのや!!
Q:帯方郡から12000里だと畿内に届かないのでは?
A:知らへんゆうとるやろが!シバくぞ!
Q:本当に畿内に邪馬台国があったんですか?
A:あったで(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:知らへん!!知らんがな!!知ったことかいな!! 纏向遺跡のゆるキャラ「ひみこちゃん」の存亡やいかにw どうでもいいけど税金は使うなよ
クラウドファウンディングでやってね 大切な事なのでもう一度
ここに建っていた日吉神社の下から2世紀頃の巫女の墓が発見され、漢鏡や絹製品が発見されています。
吉野ヶ里では紡績用の道具も出てるので、3世紀には絹は普通にあったと考えられます。 関係ないけど奴国の金印が出土した志賀島にはまだ発見されていない宝物があるはずだから地下レーダーや金属探知機等で調査するべきだろう…金印だけ丁寧に埋めるわけないし 新田原にはもう残ってないかなあ
まだ何か残ってたらいいんだが >>8
まだ佐賀県教育委員会が発掘やってるから、今は佐賀県民の税金しか使ってない
前回の発掘みたいに、途中から文科省が出てきたら国税が使われる
纏向にしても一緒
すぐに税金や予算と結びつけるやつがいるけど大間違い >>16
天孫降臨はいかんせん古すぎるからな
西都市掘って投馬国探したほうが早いぞ まーあ神奈川県大和市なんだけどね
近畿とか九州とか勝手に盛り上がってるらしいね >>19
明治時代に付けられた地名も出て来て
わけわからんよねw >>19
神奈川県大和市は明治時代に鶴見村から「大いを和する」の意味を
こめて「大和村」と改称されたもの 結局騒ぐだけ騒いで「何も見つかりませんでした」で終わりかな? >>17
謎エリアは公園外だからな
目ぼしいものが出て来たら
国営に指定されるだろ >>25
まあ可能性もあるが、何かしら骨が出てくれば騒ぎにはなるな >>25
これまで山ほど墓暴いて大したもん出ないのに
急に出るわけないだろ >>22
それでは高千穂が南にもある理由が説明できない
邪馬台国連合である投馬国が、神武チームの抜けた北の高千穂を制圧したから、南に逃れて南の高千穂に移ったのさ 畿内説の主張は霊感商法詐欺に抵触するのでは?
①箸墓古墳の年代は卑弥呼の墓にピッタリなのだ!
実際には周濠から出土した土器の炭化した付着物の年代測定であり、古墳の年代ではありません。
同じ周濠から4世紀の土器や馬具も出土していますし。
②纒向の大型建物は卑弥呼の宮殿なのだ!
これも建物とは無関係な遺構で発見された桃の種の年代をもとにしており、関連性も確認できません。
そもそも建物自体も魏志倭人伝に描かれた宮殿の様相とはまるで仕様が違います。 >>28
甕棺墓と石棺を混同してはいけない
甕棺墓=庶民の墓
石棺=支配階級の墓
出土に対する期待値が違う 説明する必要のない擬似問題は説明する必要はないんだよな >>34
投馬国は船で行くところだから、山の上は考えにくい ・佐賀駅前でタクシーに乗って、「邪馬台国まで」って言うと、吉野ヶ里に連れてってくれる
・奈良駅前でタクシーに乗って、「邪馬台国まで」って言うと、「どこですか?」って言われる
つまり、邪馬台国は吉野ケ里 卑弥呼の謎の高待遇や骨の焼き物は発掘されないのに中国の歴史書で書かれてるとか
殷の末裔と思ってたっぽいな >>42
魏にしたって周りは敵だらけなので、南東端でそれなりの国力のある国が服従を誓い、貢いでくれるのはありがたい 邪馬台国は奈良でしょ。
佐賀県にあったとか言われると、すげー盛り下がる。
佐賀? マヂで?って感じ。なんで佐賀県? >>28
そうなのか・・・やはり大仙古墳とかじゃないとダメか >>46
それは畿内説の洗脳だよ
ま、佐賀は女王国連合であっても、邪馬台国じゃないけどな 吉野ヶ里の石棺、とりあえず赤い顔料が出てきたみたいだな 奈良にある方がおかしいけどな
伊都国の南に吉野ヶ里遺跡はあるけど奈良はない >>41
資料が少ない上に、書いてる通り移動したら海に落っこちる 魏志倭人伝には明らかに海洋民族として記述されてる倭人だが
奈良に海は無いw >>46
昔は県とか無かったからな
当時は吉野ヶ里のすぐ近くまで有明海だったし
周りは佐賀平野の広大な農作地だし
北に行けばすぐに背振山脈で山の幸も豊富
古代人が住むにはうってつけの場所ではある >>42
>卑弥呼の謎の高待遇
書いてある。生真面目さだね。
「汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。」
汝の在る所ははるかに遠くに在るも、使を派遣し貢献してきた、これは汝の忠孝であり、我は甚だ汝を愛おしく思う。 >>57
当時のヤマト王権(と言ってもどこかの地方豪族だろうけど)は
朝貢してこなかったのかね
するほどの規模の勢力じゃ無かったんだろな >>56
海の幸山の幸に稲作に丹も絹もある吉野ヶ里
邪馬台国ではなくても栄えてただろうなーというのはわかる >>52
ブツ次第だからな
とりあえずB級以上は確定
S級 親魏倭王印
A級 銅鏡、埋葬者が女性
B級 剣、勾玉、丹、卜骨
C級 三角縁神獣鏡(景初四年以外)
D級 三角縁神獣鏡景初四年、馬具 >>58
旧唐書の日本条に書いてある
日本はかつて小国だったが、倭を併合した 奈良から博多まで行くのに、すでに博多から帯方郡までと同じくらいの距離がある 筑紫平野とか人の住めるところは限られてたからな
狗奴国、熊本は確定だから
久留米八女あたりがやまたいだろ
畿内とかクレージー 邪馬台国は九州だが
吉野ヶ里遺跡は邪馬台国ではない
有力国のどれかだろ まあ 日本書紀に邪馬台国に触れてないのが答えだけどな
九州のことなんで触れなくてもぎり誤魔化せると踏んだんだろ 出雲については触れてるわけだし
また触れないことで邪馬台国を滅ぼしたってのもほぼ確定かな
遺跡なんて発掘されるなんて当時はおもってもみないだろうから精度の高い嘘なんでわかりやすい >>51
畿内説、九州説って言い方がそもそも詐欺っぽい。
奈良県説、佐賀県説って言ってたら、普通に奈良県説のほうがおさまりがいい。
どっちにあったとしてもおれはさして興味ないけど、「なんだよ佐賀かよ」って
思う人は多いとは思う。佐賀県の人には悪いけど。 >>64
いつ頃貰ったものかはわからんよね
出土した古墳は邪馬台国よりもずっと後のものだし 魏志倭人伝に記録があるだけで特別な集落だと思い込まれている
濫立していた小国のひとつでしかないのに >>53
方角のこと言うなら九州内の移動でもすでに方角おかしいじゃない? >>66
その考えはあり得るけど、志賀島の金印とかもどこから来たのか確定できないって点では一緒だぜ?
出たところになかった根拠がない以上、こればっかりは信じるしかない >>69
神功皇后が九州山門(ヤマト)県の女王國を滅ぼした話とか記載されてるわけで
隠しきれない史実は文中に残してるんだろな。
年代や人物は巧妙に偽装して >>74
金印は出土状況が不明だけど
鉄剣は4世紀古墳からの出土だからなあ
どう見ても後から埋め直したもの 魏志倭人伝に海洋民的な記述があるんだろ
奈良に海はねぇよ ワンチャン 中国の歴史書がフェイクもありえるかな
そもそも、歴史書に事実がかいてあるって想定が意味わからんけどな せっかく封印してたのに日本に厄災が放たれたらどうすんのよ >>75
またその神功皇后が謎のオンパレードだときた >>74
もちろん金印も移動して志賀島で出土したと考えてるよ
当時の状況、行動範囲を考慮すれば移動元も北部九州でしょう >>77
黒塚古墳の銅鏡なんかも後から入れたような感じ >>77
190年以降に貰ったものを副葬品として直ちに埋めないとおかしいのか?
それぐらいなら、経緯の怪しい金印なんて、もっと当てにならない >>81
5世紀ごろまでの記紀の記録は
考古学的になんら確定されてないので
その辺りの人物はほぼ後世の捏造なんだろな
モデル人物はいたにしても。 >>38
高千穂宮の候補が複数あるから高千穂宮はフレキシブルで移動できる都だったんだと思う
で、フレキシブルに東征した >>82
その根拠は?
後漢から貰った時の倭国は、卑弥呼の時代よりももっと広範囲だったはずだが? >>84
金印も当てにならないよ
でも190年刀がその時代からすでに畿内のヤマト王権が
朝貢してた証拠には全くならないということ。 記紀は成立した時代の朝廷の正統性を誇示するために編纂されたもの
恣意的な解釈は当然されている 大陸から日本列島(やまと)を見に来た役人が九州だけ見て帰ったって
考えてるのか。
絶望的に頭が悪すぎる。 >>88
倭奴国が南極界と書いてあるじゃん
中国人もこの頃の倭を半島南部と北部九州一帯
中国人の解釈
https://i.imgur.com/hGyWM1v.png アメリカにおいてディープステートが世界を裏で支配してると主張する陰謀論者たちを「Qアノン」と呼ぶ
日本において邪馬台国が九州にあったという俗説を信じてる陰謀論者たちを「九アノン」と呼ぶ 見落とされがちなのは佐賀あたりには大陸や朝鮮方面で魚を獲ってた漁師が嵐で帰らぬ人となったのを祀る石碑があり
海洋で生活する人々がいたわけで
中国へ外交しに行く発想が古代からあったんじゃないかとは予想できる
奴国や伊都国も同じだろうが >>91
定期
よーしパパ、古事記編纂中にもっと古い本は焼いちゃうぞー⭐
『続紀』
元明天皇の和銅元年(708年)正月
元号の制定を祝って全国に大赦を行う詔が出され
その中に「山沢に逃げ、禁書をしまい隠している者は、百日以内に自首しなければ罰する」という内容のものがある そもそも中国の使者がテキトーに書いたでたらめを信じるのがおかしい
今も昔も変わらず中国人なんかいい加減なんだよ
中国人実習生なんかちょっと目を離すとすぐにサボって怠けるんだから
当時の小舟で日本に渡って来るだけでも命掛けで、九州に上陸した時には船酔いで死にかけの状態だったはず
しばらくは旅なんかしたくないしサボってのんびりしたいから旅程をテキトーに書いて邪馬台国で歓待されて遊んでいたというのが真実だろう >>70
佐賀県説なんて呼ぶから、なんだよ佐賀かよってなるんだろw
吉野ケ里は伊都国だよ
邪馬台国ではない >>94
畿内説の信者の事だね
お前がまさにそれ>>30 >>98
それだと九州説一択になるな。
わざわざ近畿まで行かんだろ。 日本史的はメインストリームからはずれてるのにまだ邪馬台国とか探してんのな >>89
距離、方角、隣国との位置関係、出土品、その全てをねじ曲げてるのが畿内説 >>101
渡来人がいたらそう書いてる
純粋な倭人の国だよ >>90
どっちも当てにできないからと言って、明確に否定できる根拠がないのも事実
だったらそこにあったと考えるしかないだろ?
たとえそれが志賀島だろうが、東大寺山古墳だろうがね? >>100
糸島市はイトとシマに地域が分かれてるから
長野峠で吉野ヶ里と繋がっていても間に小国がありそうなんだが
背振山の北側は多分奴国だろうし 邪馬台国の遺跡であるならさ
・厳重に警戒されていて物見櫓のある環濠集落、または山城、宮殿と周りに侍女や側近の住居がある
・一大率だった伊都国や大陸と交流した形跡
この2点は不可欠
さらに親魏倭王の金印や鉄鏡など古代中国の皇帝から授けられたと思われるお宝が出てきたらほぼ確定だろう
吉野ヶ里は可能性はなきにしもあらずだけど微妙だなぁ 畿内説:大多数の考古学者が支持する学説
九州説:知識の乏しい素人が信じてる俗説 魏志倭人伝は編纂状況を考慮し、整合性に注意しながら確率の高い補正をかけて読む
当時の位置関係
https://i.imgur.com/A8LglD7.png >>105
日本で大がかりな支配権の交代があったのは、この1回限りだからな
以降、現在に至るまでヤマト政権体制 >>93
別に船で移動できないわけでもない
当時の九州が鎖国してたわけでもないし >>112 ← 月刊ムーの編集長らしいw
必死だなw 畿内説のソース:学者が書いた論文や文献
九州説のソース:素人のブログやトンデモ本 >>113
水行しないといけない国を、どうすんのさ?
って事で編み出したのが放射読み
あれに根拠なんてないぜ?
だからどっちの説にしても胡散臭いのは変わりない >>113
これが正解っぽい
あとは遺跡探しかなぁ
特に福岡はどこを掘っても弥生時代の遺跡が出てくるから、全部調べてたら県が潰れるわ
1番可能性の高い場所に絞って調査するしかないか のほうもだいぶ盛ってるだろうしな
朝鮮半島にたいする威嚇の意味でも海の向こうにそこそこ大きい国があり
友好関係があるってのを見せたかったんだろう このあたりの記録は事実を
残すより、国の繁栄のどれだけ寄与できるかを優先するはず >>118
放射読みしないと同じ書物にある1万2千里と整合性がとれないからな
むしろ理の当然だろ >>111
纏向遺跡にはそのどちらも無いんだよなあ >>117
畿内説の学者「大陸と交流した形跡は見つかってないけど纏向に違いない!纏向に決まってる!」
九州説の素人「北部九州の複数の遺跡からは大陸と交流した形跡があり、伊都国は邪馬台国の一大率だった
一大率は、例えば奈良政権であれば難波港みたいなもの
権力者の側近が行き来しやすい場所に設置されたはず
伊都国から近い場所に邪馬台国はあったと思う」
さて、どちらを信じるかは読んだ人に任せよう >>124
畿内説の場合
瀬戸内海あるのになんでわざわざ陸行という単純な疑問
しかもその途中の国はどこ行った。
出雲とかw >>123
これから見つかるかもしれんけど、だいぶ調べつくしてるしもう出てこない気がする >>126
もし畿内説であれば、道中にもっとたくさんのクニが出てきそうだよね >>127
纏向遺跡はそもそも
倭国大乱の痕跡が無いのが致命的だよね 吉野ヶ里は九州説を象徴する遺跡
世間一般では九州説=吉野ヶ里遺跡という認識
その吉野ヶ里を掘って何も出なかったら、九州説の終わりを意味する
あのしょぼい墓では大した副葬品もないだろうから九州説の余命2週間ってとこだな 遺跡の状況が魏志倭人伝の邪馬台国の墓についての記述とそっくりなのは興味深い >>130
あーそれもだね
邪馬台国なら鉄の鏃や戦死者の墓やら出てきそう で~た~で~た~つきが~
ま~あるい ま~あるい まんまるい~
お盆のようなつ~き~が~♪ >>131
ならば、間違いである根拠がいる
都合の悪いところは間違いにして、都合のいい部分だけつないででっち上げるのが畿内説なんだよ >>125
そうやって嘘とデタラメと藁人形論法で反論しても、騙せるのは猿と九州説信者のみ >>132
吉野ヶ里は北部九州の遺跡の中ではしょぼいほうだよ
今回何か出てきたら少しは見直されるだろうけど
纏向なんぞ歯牙にもかけてねーよ >>124
それもだし、そもそも人口が異常に多すぎる
結局どこかで魏志倭人伝をアテにしても無理って結論にしかならない 畿内説厨 → 麻雀で例えれば思いっきりフリテンこいてるのにロン!と宣言するアホw
九州説厨 → 麻雀で例えれば国士無双13面待ちであと自模るだけw
この違いですわw >>138
嘘もデタラメも書かねーよ
畿内説の連中と一緒にすんな >>124
あれはもう当時の慣用句みたいなものなんだろうと思ってるわ w 陸行一月が
一日の書き間違いなら
魏志倭人伝の記述はどう読み解けるの? 分かってるのは急に距離が消えて日数のみという。
終わりは名前だけ列挙。 >>130
倭国大乱後に作られた都だから問題ない
崇神天皇在位時に倭国大乱があったとすれば武埴安彦の乱だろう
主戦場は京都の木津川になる
さらに吉備津彦が岡山や香川を討伐している >>133
卑弥呼の墓は径百余歩
有棺無槨は邪馬台国のこととは限らず倭人の風習
魏志倭人伝は魏志邪馬台国伝ではない >>148
それこそ結論ありきで編み出した技だろ? >>150
いやそもそも纏向以外からも鉄器が殆ど出てないからw >>153
こんな偶然があるかよ
そもそも使者は邪馬台国に行ってないのだからな >>155
ニュースって
マスゴミの宣伝を真に受けてんのかよw 俺はこんなに遠くまで行ったんだぞ
とモリモリに盛ったフィクションだろ >>149
書いた本人は行ったことないし、行ったことある人も近くにいなかったのだろう
複数の文献を適当にまとめたもので多少の勘違いや書き間違えはあるさ
でも
・争いが起きていたこと
・女王卑弥呼と邪馬台国が存在したこと
・厳重に警備された祈り場に卑弥呼がいたこと
・大陸と交流があったこと
この辺りは間違えないと思う >>155
邪馬台国時代の遺跡だと報じている
吉野ケ里が邪馬台国だとか卑弥呼の墓とはいってない
纏向とはえらい違いだ >>159
これが正解だとおもう
予算請求とかそのあたりのベタなはなし
もう少し遠いところだと思われてたんでは? >>162
水路は千里刻み、陸路が百里刻みとなってる
測量しながら進んだ形跡はないから、これは1日に進んだ距離とみていい
邪馬台国まで水行10日、陸行1月
つまり、1万2千余里だ 魏志倭人伝って 東スポとかムー とかと同じジャンルのタブレット紙じゃないの?
信じるやつがバカ >>69
どうかな
ヤマト政権が滅ぼしたんなら、むしろ大喜びで記述しそうなものだ >>132
九州説は不滅だよ
事実関係ないファンタジーだから >>167
総務省のメモ書き公文書くらいだったりして 九州説トンデモ度ランキング(頭のイカれ度ランキング)
1位 九州王朝が隋や唐の時代にも存在していて、日本列島に倭国と日本国が別々にあった
2位 邪馬台国が東遷してヤマト政権になった
3位 魏志倭人伝では短里が使われている
4位 邪馬台国とは伊都国や奴国を含む国々の総称である
5位 邪馬台国は7万戸と書かれているのは誤りで、本当は小国であった >>100
旧国名だと肥前、もっと前は肥国だねぇ、 >>167
宋には自分たちが滅ぼしたといってるぞ
国内では正当な王朝であることを主張するのに都合が悪かったんだろ >>113
でもそうなると宮崎県の日向から出た神武は狗奴国出身で、筑紫の女王国に挨拶してから東征始めたってのも不自然な感じがするな
最も、神武の時代と卑弥呼の時代で数百年のズレがあれば国の配置も大きく違うのだろうけど 素人なんだけど、石棺内側の傷って生き埋めにされた人が内側からつけた説ってないの? >>171
卑弥呼は居なくても、肥巫女はいたな間違いない! >>146
本居宣長が陸行1月は陸行1日の書き間違えだと主張してたけど
陸行1日なら省略して書かないと思う 畿内説は方向が違うくらいだけど(それも当時の地理観念からするとおかしくない)
九州説は放射説に短里説にあれもこれも無理やりやってやっと北九州だってこじつけてるからなあ
まあ感覚として北九州に違いないって思うのはしょうがないけど >>165
それは解説であって、根拠の説明ではない
説明できないから○ネ
とか言ってるわけではないぞ?
どっちの説だとしても胡散臭いということは自覚しろ
結論を出すには、発掘調査をするしかない 畿内説ってどこかの起源を主張する民族と考え方が似てるよね >>177
肥前は自分たちのことを肥の国とは言わない
自他ともに肥(火)の国と呼んでるのは肥後熊本 >>178
陸行く1日なら有明海から上陸すれば問題ない つか、黄金ブーツだけど…?
日本軍の方が金属重装備だった? >>181
自分じゃなんの説明もできないならば、黙ってることだな 神器は元々は漢由来の鏡と剣で後から勾玉追加だから邪馬台国は大和に吸収されたてのがしっくりくる >>143
麻雀で例える辺り、加齢臭を感じるのでやめた方が良いですよ。 >>189
グダグダの話で煙に巻くのは有害ですらある 魏志倭人伝自体の信憑性が無いから
邪馬台国も卑弥呼も永久に見つからない
これが結論 >>69
聖徳太子の功績として隋との国交成立を書いちゃう位だから何にもわかってなかったんだと思う 結果がわかっていて発掘作業している人達の気持ちを考えると… >>194
他人に根拠を求めるのならば、それを比定するときにはお前が根拠を出しなさい
ダブスタはよくないぞ >>167
当時の価値観は当然いまとは違い暴力=悪なんて価値観は
ないわけで、常識的に考えれば、事実はどうであれ悪の邪馬台国を
成敗して国を作ったて設定をとりそうだ しかし、歴史書にそれは書いていない
当時の価値観からしても相当後ろめたいことだったのか、対中国をみすえた上での
ブラフだったのかわからないが、嘘を入れるより触れないことを選んでいる
ここがポイントだとおもうんだよな >>178
倭人は単に上陸してから少し歩くと説明しただけ
伊都国まで500里の事な
そして帯方郡からの合計所要日数が30日と報告したわけ
それを勘違いして陸行一月と書いてしまったと考えている >>154
五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)と言う弥生時代の鉄器工房の遺跡が淡路島で発見されています。
近畿の鉄器の発見が少ないのは、
まだ発見されてないだけ、という可能性もあります。 >>201
俺の書いてることの根拠なんて簡単だろ?
魏志倭人伝の書いてる通りには進めません。 >>155
吉野ヶ里=邪馬台国だとは誰も言っていない
邪馬台国"時代"の"有力者"だとは言われている。
もちろん、邪馬台国で卑弥呼の可能性もあるし、そうだったら良いなとは思ってる。 >>195
昨日の神域リーグに触れてから古い新しいどうぞ >>195
いずれどっかから金印ないし銀印が出てくるよ
今はたぶんどっかの空港の下とか神宮の下とかに埋まったままさ >>207
どの部分が無理なんだ?
無理だと決めつけてるよな >>85
お前の脳内は根拠の捏造説。日本人じゃないなw >>212
南下する水行が都合30日ある
海に落ちるぜ? >>196
八女の山の方には日向神峡だった場所に作られた日向神ダムがある 自分が初老に差し掛かる頃までに邪馬台国論争はとっくに決着がついていると思ってたのになあ
子供だった頃から何十年も経っても進展したように見えない 半島南端・対馬・壱岐・福岡
それぞれ千里だから比率は正しい
当時の一里は約50m 白鳥庫吉が邪馬台国を九州に収めるため「帯方郡から女王国まで12000里」を帯方郡から邪馬台国まで12000里」と無茶解釈してしまったせいで
「邪馬台国へは水行10日陸行1月」と矛盾してしまって「邪馬台国まで12000里」とか言ってたくせに「日数は魏の倭国討伐を魏の反対者がやめさせるために誇張した数字だ」とか訳のわからないことを言い出してた >>214
奴国や不弥国を起点だと決めつけたのが誤りってことになるな 出雲視点の話や朝鮮視点の話がないんでなかなか立体にできなんだよな
まあ 無いってことがポイントなのかもしれんがな >>214
水行30日で移動できるのはせいぜい250kmだから
地図ソフトで海岸線を250km測ってみたらいいよ >>219
だからその根拠はなんだと聞いてるのに、逆算して収まるようにする方法を根拠だとグダグダしてるんだろ? 魏志倭人伝自体が又聞きの伝聞であり信憑性は非常に低い
そんな物を前提にしてる時点で論争の意味がない いずれにせよ、ヤマトは邪馬台国や狗奴国の時代を知らない
文字を読めるようになった6世紀以後はじめて魏志倭人伝などを読んでその存在を知ったんだろう
そして邪馬台国がその後どうなったのかもヤマトにはわからない
だから日本は倭国との関係に関して上手く説明出来なかったんだろう(旧唐書) >>222
でもお前には否定する根拠はないんだろ?
起点は絶対に不弥国だ、根拠もなくそう決めつけてグダグダになってる >>221
それはなんか根拠のある数字?
昔カヌーで日本の沿岸をまわった人のブログとかで見た距離とは全然合わないけど >>223
だからと言って完全無視するのは言語道断 そもそも陸路で佐賀→鹿児島とか1ヶ月でいけるわけない >>227
どこにも不弥国からと書いてないし、急に書きぶりが変わるし、1万2千里とも整合しない
起点を思い込みで決めちゃ行けないな
根拠ないんだろ? >>229
鯖街道の話
若狭湾から京都市内まで徒歩一日だそうだ 大発見があるとすれば卑弥呼云々より文字の利用の発見じゃないかな
文字の利用は明らかに隠蔽してるでしょ
記紀の記述とも矛盾してるし >>226
土佐日記の紀貫之が250km移動するのに39日かかってる >>229
何個か前のスレで1日7.7kmペースで山をできるだけ避けて博多から鹿児島県に行けるってやってたよ >>230
どこを起点にしても自由とか、頭おかしいこと言ってるって自覚ある?
後、九州説には戸数が過大すぎるって問題もある 24時間中継ですぐわかるようにしろ
誰かが捏造するかもしれん どうも佐賀県の知事や担当者の物言いや雰囲気を見ると自信が有りそうなんだよな。石棺が弥生後期の邪馬台国時代のものだと断言してるし。
何か確証が得られるものが石棺の回りから発掘されてるのかな。 >>8
>>12
吉野ヶ里遺跡公園は国営だから、税金はジャブジャブ使える >>218
東遷説が纒向の発見(同時期に九州より大きな政権があり争いの跡も存在しない)で完全終了で天照大神説も終了。
東大にはこれによって九州説を主張する人は意味がないのでいない。
残ったのは本居宣長の女酋長説とその亜流。
纒向も倭国大乱の舞台にしてはあまりにも平和的。
そして、日本書紀だけが矛盾しない説を指摘してる状態だがGHQコードで積極的に主張する人がいない。 >>233
土佐日記の移動距離が異常に、短いんじゃね?
歩くよりも遅い距離しか移動できてないぞ? >>235
俺は「1万2千里」という記述を根拠として起点を考察してるんだよ
お前は、普通に読めば、と完全な主観を並べてるだけじゃないか
主観はいらんよ >>224
白村江の時代に九州に有力な反畿内勢力があったのは無茶ですよ。 >>224
知なかった場合は、邪馬台国を滅ぼした勢力と
日本書紀を編纂した勢力とは別の可能性がでてくるな
天皇の墓をあまり調査したがらないことと合わせると
もうちょっと複雑なことがおこってるのかもな 邪馬台国って、ヤマト政権だろ?
中国が勝手にそう書いてるだけ
日本の書物や遺跡からはそんな言葉全く出てこない >>235
>>230はどこを起点にしてもいいとは言ってないだろ
確たる証拠もないのに起点を決めつけるのが良くないと言ってる
あと戸数に関しては九州だろうが畿内だろうが今の人口より多いとかあり得ないから戸数は正しい数字ではないと見るべき
そもそも文字もない時代に7万戸もの数を管理できるわけがない >>232
紀元前から中華文明と接触している匈奴だってずっと文字使ってないんだし
隠蔽とかないだろ 裴世清は筑紫から難波津まで2か月
古代実験船は熊本から大阪まで約1か月で航行したが波が高いとか潮が速いという理由で動力船で曳航しまくった 石棺って形式を見ただけで年代が解るのかな?
石棺は弥生時代後期から発生したわけでもないんでしょ。縄文時代からあるわけだし。 1万2千余里は邪馬台国ではなくて倭国(女王国)までの距離だからな >>239
纏向って環濠面積が吉野ヶ里の10分の1くらいの小さな農村だよね? >>241
それは結論ありきで編み出したと言えばいい >>244
二大勢力だったわけでもなく文字で歴史を残していなかったんだから皆んなお互いの歴史もよくわからないわけよ
その状態を改めて日本統一国家を成立されるべく天武が記紀の編纂を命じた >>251
それだと伊都国で10500里になってる説明がつかない >>252
発掘された面積は非常に小さい。これを見て東大はこの論争から手を引いた。 >>135
帯方郡から水行20にする根拠は全くない
根拠がないから唐津から水行20日でもいいし糸島から水行20日でもいいし博多から水行20日でもいい何でもありの珍説 >>254
どこが結論ありきなんだ?
帯方郡から邪馬台国まで1万2千里ならば、邪馬台国が逆に辿っても同じ距離で帯方郡に着く
当たり前の理屈じゃないか 記紀編纂の手法
天武が稗田阿礼に全国の伝承を暗記させた
太安万侶が稗田阿礼をテープレコーダーのように使って一つの文書として書き上げた
以降誰かの手によって修正され、発行された >>251
もしそうだとしても誤差の範囲じゃね
伊都国まで1万500里だっけ?あるんだから残りは1500里内に倭国も女王國もあることになる >>257
対馬や壱岐島の距離も足したら一万二千余里が伊都国や奴国辺りになるから説明がつくが 距離があれだけ盛ってあるのに戸数や日数は正確だという方が根拠薄い いずれにせよ、魏志倭人伝には畿内のキの字も出てこない
畿内はどう足掻いても圏外です 石棺の石の材質を調べたら近畿地方産、とかだとここが面白いことになりそうなんだが、
それはないかな? >>265
戸数を数えるのは難しいし、距離も計るのは難しいけど、
それでも日数は簡単に数えられるからなあ。 >>264
また「余里」か
そもそも千里刻みの水路に、計測可能な端数なんてあるわけない
その上で総距離をみれば、1万2千「余里」と水路の端数は考慮してある >>267
石はわざわざ近畿から運ばなくても身近にあるからなあ 吉野ヶ里のサイトを見ると伊都国は女王国に服属していると訳しているから伊都国は女王国の構成諸国に入っていない説を取っているんだな >>267
100キロオーバーの石をわざわざ近畿から運ぶ手間と技術の方が歴史的発見だわ >>264
むしろ12000里を邪馬台国までの距離としたほうが説明がつかないからな >>268
道や天候で日に進める距離は変わるからあまり安定してなくね
数え間違いさえしなければ不確定要素が少ない里数の方が正確に思える >>268
船の日数は風待ち潮待ちでいくらでも伸び縮みする魔法のスケジュール >>273
大体大陸から派遣された奴が報告したのを、上の奴が筆記したんだろ
派遣された奴は、盛るに決まってるじゃないか >>274
藪漕ぎするような場所や山道を歩測するのは大変だと思うけど >>273
末盧国も地理的に女王国だが、ここまで1万里だ 伊都国から残り1500里だから九州に決まってるやんw >>277
それな!
決まったところが、卑弥呼せんべいと、邪馬台饅頭(逆かも知れんが)出すに決まってんだよ 中国は中華思想の国なんだから、地理感覚もその中心から放射状に広がっていき、周辺に行くほど太陽を中心に考える方角とはずれる。
日本はそこは太陽中心に考えるので地理的な感覚は割と正確。逆に弱いのは年代感覚でそこらあたりは魏志倭人伝も年齢の数え方のわからない民族だと指摘している。
雄略天皇の年代も倭の五王への比定から推定されている。 >>278
熟練してればそこは問題ないように思えるな
この使者がどの程度のもんだったかは分からんけど 陳寿が参考にしたであろう他の資料では伊都国の南に邪馬台国があるとか書かれてるのわかりやすくて良いよね 高木彬光の小説だと確か不弥国と邪馬台国とは隣接してて、
不弥国までの距離と一万二千里との誤差は「余里」に含まれるって
解釈だったな。納得しないとは思うけど。 >>285
陳寿は対馬から壱岐島までの方角すら間違えてるから方角は当てにならんぞ 卑弥呼の名前が刻んである発掘品が出たら確定ってことでいいんだっけ >>175
伊都国の日向かもしれんし
宮崎の日向で狗奴国は熊本・鹿児島かもしれん だいたいヤマトも奈良が発祥じゃなくて奈良がパクったんだよ >>271
女王国の端っこは奴国からという説もあるよ >>271
それは認識不足なだけ
古代世界のクニは一つの都市国家を指してるわけで
それが他の周辺のクニを服属させ規模が大きくなってくると、服属させたクニも含めて一つの都市国家の名前で呼ぶようになる
この場合がまさにそれで、女王国が邪馬台国という一つのクニを指している場合と、同盟国を含めた全体を指す場合とがあり区別が必要なのよ >>293
そうなのか
豊富な絹は邪馬台国の特徴の一つ
近畿で養蚕か絹織物の痕跡が発見されないと畿内説はスタートラインに立てないね >>271
すげーな畿内説
女王国に服属してる国は女王国連合じゃない!
まったく意味が分らんww >>285
そっちは実際に現地に行ってる人からの報告書だからねえ
陳寿がごちゃまぜに編纂したから訳分からないことに ライブカメラつけて欲しいよな
佐賀はこういうところがダメだわ
エンタメやのに 天皇のルーツにかかわることだからこの発掘を進めてはいけない
ただの墓荒らしは即刻やめろパヨク共 >>303
ちゃんと天皇陵に指定しなかった宮内庁が悪い >>261
お前それは結論ありきで方向転換する畿内説とどこが違うんだ?
どっちも完璧な説明になってないという点では同類だと言ってるんだ 卑弥呼が死んだ後すぐに攻められて墓も荒らされてんだろ
何も残っちゃいない >>303
お手々はグー、頭はパー、舌はチョキ
これなーんだ? >>300
南へ向かって九州に到着し、もっと遠いところにあるだともっと南にあると少なくとも本国の人は思う。そこで方角が変わると遠くないだろ?近いところにあるのか?となって説明が非常に困難。 >>287
鉄器も7万戸を養える水田も無い
支配地域が奈良盆地外にあったとしても、街道が無ければ運べないよね
藪漕ぎしてる時点で奈良盆地の可能性はない >>305
方向転換なんてしてないが?
邪馬台国まで1万2千里
ずっと同じ主張だ >>310
まあ7万戸は一旦頭の中から消しといても良いかも >>113
帯方郡を起点にする根拠がないから水行できる都市からならどこからでも水行20日が成り立つ まぁこれで赤い顔料だけでなく魏鏡やら金印の類でも出てくりゃ面白いけどなw 中国の人のいう方角は基本が国の中心(王がいるところ)からの方角。よって周辺部にいくと説明が難しくなる。 邪馬台国九州説論者ですら、吉野ヶ里遺跡は邪馬台国じゃないと言ってるのに。 >>317
そもそも魏志倭人伝の冒頭の出発地が帯方郡ですが? 佐賀県の町おこしに付き合ってあげて
誰も損せんだろw 風土記によると神埼郡は景行天皇より前は荒れてたらしいからその時代の環濠集落だろう
恐らくは平和になって徐々に中心部が吉野ヶ里から神埼の方へ移動した >>321
八女だったが南の狗奴国と戦争になったから吉野ヶ里に移動した >>315
ぜひ出してもらいたいな
畿内ヤマト政権こそ九州落とすまでは日本海ルートを使ってたと俺は睨んでる
そのために因幡と出雲の攻略を急いだと 倭=九州、南朝鮮 日本=大和で神武東征で近畿まで征服って見たんだけどこれどれくらい可能性ある? 日本海ルートが当時からあってのは兵庫の但馬や福井の遺跡からもうわかっていること 栄えてたの北九州だけで本州に流れたの?
アフリカのエジプト的な 7世紀までは倭国の時代だ。
朝鮮半島南部と日本列島を版図にした大国だ。
しかし663年の白村江で倭国は敗北した。
それで国力を落として倭の別種の日本に併合された。
だから8世紀からは日本の時代だ。
ヤマイ国、倭の五王は倭国だ。
「倭」の読みは「い」だろ。
記紀で7世紀以前の倭国のことを書いていたら
それは単なる作文・妄想だ。 邪馬台国九州説が正しいとして所詮は九州北部の小国連合のお話でしょ
日本史の流れからは脇役でしかない無駄な論争はとっとと決着して欲しいものだ >>331
隋の時代でもまだ東は毛人の国とか書いてあるもんな >>9
日吉は比叡山に関係する
遠賀川の鎮西上人の伝説そのままかもな
倭国大乱前じゃないか、この墓は >>330
九州と奈良と両方それなりに栄えていて、九州の崇神=神武が
奈良に婿として入り込んで王となった。そのため崇神を
ミマキイリヒコ」と呼ぶようになったというわけよ。 >>329
当時は道なんてろくに整備されてないんだから日本海海岸沿いの航路がメインだな 魏に愚痴るぐらいだから狗奴国は邪馬台国よりも大国やったんやろ そっちの方も見つかるのかな 邪馬台国が九州だとしたら日本史時には一気にどうでもいい話になるわな 大和朝廷の前身みたいなことを前提にしてる人いるけど
九州のモブ国家だった可能性も同じくらいあるんでしょ? 因幡の白兎の物語にヒントがある。あの何が言いたいのかわからん物語は歴史書である。 畿内説は情報や文化の伝搬速度を無視した現代感覚の妄想 >>272
古墳時代だと畿内の遺跡の石が阿蘇のピンク石ってのは結構あるな >>340
隋の次に唐の時代になったというだけだ
日本では唐(ヤマト政権)の時代が現在まで続いているが >>341
その頃のヤマトもどこかのモブ勢力だったんだろ
下手したら邪馬台国の配下の国 ヤマト王権は伊勢と出雲に何かしらの縁があるから邪馬台国とヤマト王権は違うんじゃね >>342
あれはウサギがキューピットしてる
心優しきヤマトの神と美しい因幡の女神とのキューピット
出雲攻略の政略結婚だよ 九州が別王朝で近畿には大和朝廷があったって説明が1番ピンとくるわ これらの倭国の功績を日本の功績に書き換えたんじゃないの >>327
日本の名称を使いだしたのは、遣唐使の時代から でもなぁ・・・
吉野ヶ里って佐賀なんだよなぁ・・・
もうこれだけで信用できない。 >>313
畿内説が目的地(畿内)に辻褄を合わせるために南に行かず東に行く
これと同じだと言ってる >>349
わざわざ神武天皇が日向から東征したと書いてるわけで
ヤマト王朝の前身は、3世紀頃は狗奴国の下にいた可能性も 剣、曲霊、鏡が出てきたら公開されるんやろ 三種の神器がどんな感じのか見れたらええな >>333
日本は小国だった。
大国の倭が敗北したんで
その歴史をパクろうとした。
大日本帝国敗戦で
自称戦勝国民が誕生したよね。
それだよw
でも倭の五王とか卑弥呼は
支那の歴史書にバッチリとアルので
パクれなかったんだろ。
「息をする様に嘘をつくな」と言われるんで。 >>359
俺は魏志倭人伝の記述をねじ曲げてないぞ
むしろ記述に忠実な考察をしてる >>334
外環濠の外なだけで石棺の場所は吉野ヶ里公園の中だろ
これまで日吉神社が建っていたから未発掘だった区域 >>353
朝廷は隼人の神話もパクって書き換えてるしね >>358
数字はウソをつかない
https://i.imgur.com/pOVDp9N.jpg
四国にも弥生人が多いことに注目
台風直撃が多い四国と和歌山県には
縄文人が住み着かず、移住してきた弥生人が当時、僻地だった四国や和歌山県に住み着いた 空白の100年とかいうけど実際大化の改新前の歴史なんて神のみぞ知るだな 日本ん古代史はほんとに訳わからんのだよ(昭和天皇談) >>358
旧皇族は調査されてる
旧皇族は縄文人
明治天皇の血縁関係も縄文人
弥生人が日本の王族・皇族になったことはないと思われる
N253487 Sumeramikoto (Emperor of Japan) D-CTS8093
https://www.familytreedna.com/public/japan/default.aspx?section=ycolorized
伏見宮家
伏見宮家のY染色体遺伝子は、ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である
これは、伏見宮家の男系子孫1名から得られた解析の結果に基づく。
東山天皇
人皇第113代・東山天皇(Emperor Higashiyama, 1675-1710)のY染色体遺伝子は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である
これは、東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔粘膜の解析による。
南朝・後村上天皇
南朝・後村上天皇(Emperor Gomurakami, 1328-1368)の男系子孫のY染色体を調査した結果、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)であることが判明した
近衞文麿
内閣総理大臣を務めた、近衞文麿(Fumimaro Konoe, 1891-1945)のY染色体は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)である。
2019年6月19日改訂のISOGGより D1a2(旧D1b1'2)に変更。
「縄文系」のD1a2(旧D1b)、(チベットD1a1)
オクスフォード大学の遺伝学研究チームのクリス・テイラースミス(Chris Tyler-Smith)
及び、 カラー・レッド(Color Red)は、日本人男性のY染色体の一塩基多型(SNPs)および
縦列反復数(STRs)を解析した結果、天皇家のハプロタイプは(D-CTS8093)に属する
系統であると結論づけました。 >>341
神武が東征する前に女王国に挨拶する、或いは許可を得る必要があったくらいの支配力を持っていたわけだ
邪馬台国連合出身の神武が、奈良を服従させて名乗った国がヤマトになるだろ >>218
今でも榎一雄みたいな結論ありきの放射説もどきを使うのは白鳥庫吉のせいか どこにあったかすら分からない、その程度の国だったてことだよ >>365
吉野ヶ里公園入った事あるなら、
あの神社のとこだけ公園の柵の外で、
北の甕棺墓のエリアへ渡る橋を潜って行く様になってる事
知ってるはずなんだが。 焚書っていうか自分らの功績にしただけで大筋は変わってないんじゃないの >>373
正直目新しい発見はないと思ってるけど畿内派からすりゃハラハラもんだろうね >>54
古代の大陸人は本州は南に延びていたと考えていたのだから
倭人伝はどこまであてにできるものか >>378
蘇我氏の功績を聖徳太子(ヤマト政権)の功績に書き換えたのと同じ手口だよな >>377
今回の石棺は吉野ヶ里遺跡公園内の「未公開エリア」にある >>370
そのデマソース広めるの止めようぜ
本気で信じる人出てくる 大型内行花文鏡が5枚出土した怡土の平原遺跡。
その東に日向峠があり
ここから背振を超えたところが吉野ヶ里。 >>341
邪馬台国が九州の小国だった可能性はあるけど、現在の考古学的知見からはその可能性は低い
なぜならば3世紀前半には畿内を中心とする広域連合ができていたと考えられているから
広域連合の中心を邪馬台国、広域連合を30国の邪馬台国連合とみなすのが合理的な解釈 >>374
放射説を使おうが陸行一月で大抵の九州説論者は撃沈してしまう
榎一雄もそうで一月も歩いたら榎が邪馬台国の比定地とした久留米なんか突っ切ってしまう >>378
焚書してるね。
稗田阿礼はもの凄い記憶力だが
ほとんど氏素性がわかっていない。
聖徳太子と同じ架空の人物だ。
これには倭国の歴史書という底本があったはずだ。 >>383
聖徳太子自身は蘇我王朝の有力者だしな。 >>383
そのあたりが半島DNAのせいだとしたら、
「DNAは人格をも継承する」という法則の発見 おまいら遺跡の石棺発掘調査であれこれ言い合って暇ですな
神社の真下にカムフラージュされるようにして見つかった重い石棺は
重機でどけたところこれまでと違って朱色の赤が使われていたんだと
これまで16くらいめっかったお墓のご遺体とは明らかに異なる、VIPのお墓ちゅう事や
吉野ケ里で卑弥呼邪馬台国と同世代のお墓とご遺体という事で、卑弥呼や邪馬台国に関する
重要情報が解明する可能性もあるちゅう訳やな。単に吉野ヶ里の地域情報としても重要な
発掘調査になる事は間違いない
調査結果で大まか重要な事が判明するのは開けてから1週間後くらいだと佐賀県県庁小役人が取材で
言うとったで。アレコレ言ってもそれまでは結果は分からへんから、もうここらでやめとこか
近畿小豪族の墓らしい、巻向遺跡の事も思い出しつつ、心斎橋あたりに茶でもしばきにいくでー レイコウでもええよ。 倭の歴史書なんかが朝鮮からとかなんかの間違いで出てきたら教科書や歴史ひっくり返るんかな >>364
捻じ曲げてる自覚がないのが、救いがない >>341
ちなみに広域連合については、日本史の教科書に載ってるくらい基礎的な知識
山川の教科書のコピペ
「弥生時代の後期には、すでに大きな墳丘をもつ墓が各地で営まれていたが、
3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現する。
これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、長い木棺を竪穴式石室におさめた埋葬施設や、
多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、画一的な特徴をもっていた。
それは古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、
その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは、奈良県(大和)にみられ、
この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。」
>その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
>その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
>その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。 >>397
最近、半島人も縄文人だったという研究成果が出てきてるよ
もとは同じ人種だ
半島に居座って混血し過ぎたのが今の韓国人だろう >>397
文字資料が出ても、遺跡が出ても、歴史は塗り替わるよな。
新たな事実がでるたびに塗り替わるのが古代史。 >>69
いや単に邪馬台国なんて日本国内では取るに足らない存在だったつーことでないかい
シナ人らしい過大表記 朝倉あたりと奈良の地名に共通点があったのはなかなか面白いと思ったけどその辺の文献ないんかな >>399
山川は慰安婦や徴用工に強制性があったと書いてる半日同人誌だぞ >>399
>この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という
政治連合が伊都国を傘下に置いたかどうかが邪馬台国の位置の鍵。
山川の記述では、北九州まで連合したかどうかは書かれていない。 >>389
その考古学知見とやらで
魏志倭人伝に描かれた鉄器や絹製品が
畿内から殆ど出土していない事実を説明してみて >>400
最後の氷河期が終わってから
朝鮮半島は4000年間無人地帯だった。
そして今から6500年前に北の豆満江(tomam)方向から
沿海州の縄文人が無人の朝鮮半島に南下した。
今から6000年前、対馬から東三洞・釜山周辺に
縄文人が無人の朝鮮半島に住み着いた。
北や南からの縄文人の進出定住は、ほぼ同時期だと思う。
それぞれ海岸沿い、川沿いに定住地を広げて
朝鮮半島全土に広がった。
日本列島も朝鮮半島も縄文人の土地だった。
今から2800年前に、西の中国方向から来た
縄文人とは異なる人種集団が
渤海岸沿いに、朝鮮半島を南下した。
その後500年間で朝鮮半島の縄文人は居なくなった。
人種の交代が起きた。
箕子(きし)朝鮮・衛満(えいまん)朝鮮だ。
彼らは今の朝鮮人にはつながらない。
縄文人は日本列島、朝鮮半島、シベリア東部に住んでいた。 >>375
水戸光圀も徳川幕府の威光で各地の大名から古文書を強引に徴発して、その書庫にしてた寺を全焼させた上で「大日本史」を編纂してるしな この資料を見て、西暦239年に魏に遣使したのはどこの勢力だと思いますか?
https://i.imgur.com/96qEpxT.png ヤマト政権がそのままスクスク育ったと思ったら大間違い
あんな良い土地なんだもの。取り合いになって何回か政権が変わってる。
だから色んな説があるんだよ。 予算書とかつくるやつならわかると思うが
魏志倭人伝にうそがあるとすれば 水行十日陸行一月だよ
人役盛るのは常識 他は検証可能だがこれは 道が悪いとか天候が悪いとか
いくらでも、言い逃れできる >>398
どこをどうねじ曲げたか指摘してみろよ
たとえば畿内説のように南を北東にねじ曲げたか、とかな >>409
畿内の方だな 魏の威を借りて勢力逆転したんだろ >>69
記紀に九州征伐のことはいくらでも書いてありますやん
出自のはずなのに九州に苦労するヤマト なんでもいいから謎の古代文字とか不気味な像とか出てこんのかな
もしくは真実の歴史書が見て見たい 紐解いたからといってなんやねん
日本の未来が危ういのに過去振り返ってどうすんねん 畿内は残っているものだけでも
でかい古墳がごろごろあるんだから日本のエジプトみたいな場所。
佐賀県笑笑 >>410
古代の奈良盆地は内湾→奈良湖→盆地
となった湿地帯でいい土地ではない
三輪山の麓(山処)がかろうじて居住可地 >>409
畿内ヤマトは流行遅れだった、しか分らんが >>419
九州の山門(ヤマト)の女王を倒した
なんて記述もあるのにねw >>406
魏志倭人伝には邪馬台国に鉄器や絹が大量にあるとは書かれていない
魏志倭人伝は魏志邪馬台国伝ではない
ちなみに3世紀中頃のホケノ山古墳から出土した鉄器
素環頭大刀 1口、鉄製刀剣類 10口、鉄鏃 約60本、鉄製農工具
邪馬台国が魏に遣使した時期の九州からこれだけの出土はあるのか? >>425
それは九州の平野部も一緒
そもそも中国南部から伝わった稲作文化は
まずは九州で普及するだろ >>428
畿内にはその鉄器を使った大乱の痕跡が無いのよ
九州では全域で見つかるけどね こんだけアタフタしてる時代なのに朝鮮側に資料ないのなんで?
広開土王碑文くらいしか聞いたことないけど
南まで征服されてるんだからもっとなんかあるはずだよね >>405
いやそういうこといってんじゃなくてさ
仮に邪馬台国が九州だと日本史的には割とどうでもいい地方豪族の話がたまたま魏志倭人伝って形で残ってただけ、てこと
日本史で重要なのはヤマト王権の母体となる権力基盤・影響力が畿内に存在したってことだろ 土入ってた後の続報無いけど
めんどくさくなっちゃたのかな >>423
飛鳥~奈良時代以降だよな、水路設備作ってマトモに稲作が出来るようになったのは
もっと遅くて平安以降の可能性も高いが >>428
ホケノは4世紀だそうです
箸墓古墳より新しいそうなのでもう卑弥呼の時代とはかんけいありませんね >>428
「養蚕が盛ん」なのは女王国の記述っぽい
その後で倭国一般の話に変わっているようにも取れる >>419
黒潮系で火山の影響も強い南九州と大陸系北九州は系統が違ったと思う >>428
炭素測定で木槨木材が4世紀中葉のホケノ山古墳() >>438
女王国も倭国も同じじゃん
倭地の間違い? このスレはこの辺かな?
オリゲネスはノドを「震える国」と定義しており、それは神を捨てる全ての人間の状態を象徴していると記述している
神系だよね?集団ストーカー食らって分かっちゃったから集団ストーカーって鬼創りなんだよ👹
そしてココ鬼道スレでも有るよね? >>443
ほう、魏志倭人伝に起点が書いてあるのか? >>436>>440
嘘とデタラメで反論は九州説のデフォ >>433
地方豪族の一勢力が強大化して
東西征伐して国を治めた
ということ? >>432
地域の記録という意味ならば、漢代から楽浪郡や帯方郡の記録は、大量にある。
中原の役人ではなく地域の独自勢力が自ら書いた書としては、「百済本記」が「日本書紀」に引用されており、
日本書紀成立前に存在したと考えられるが、現存しない。 >>433
その母体すら畿内以外の場所疑惑
纏向遺跡とヤマト王権との関連性って何一つ発見されてないし
そもそも神武天皇は九州から東征したと、わざわざ書いてるわけで >>419
ちょっとした九州の悪党を成敗した程度に矮小されてるだろ
本来、悪の枢軸邪馬台国を倒したって書くとおもうんだよな
それをしない理由がわからないわけよ >>267
安山岩で佐賀の多久あたりのものって封じられているよ >>422
その論理だと埼玉や群馬の地位が上がるぞ >>444
やはり青森か。。。青森の文化を紐解くと、邪馬台国の暮らしが見えてくる >>318
そして、発掘時には無かったハズのハングルが最新技術で彫られてるんでよね。 >>451
権威は利用したかったからだろ
なんせ九州から見れば出戻りだからな
いいとこ取りをしたいんだよ
勝者の特権で >>456
なんでハングルが1世紀~3世紀の墓に? >>446
4世紀中葉に斬られたコウヤマキで作られた木棺が入った古墳が3世紀中頃のものになる理屈を説明してみ? 渡来系だと思うけどなぁ
収まりがいいように近い所
(九州)出自として
南端から東を目指し統一したという話にした
その過程で旧勢力は一部に追いやられた
海外の宗教である仏教広めたがったのも
新しい統治に便利だと思ったんじゃないかね >>449
時代遅れとか意味不明の反論
短里脳はノータリンと書いたが、本当にノータリンだな >>448
百済本紀はどこが書いたんだろう? 新羅? >>446
畿内説はもう詐欺に片足突っ込んでる状態だぞ
例2)騙されるな箸墓年代
https://i.imgur.com/5c0znBb.png
例2)静岡県の高尾山古墳の年代について(前方後「方」墳)
元愛知県文化財センターの赤塚次郎氏は狭間Ⅱ式土器と併行の230年ごろと判定し、
寺沢薫(元橿原考古学研究所・現向学研究センターセンター長)はもっと新しい250年頃の箸墓古墳頃の年代論だという。
大塚(初重)先生は赤塚次郎説までも行かないが箸墓古墳よりも古いだろうとは思うと説明された。
奈良の前方後「円」墳が古墳の始まりとしたい畿内説の寺澤氏が必死w >>460
仏教はめちゃ便利ではあるな。
教え様によっては苦しくても宇宙の大きさに比べたら大したこと無いよねとか、業が深いからそんな苦しい目にあうんだよ、自業自得とか、贅沢は敵、足るを知れ!とか
権力者に都合のよいロボトミーを作ることができるし >>465
白村江の前後あたりで滅亡する前に書いたのか >>430
まぁ都市だけど…6000年前なんだよ?
考古学おぢたん達は分かるよね6000年前の都市? >>464
この記事をよく読んでみて
あからさまに畿内説ありきで年代発表してるから >>461
短里なんて使ってないぞ
すでに魏鏡がはいってる邪馬台国では漢鏡なんて時代遅れでダサいだろ
畿内では遅れて流行したようだが >>467
書いてないことはねじ曲げられんな
その程度だと思ったよ それまで緩い友好関係や不可侵の
関係だった地方豪族が、ある日を
堺に日本統一に向かうとは思えないのよ
なんらかの外的要因が入ったから
が俺にはスムーズ
入るなら九州北部、海を渡ってだ >>468
しかし釈迦は平等思想で円座で話をし
インドで結局仏教が廃れたのは平等思想のせいらしいが
身分制度に対するアンチが仏教の本質 >>447
いやまずさ、学術的な史実とフィクション的な妄想って分けて考えないと
古墳時代とヤマト王権が直結してるのかどうかは分からない
俺のフィクション的妄想では権力の簒奪があったと思ってる
で、山川の教科書に書いてある古墳時代の権力の中心が畿内なのは学術的な史実でしょ
逆にいうと同じ時期に九州に巨大な権力基盤があったとしても本州でその影響を受けた形跡は見られない
九州から東征してきた、ってのは権力簒奪後の後付けでしかない
単に簒奪者がその出自を隠すためにそういっただけかもしれない >>444
だから縄文だよヤマト王権も
日本神話の舞台となる鹿児島には最古級の縄文遺跡の上野原遺跡がある
天孫降臨も海幸山幸も南九州が舞台
日本神話は出雲もヤマトタケルの関東遠征も黒潮とその分流の至る所が舞台
大陸と交流あった北九州の邪馬台国とは別系統 卑弥呼は天照大神
天照大神が土下座外交してたことを隠すために古代から有耶無耶にしてるだけ >>479
近畿に弥生系が突出して多いというデータなのだが 邪馬台国時代の人達のセックスが見てみたいなw
イヤ、いやらしい意味ではなくて
どんな感じでやってたのか凄い見てみたい
始める前の喋りとかさw
終わった後の男女の会話とかさ
スゲ見たいw マイナーな分野だからバレないと思い好き勝手やってきた底辺学者の通説が畿内説 >>469
607年 日本 第二回遣隋使を送る
620年 日本 「国記」「天皇記」完成(現存しない)
660年 百済滅亡
720年 「日本書紀」完成
日本で国記や天皇記が編纂されたのと同時期では >>451
日本書紀一書で九州の蛮族が仲哀天皇射殺してるんだから十分悪いわ
天皇が夷敵に殺されたのは日本史2600年間でこれただ一例 隋唐の鮮卑人、日本の倭人は皇帝即位のルールを破壊した魏に感謝しないとな。 >>482
昔の偉い人の性交は政治的祭祀的意味が強かったからエロくないよ >>477
そうだよ。だけどそこに悪がおったら利用されんのよ。
新興宗教見てたらわかるでしょ >>489
日本書紀の「一書に曰く」で書いてあるがな >>491
ミッドサマーみたいな感じだったら嫌だなあw >>475
書いてないから好きに解釈がお前だろうが >>486
日本史2600年w
をまずは疑えや
記紀の5世紀以前は考古学的な裏付け皆無だぞw >>496
考察であってねじ曲げではないな
結局言いがかりだったわけだ
恥を知れよ >>474
バカ?
邪馬台国論争の争点は、九州勢力が中国との交易で主導権を握ってたのは「いつまで」で
畿内勢力に主導権が移行したのは「いつから」かだ
後漢鏡の最後のものから畿内主導になってたんだから九州説は終わったんだ >>497
いや真偽はともかく
朝廷だってそういう記述はちゃんとしてる
という話なんだが >>463
どう考えてもトンデモはホケノ山古墳が3世紀半ばの築造って説だが >>499
滅亡した漢の鏡が流行したからどうだというんだよ
倭国大乱で戦時体制下だったのに、漢鏡集めなんて呑気なことはやっとられんな 世界史的には日本の朝廷スタートは6世紀からだし
やっぱ弥生後期の資料が出てきそうな吉野ヶ里の今度の発掘は期待大 >>498
好きに解釈して、根拠もなくスッキリするとか恥ずかしいやつ >>504
根拠もなくつまらん主観で否定するなよ
否定する根拠はないんだよな >>500
ちゃんと、の意味は?w
焚書坑儒で知られるように、為政者が作った歴史なんて
ちゃんとしてるわけないぞw >>480
天照大神は卑弥呼ではない。
天照大神の正体は
持統天皇である。
これ豆な 銅鏡って船の通信手段説どーなの?
太古からピカチューだったのYOU達?w >>2
>オモシロ畿内説まとめ
>
>Q:奴国から南に向かって畿内に着くのは無理でしょう?
>A:そんなん知らへん!!
↑
九州説の素人ぶりを強調するための釣りかもしれんが、古代中国は北辰思想が常識なのでなあ。
北辰思想では、磁石の北ではなく皇帝のいる場所が「北」になって、位の下のものがいる方位が(朝鮮、ヤマト)南側になる。
素人が学ばなきゃいけない古代中国の常識です。 >>507
年代が合わない。
三内丸山は縄文時代。 >>508
21代までの天皇は
考古学的に実在すら証明されてませんよ 倭国が白村江で敗北して
日本が浮上してきた理由は
白村江に出兵してなかったからだ。
なぜ出兵しなかったのかというと
・小国だった
・距離が遠かった
だから日本より東の「諸国」は出兵していないんだ。
しかし倭国に近い「諸国」は出兵したと思う。
その結果が敗戦だから、倭国同様に国力と発言力を失った。 >>505
妄想に根拠を求めた俺が悪いんだな
妄想は好きにやってばいいが、説明できないなら他人に披露するな >>510
中国から見て未開蛮族の国に
北辰思想当てはめる理由がないだろw 開けたら
「やあ!みんな心配したかい?」
と言って安倍晋三が出てきたらどうするよ >>511
その丸山CITYは何千年前の都市なの?w >>486
蝦夷坂東侍に水死に追い込まれた安徳天皇は? アマテラスは死んで男王スサノオが統治したが
乱れてトヨが女王として治めた
こういう流れだろうな
隠れたは死んだということだからな
ヒミコは内宮、トヨは外宮に祀られている >>510
で、一貫して南ないし東南に進んでるのに、なぜ途中でアクロバットV字ターンしなきゃならんのだ? >>510
それを証明するには
中国から朝鮮半島までの行程も南方向へ進む記述を出さないといけないんだよな >>514
1万2千里という明記された数字が根拠だが、お前には何ひとつ根拠なんてないよな >>517
「ドッキリ大成功!」って札もちゃんと持って出てこないと >>511
北国では衣類に使い道がない絹の価値が無いだろ >>524
お前の妄想には付き合ってられんので、勝手にレスつけるな
構ってほしければ、他の誰かに相手してもらえ >>527
古今東西どこの文明もだな
ギリシア・ローマとかも改竄がすごい >>528
お前がレスするなよ
難癖つけるしかできん奴がブンブンつきまとうな 東大は九州説なんだそうだ
なぜなら、
邪馬台国なんかが出来るずーと前に、神武東征が行われているのに、その後、畿内に邪馬台国など不敬罪
という大日本帝国の思想によるモノ
一方、京大は畿内説なんだそうだ
なぜなら、
九州には神武東征前の天孫と言われる一族、所謂、漢委奴国王がいて、邪馬台国など創れるわけが無いから
だそうだ
しかし、圧倒的な纒向遺跡が発掘されて
論拠の「邪馬台国なんかが出来るずーと前に、神武東征が行われている」が瓦解してしまい、東大も畿内説が正解だと薄々わかってる >>520
安倍ちゃん家遡ると桃太郎さんだよね?
日本一の桃太郎さんと言えば鬼退治?お?繋がってギタ~
鬼道に卑弥呼なスレだから書いちゃいますけどね般若作り辞めてよね怖いから…最近5ちゃん女叩きしてるの知ってるんだお >>531
別のやつとの話しに勝手に入ってきてこの言い草
構ってほしくないなら、自分宛てじゃないレスにレスつけるな >>510
これが畿内説なんだよな
グーグルマップでも見て、常に皇帝の位置と自分の位置と比較していたというファンタジーが畿内説
地図はないから目視した地形や太陽の位置で方向を把握したとは考えない 吉野ヶ里遺跡が邪馬台国でないことくらいみんなわかってるけど
町おこしのためにはしゃいでる >>536
起点をねじ曲げたと因縁をつけたのはお前じゃないか
遠吠えはいらん
消えろ >>513
倭と日本は続いてんだって
改名しただけ
倭の時代に百済と同盟組んで一度南の方手に入れたけど結局やられて以後は手を出してない
その時点ではまだ倭=ヤマト王権だったはず >>444
古墳時代まででこの傾向が確定するんだっけ
2世紀3世紀はどうだったのかしらんが、黥面文身文化が早々に機内から消えたりするところを見ると、2,3世紀にはすでに相当数の渡来系が入植してたのかもね
そして渡来人の技術で畿内は力をつけたと >>537
なので東南500里到
糸島市方面は間違い >>533
東大は白鳥庫吉始め中国史満洲史遊牧民史など
大陸の歴史学民族学考古学関係の学者が多かったからだよ
大陸視点ならまず九州になる しかしでたらめな記紀書いた連中も、自分たちが滅ぼした倭国について中国の記録に残ってるだろうなとは想像しなかったのかね?
後で絶対嘘がバレるよなw >>538
俺はいいと思うよ
仮に邪馬台国でなくともお偉いさんの墓だろ
ならばそっちを盛り上げればいい 「himiko」って書いたハンカチとか出れば一発だな >>542
呼子から糸島を見れば東南だぞ
地図があってもそうだし、地図がなくて糸島の山陰をみながら進めば、誰でも東南に進んだと感じる >>538
邪馬台国でもなくいいけど
繋がる何かがあればいいな。 >>533
「東大が九州説だなんて嘘つくな」と東大の先生が怒ってたのは割と有名な話 南シナ海から北上した海人族が成長して海商集団・海賊集団になり魏志倭人伝に書いてある国の名前になってるだけ
吉野ヶ里遺跡には海賊団の団長や航海の安全を祈るシャーマンの墓があるのは当然
巻向や出雲とかは朝鮮へ行った海人族別派の海賊団がChina負け組と一緒に来たと思ってる >>550
末盧国から東南に進めば、ちゃんと伊都国に到着する >>552
阿武山古墳みたくごろっと遺体が出てきたら面白かったのにな 邪馬台国の位置情報はこれだけで十分とも言える
低能の妄想なんかよりよっぽどマシ
太宰府に残された文献「翰苑」より
広志(史書編纂:晋の郭義恭)に記載された邪馬臺国
広志いわく、~東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国・・・(魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国とは福岡西区であり倭国の守衛国
又南至る邪馬臺国とは、
吉野ヶ里、朝倉、八女など有明海と取り巻く広範囲に存在した国々の総称です >>556
畿内説らしく、例によって根拠はないんだろ >>533
頭悪そうな文章なんで笑えたわ
ずーとwww >>533
纏向って、馬具が出てきたあの纏向のことか? そもそもなんで糸島が伊都国確定してんだ
常識的に考えればバツロとこれの位置が間違ってるから畿内説なんてのが未だ残ってんだろ >>566
末盧国(呼子)から東南に進めば伊都国(糸島)なんだよ 連合国の名称が邪馬台国だよな
そうじゃなかったら連合国の名称はなんなんってなる >>570
またくり返しか
日が暮れる
糸島に港はない
伊都国滞在ルール
以上3点に反論してから寝言はいえ そんな急に異国の者が船で畿内まで行けるだろうか
話が通ってないところにいきなり行ったら戦闘になるだろ?
九州民を同乗させても方言がきつくて言葉が通じないってことはないの? >>572
東に可也山がある
可也山より南だ
況してや地図はない
目視だ 帯方郡の端と思われるところから釜山までの直線距離は369キロ
朝鮮半島から対馬北部まで最短距離が51キロ
対馬南部から壱岐島北部まで最短距離が45キロ
壱岐島南部から唐津市市街地の海岸線
まで陸にぶつからないように行けば41キロ
唐津市市街地から糸島市の山に囲まれている場所の入り口まで25キロ
人によって多少の違いはでるだろうけどだいたいこんな感じ >>574
とっくに全国的な交易のネットワークが出来てるが >>573
又繰り返しか?
時間帯も書いていない。
博多湾から行けばいい
伊都国滞在だよ。糸島は一部だけの事。 >>444
完全に半島から入ってきたヤツラにやられてますな。
当時の元から日本にいたネイティブジャパニーズは >>578
博多湾まで一気に行くのは遠すぎるので無理
呼子で上陸した方が安全 >>532
何も報道もツイートもない
まだ土を書き出してるんじゃない?
夕方以降のニュースに期待かな? だからあ、ちゃんと史書を読んでミクロとマクロの視点をもっと使いこなせよ低能ども
113:新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで:2023/06/06(火) 10:30:40.48 ID:K0Sr14Dx0
魏志倭人伝は編纂状況を考慮し、整合性に注意しながら確率の高い補正をかけて読む
当時の位置関係
https://i.imgur.com/A8LglD7.png 倭国大乱あった時点で九州北部の話なのは馬鹿でも分かる分かるだろ
出土品から、弥生末期~古墳時代は九州が交易中心地だったことが分かってる
後は南へ水行数日ってのをどう捕らえるかだが、面白い考察がある
帯方から掛かった総日数と考えれば、まあ九州の妥当な範囲内におさまんだよ
まあこじ付けに近いわけだが、方角を90度変えるとかよりも妥当だろ
つまりバツロ~伊都国の位置がおかしいんだよ ものの本に、当時は潮の速い難所のある瀬戸内海より日本海を港に寄りながら航行する方が安全だったと書いてあってなるほどと思った この石棺まぁ騒ぎ過ぎだろう
印については面白いけど
もともと吉野ケ里の墓はほとんど甕棺墓で石棺はごく少数
べつにすごいから少ないんじゃなくて非主流
どちらかと言うと長崎とかに多い墓制
石棺の場所や様子からして1世紀以降の一般人だろうな >>583
天候や波に左右されない
食事も睡眠も十分に取れる >>574
最初に邪馬台国から帯方郡に使者が行く。
そして群の役人に伴われて魏の都に行き、皇帝に謁見し、金印目録や銅鏡などの下賜品の目録をもらう。
金印や下賜品現物は、おって帯方役人が現地に届ける。
という仕組み。
帯方郡の使者は、伊都国にまず来るのな。
郡使往來常所駐(伊都国には帯方郡の使者が往来し、常駐する場所である)
いきなりではなく、使者が来ることは邪馬台国でわかっている。
伊都国の常駐役人も知っている。 >>589
アスペには理解できないかもしれないけど
都市と都市の距離は100里単位で丸めてるだろ?
という事は1日移動すれば100里とか、何かしらの決まりごとがあるってわかるんだよ
なので、500里と書かれてるから500里だというのはアスペで確定な >>591
まずは呼子に行く
その後は徒歩なのか、沿岸をそって船で博多に行くのかは自由にすりゃいい >>584
(*゚∀゚)この図わかりやすい
これだな >>602
呼子のみか?
途中で大雨とかあれば土砂崩れもあるが? >>603
また魏志倭人伝無視して、末盧国には上陸しなかったとほざくのか? https://yobuko-machinami.jp/guide.html
古代より、海運は地域間の交流に大きな役割を果たしていました。佐賀県唐津市は邪馬台国論争で有名な『魏志倭人伝』に登場する末盧国にあたります。
奈良時代の地誌『肥前国風土記』には、大陸への出口を呼子港近くの「登望駅」としています。
天然の防波堤となる加部島に守られた呼子港は、大陸へのルート上の避難港として位置づけられていました。 >>586
普通に総日数だと思うよ
だって使者を往来させるなら距離より実際にかかる日数の方が重要じゃん
陳述が編纂するとき資料が混ざったんだろ >>605
基本、海岸線だ
海岸側に切り立った崖などない ちなみに倭国は30国、倭種の国々は70国もあるんだぞ?
狗奴国に襲われても倭種の国々が助けてもくれなかったから中国に支援を求めたわけで >>609
そう、末盧国に上陸して糸島にいった
なにか疑問でもあるのか?
陸行五百里を忘れるなよ >>615
(*゚∀゚)あぁなんという自然な流れだ。そらそうよそらそうよ >>616
500里って本当に1ミリの狂いもなく500里だと思ってるの?
なんで全部100里単位だと思う? 邪馬台国が九州だとワイが住んでる濃尾平野が狗奴国説からハズレるから認めない >>619
1mmとかは書いていない
500里しか書いていない。 >>613
シャーマンと書いてるのにジャーマンとはコレ如何に
ま、海賊団で大切な人は団長と祈るシャーマンですからねぇ 勝手な想像だけど邪馬台国よりも出雲国の方が規模が大きかったやろうな >>624
で、なんで100里単位ばかりなんだろうな? >>628
何で100里単位なんだろうな?
50里で刻んだ方が実際の距離に近いんじゃないのかな?
もっと言えば10里や1里のほうがいいはずだよな これがもし正しかったら東京大学説が正しかったってことか >>621
ヤマト王権と東海地域は敵対してないから無理 >>631
推測
100里ごとに方向確認したのかな? >>637
なら500里だと5回くらい方向を記述してないといけないので間違いだな 邪馬台国の時代の石棺墓はほぼ確定
丹が確定をしたら邪馬台国決定的
それでもフィクション畿内説論者は屁理屈三昧で毒を吐きまくるだろうけどね。 >>629
海と山の間に住んでる
だからどうした
土砂崩れするような場所には住まんよ
切り立った崖はないからな >>409
年代むちゃくちゃすぎやろ
畿内の漢鏡なんか古墳からしか見つからないのにどうやったら2世紀になるんだ? 結局さ、機内派は瓦解したとシテも、邪馬台国はおいそれとは佐賀にならないよ。
日本の中の最有力地、大分を調査してないからな >>409
あからさまにゴッドハンド、恥ずかしくないのかなw >>645
つまりお前の脳内では500里を一直線に進んだという事?
アホらしいwww >>617
呼子から糸島を歩きはないだろ
その間にマトモ道が在った可能性は極めて低い
道の維持には膨大なコストがかかる
放っておけば人の背丈を超える草で覆いつくされるのだから >>642
道が塞がりもあるけど?
実際、土砂崩れで亡くなって人もいるが? >>648
歩かないっていくら頑張っても、陸行五百里と書いてるんだよ >>647
一直線とか書いていないけど?
アスペ? >>648
呼子にも縄文時代の遺跡はあるので人は住んでるので道はあるはずだよ
そして当時から中国へのルートは呼子から壱岐へ船で行くのが一般的
理由は一番距離が近いから >>649
今の舗装された道路の感覚で語るなよ
浜辺でも歩ける >>568
伊都国が糸島であると確定する程の情報はまだないと思うけどな
個人的に博多区辺りが伊都国だった可能性もあると思ってるし
吉野が里が伊都国であったとしても不思議じゃない 里数は盛ってるのだから先行史料の里数を参考にしてきりのいいようにふってるだけでしょう あまり関連性がない遺跡でも、邪馬台国の名前出さないと盛り上がらないというのがしょうもねえ >>656
遺跡も出てるんだよ
洒落やヤマ勘で糸島に比定されてるわけじゃない >>654
今の舗装された道路の感覚とか書いていないけど? >>657
数字は盛っている
方角はおおむね正確
という読み方が正解だと思うわ >>660
方向転換してないなら直線って事じゃんwww そもそもだ京都の祇園祭りっていうのは 歴史をたどってみると朝鮮とモロ 関係のある祭りだからね >>662
道の塞がりがあったことを、古代の末盧国までいって確認してきたのか? >>666
頑張って博多上陸をでっちあげても無駄ということだ >>659
ニュースバリューが無いとマスコミも報じないからね…… >>664
なんで?くねくねだろう。
糸島に方面に曲がるまでにはいたらないと事 >>651
誤記載かそもそも場所が違うんだろ
>>653
古代社会は水路に沿ってクニは発展する
大きな街道整備が難しいので陸路では大量の交通を捌ききれない
道はあっただろうが、メイン街道にはなりえないでしょうね
呼子から糸島も船で行くのが一般的と言えるのでない? 前スレ
> 自分は政敵を殺害しておきながら
> 他人には和を以て尊しとなす
> なんというご都合主義
以和爲貴、無忤爲宗。(和らぐをもって貴しとし さからうること無きを宗とす)
後半理解できないマヌケがおおすぎる
相手を理解するまで徹底的に議論し打ち解けろつってんだよ >>671
伊都国の王都「三雲・井原遺跡」は、今や国史跡 >>661
伊都国って書いてたのか?w
確かに発展はしてただろうが、それだけで断定出来る根拠にはなりえないよ >>648
魏志倭人伝には呼子上陸の話と伊都国の浜に荷下ろしする話が書かれてる
倭人の丸木舟レベルの船なら浜に
魏人の船底の深い船なら呼子なのかもしれない >>670
つまり大雑把に言えばまっすぐ進んだってことだろ?
おかしな話だwww
百里ごとに方角を記述した事例もないのに、よくそこまで妄想が膨らませられるよなwww >>331
あのね白村江の前後で政権は変わってない。
蘇我氏(遣隋、親唐、親新羅)倭国派が日出ずる国(日本派)といった聖徳太子一族を葬り。それに対して中大兄皇子(国粋、親百済)日本派の反撃が大化の改新の背景。よって白村江の時代の主力はすでに日本だったので反唐で高揚し軍隊を派遣。その敗北で倭国派の巻き返しが起こり壬申の乱で倭国派の天武が政権をとり大和政権へ。
しかし、それでは民心がまとまらず飢饉も起こり大きな混乱の時代へ。藤原不比等(日本派)が復権し政権中枢へ進出。そういった中で日本書紀がまとめられる。その後天武系の血統が途絶え倭国派が崩壊し、中大兄皇子の直径男子が政権を次いでその子供の桓武天皇が京都で日本を確かなものにし確立。
つまりその時代の争いは政争であって地域対立ではない。 >>673
何を説明してほしいんだ?
お願いする態度次第で考えてやってもいいぞ >>671
中国への出発地なのでそれなりに道の整備はしてあったと思うよ >>668
今後も繰り返すからよろしくな。
アスペさん >>544
日本書紀に魏志倭人伝からの引用箇所があるよ。承知して編纂しとる。 >>681
ああ、またおちょくってやるよ
魏志倭人伝を読んで出直せとな >>676
>伊都国の浜
具体的にどの部分?
そんな記載はないはずだが >>544
倭国が亡ぼされたとどこに記述があるんだい? >>669
吉野ケ里の邪馬台国詐欺は30年前にもやってるというのに進歩がない。 >>679
いらないけどな。
アスペじゃない人の意見や考え方を聞けば済む >>686
畿内派は、三角縁神獣鏡が発見されるたびにそこを卑弥呼の墓だと喚く詐欺を戦後一貫してやり続けてるもんな
そっちも進歩がない >>683
どう意見だな。
またおちょくってやるよ
魏志倭人伝を読んで出直せ >>687
国の史跡をド素人が否定する
笑わせてくれるよなw >>690
否定してはいけないという
決まりはない。 >>684
國國有市、交易有無使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國。及郡使倭國、皆臨津捜露、傳送文書、賜遣之物詣女王、不得差錯。 >>682
日本書紀では注釈で卑弥呼は神功皇后だとしてるよな これがいま出たらどれだけマスコミとネットが騒ぐのか見てみたいね
日本の歴史上最大(直径46.5cm)弥生時代最多(40枚)の丸型銅鏡
剣、鏡、勾玉、三種の神器コンプリート
装飾品多数で女性なのは確実
周辺土壙墓に殉葬の跡あり
http://inoues.net/ruins/hiranew04.jpg
http://inoues.net/ruins/hiranew05.jpg マジレスすっと偏西風乗って福岡以東に降り立ったと見るのが正解
正直、関東以北な気がして来たわ
2か月は明らかにその辺りだろ
埼玉じゃねえか?マジで 顔料だけってなんだよ
骨とかミイラみたいなのはないのか? >>692
そこは勘違いかと
國國有市、交易有無使大倭監之の部分は伊都国じゃなくて交易を行ってる国々の話
伊都国に居る一大率はそれを統括して監視する立場
伊都国の浜の話はしてないでしょ >>699
シャベルでガンガン掘るわけにもいかんし少し時間がかかるんじゃないかな 日本史板の邪馬台国畿内説というスレでの結論もやはり九州説だそうです 中国のほぼ同時期の記録に倭国伝と日本国伝のふたつがあるってどういうことなん
実は別の国なのかね? >>700
「一大率」ではなく、「一つの大宰(おほ みこともち)」だな
後に大和朝廷が東国から防人を送るようになると、朝廷の機関として肥大化して大宰府になる この件に関して今までイキってた関西人が黙り込んじゃった >>676
呼子上陸なんて書いてない
それはお前の想像 >>713
マツラ国は呼子に上陸したんだろう
そのように読み取るといいよ 邪馬台国研究なんて古文書解析はとっくの昔に限界来てるのに
いまだに自論・妄想垂れ流してるヤツばかりでバカばっか
もう地道な発掘調査か新発見の古文書でもで出てこない限り分からない 九州にも小規模な部族は存在したんだろ
でも大和が誕生する前にはどこかの勢力によってか、あるいは、内部崩壊によってかは知らないが、滅んでしまった >>713
港の位置はそう変わるもんじゃ無い
有明海と大村湾の古代水運路をつなぐ船越
からちょっとお借りしてきた旧地名
https://i.imgur.com/OwkYwz9.png
地図の最上部に上陸地点が書いてある >>713
そうなんだよ。
末盧國しかない。
読み取る必要性もない。 魏志倭人伝を意訳すると
奴国と邪馬台国は非常に遠い
途中にある国はわかっているが長くなるので省略するがすべて邪馬台国の支配下にある
これで九州説は無理 卑弥呼以後の東遷説はよく聞くけど、卑弥呼以前の東遷もありえる?
・卑弥呼より前の時代に倭国(九州北部)が東遷説開始、倭国が2つ出来る
・その後に卑弥呼や台与は九州に登場
東遷の時期を早めることで卑弥呼たち以降を東遷と無関係とする感じの 九州は火山灰がすごい
火山噴火で何度も部族の消滅や離散を繰り返してたんだよ >>715
だからそれは想像で魏志倭人伝には書いてないたろという話 >>724
阿蘇とか雲仙あたりだよ。
福岡にいたから津波とか地震等だな。 >>725
いいや
マツラ国に上陸するのなら
昔からの玄関口である
登望駅があった呼子になるのは普通に考えられることだよ >>727
だからそれが魏志倭人伝に書かれているのかって話だ 隼人、大和、日向
縄文、弥生、古墳人
の常に3重構造
2重構造だと考えると読み間違える
相互に関係し合っているし
少なくともオレらは古墳人の末裔であって縄文、弥生の直接的子孫ではない、関係はあるが 末盧国:四千戸
伊都国:千戸
奴国:二万戸
不弥国:千戸
投馬国:二万戸
邪馬台国:七万戸
数値時代は別として、おおよそ国の大きさがわかるわけで
伊都国は半島の付け根の糸島市付近、不弥国は福津から宗像辺り、
奴国は福岡平野一帯で投馬国は釜山、邪馬台国はやっぱり
筑紫平野一帯ではないか 中国歴史書に登場、最初の日本人「帥升」 弥生時代の吉野ケ里の王か 邪馬台国論争に一石
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/1030781
>吉野ケ里遺跡周辺で発見されている首長墳墓は時代によって集落の位置が異なり、七田館長は「都市に当たる吉野ケ里を治めた王は周辺の有力な集落から選ばれ、役割を終えると出身集落に葬られた」と指摘する。 >>729
レス間違いだった
書かれていないけど
唐津もあるけど。古墳もある
菜畑遺跡とか。
お米が取れたかもしれん >>732
それしか書いてなくて
そこが呼子なのかどこなのかは書かれてはない >>736
普通に考えると呼子になるんよ
この場合の普通とは、歴史学や考古学を知っている人が考えた場合って事な >>739
唐津にはならんよ
呼子の方が壱岐から近いんだし
登望駅は呼子なのだから、そこに上陸したと考えるものだよ 卑弥呼って名前が出てこない限り特定できないらしいな 帥升は倭の面土国王
めたは
吉野ヶ里町吉田目達原、三養基郡米多郷など
邪馬台国論争に新説 目達原古墳群の再調査を
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/1048961 >>721
奴国は2回出てくるからよくわからない
1回目は邪馬台国の北で二万戸
2回目は女王国の境 これで飯食ってる学者が大勢いるので簡単に決着させないってよ >>746
海上の距離など測る方法がないので
朝鮮から対馬
対馬から壱岐
壱岐から呼子
全て千里にしている
理由は、海を渡るのは大変だから >>738
普通に考えたらということは魏志倭人伝には書いてないってことだなw >>748
マツラ国に上陸するなら呼子になるって事だよ >>435
そういうシステムは岡山から来ました。渡来人が戸籍?みたいのを作って使用人を管理してたんですね。
田畑や鉄の農具を貸し出して。それが蘇我氏です。 やまとことばには文字がなかったんで、
当て字にすると四露死苦みたいなヘンな字になるだけの話。
なのに、四露死苦の字を見ながら、死の苦しみがうんたらかんたらみたいな
バカな解釈をはじめちゃうのが懲りない人たち。
邪馬台国の卑弥呼の鬼道=やまとのひめのみことの祈祷
ごく自然に考えろ。自然に。 末盧国から山越えで南東の佐賀平野に行く道が当時あったか、かなり疑問
伊都国は普通に糸島と思う >>751
荷物が少ない時はそれでいいんじゃないか?
いつも荷物いっぱい持ってる設定でもなかろう >>748
マツラ国に上陸するなら呼子とは
限らないと思うけどな。 帥升
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%A5%E5%8D%87
>内藤湖南ははこれらの記事に注目し、『後漢書』の原本には「倭面土國王師升」とあったのではないか
>「倭面土」は「やまと」の中国式表記ではないか
>このほか、「倭面土」を「ヤマト(ワミャト)」と読む説
前に中国の発音に詳しい人いたよね? 倭面土は当時の中国でどう発音する? 東大は九州説なんだそうだ
なぜなら、
邪馬台国なんかが出来るずーと前に、神武東征が行われているのに、その後、畿内に邪馬台国など不敬罪
という大日本帝国の思想によるモノ
一方、京大は畿内説なんだそうだ
なぜなら、
九州には神武東征前の天孫と言われる一族、所謂、漢委奴国王がいて、邪馬台国など創れるわけが無いから
だそうだ
しかし、圧倒的な纒向遺跡が発掘されて
論拠の「邪馬台国なんかが出来るずーと前に、神武東征が行われている」が瓦解してしまい、東大も畿内説が正解だと薄々わかってる
今回も東大は、
発掘された墓は、神武東征前の天孫と言われる一族、所謂、漢委奴国王の関連と考えている >>755
だろー
なので呼子とは限らない
帰りの詰みにもある。 >>758
昔はそうなのかもしれないが
肝心の纏向遺跡が2020年に卑弥呼よりだいぶ後のものになってる >>760
いや
登望駅がある呼子に限るんだよ
唐津の船も呼子に立ち寄り、そこから出発するよ
何しろ壱岐に一番近いからね まだ蓋あかんの?
進展なさ過ぎてイライラしてきたわ
あんま引っ張ると飽きられるぞ
俺はサレンダー >>721
読み方がおかしい
傍にある国は遠すぎてよく分からないということ。
21ヶ国は九州内のどこかにあった。
どこにあったのか?
魏志倭人伝では、南にしか進んでいないので、傍の遠くにある国とは、九州の東西にある。
すなわち、全て大分とか長崎とか宮崎とか熊本の地名である。 >>762
詰み荷を考えると呼子なら遠すぎだよ。
呼子とは限らないだけの話。 >>765
唐津から船で呼子に行けばいいじゃん
徒歩か船かの違いなだけだ >>762
あくまで経由地でしょ、対馬海峡渡る時の
そりゃ立ち寄りくらいはするでしょ
壱岐島に近いのだから >>758
つまり畿内説は魏志倭人伝の記述全無視だと。
圧倒的な纏向遺跡(笑) >>762
君も書いてあるだろ。
>>751
荷物が少ない時はそれでいいんじゃないか?
いつも荷物いっぱい持ってる設定でもなかろう
とかね ちなみに、なぜ纒向遺跡が圧倒的なのかというと
発掘しても農耕具が殆ど出土せず、土木工事用の工具が圧倒的に多い事など、他の一般的な集落とは異なり生活感が全く無い「都市」「王都宮」だから
だそうだ >>754
国としての範囲が奴国(福岡平野)と邪馬台国(筑紫平野)は広いんだと思う。
で、糸島からは普通に太宰府あたりから久留米に抜けていく。ただ卑弥呼の
いた(あるいは墓の場所)はわからない >>767
そして、昔から呼子は大陸への玄関口として知られてたんだよ >>771
都市というか作業場?
確か唐古遺跡も作業場だって話だったよね。 >>774
昔から知られてたって
それなら志賀島で金印出てきてるからなあ
奴国時代は間違いなく博多湾が玄関口になってたろうに >>777
記述はないから
東南と北東に分かれてたのかな? >>778
上の方でも書いてるけど
https://yobuko-machinami.jp/guide.html
古代より、海運は地域間の交流に大きな役割を果たしていました。佐賀県唐津市は邪馬台国論争で有名な『魏志倭人伝』に登場する末盧国にあたります。
奈良時代の地誌『肥前国風土記』には、大陸への出口を呼子港近くの「登望駅」としています。
天然の防波堤となる加部島に守られた呼子港は、大陸へのルート上の避難港として位置づけられていました。
https://kotobank.jp/word/%E7%99%BB%E6%9C%9B%E9%A7%85-1379914
古代から中国大陸へ渡る船の寄航地として知られた呼子浦は,《肥前国風土記》に見える〈登望(とも)駅〉の地に比定されている。
このように
呼子は大陸への玄関口として知られている >>780
知られているけど呼子だけじゃないけどな。
それに魏志倭人伝の時代のだいぶ
後の文献だしな >>778
昔から知られてなんてなかった
秀吉も呼子から出兵してる
そもそも、奴国の中枢であっただろう博多に、そうやすやすと入り込まれてたまるか
たしか、百道あたりには元寇の上陸を防ぐため、逆に防塁を築いていたはず >>780
避難港ってことは普段は使ってないってことじゃ? >>782
古代よりって書かれてるわけで
縄文時代の遺跡もある
文献記録が無いのは日本全国同じ事だ
なのでそれは反論になってない あの大石、どうやって加工してどうやって運んだんだろう >>783
そうだよな
秀吉の時代だしね
後の話だ。 >>784
・古代から中国大陸へ渡る船の寄航地として知られた呼子浦は
なのだから
航海技術の発達の程度によってそこから出発したり
他の出発地からの寄港地になったりするという事だよ
何かしら呼子には寄るって事だ >>780
避難港って書いてるけど?
玄関口というより、対馬海峡越える為のベースキャンプみたいな感じじゃね?
そりゃ場所がら全ての船は立ち寄るだろうけど、荷卸しする場所か此処で? >>584
里数のときに投馬国のような大国の話が出てこなかったのがおかしい
帯方郡を起点にする根拠がない
言ってみれば帯方郡以外を起点にしてしも成り立ってしまう何でもありの説
榎一雄の伊都国を起点にする放射読ですら伊都国を起点にする根拠があったのに
さらに水行20日水行10日で九州にたどり着いたとしてもそこから陸行一か月もすれば狗奴国を通りすぎてしまう >>783
いや金印の話してんだけど
そっちには触れないで全く時代の違う話を一方的に話されても困るわ >>797
だからもともと魏志倭人伝の記述が帯方郡から始まってるわけよ >>771
纏向はイメージ戦略で盛りすぎだから基本嘘と思っていい
森浩一などは「マスコミ操作に長けているが学者として恥ずべき」と批判している
実際に現地で纏向の発掘を真面目にしてきた方々は九州説↓
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 >>792
いつの時代でもここで荷下ろしするとは言ってないんだがな
自分で言ってるみたいだけど風土記は邪馬台国よりもかなり新しいのだから
それだけ航海術も発達している
そんな時代に避難港となってたとしても
それよりも古い時代はここから出発してた方が多いとすぐに分かる 甕棺って中国から見ると異質では
中国の記述に、倭の風俗としてないの? >>795
まずは呼子に寄るって事だから
俺の主張は変わらないんだよ >>797
そんなときは邪馬台国を起点にするか、投馬国を起点にするかで考えればいい >>771
でもあなたに罪はない。騙してきた方が悪い ハイキングウォーキング呼んで早くキャンペーンしたもん勝ちだぞ! >>799
志賀島から金印が出ることと、水行にどんな関係があるんだ? テレビでニュース見たけど一般人ではないにしろそこまででかい権力者の墓ではなさそうに思った >>743
奴の中古音は nag
なかと読めないこともない
1つもは福岡県那珂郡で異論はないだろう
もうと1つは宮崎県の那珂郡だろうね
ここは三貴神の生誕の地の阿波岐原があったり、神武天皇が天下ったり、飛び地のように古墳が多かったりする
これほど地名と神話と史書と遺跡が合致してるなら逆になにもない方がおかしいだろう
https://syoki-kaimei.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_221/syoki-kaimei/Z304.E5898DE69C9FE5BE8CE69C9FE5898DE696B9E5BE8CE58686E5A2B3E58886E5B883.png >>802
荷卸ししないなら経由地でね?
まあどうでもいいけど 郭義恭が魏志倭人伝より前に書いた『廣志』を読めば邪馬台国が伊都国の南にあったことが分かる。
廣志曰 國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載次 斯馬國次巴百支國次伊邪國安 西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也
「広志曰く、倭国、東南に陸行すること五百里にして、伊都国に到る。又、南して邪馬嘉国に至る。女王国より以北は、其の戸数道里、略ほぼ載することを得べし。次に、斯馬国。次に巴百支国。次に伊邪国。案ずるに、倭の西南に海行すること一日に、伊邪分国有り。布帛無く、革を以て衣と為す。盖し伊耶国なり。」
↑
以上、邪馬台国は北部九州である >>812
卑弥呼らしいかも
共立王が独占とか、争いの元。
お花畑ではない方面でも考える 関東から九州・対馬までを支配下に置いた纒向邪馬台国が和歌山(狗奴国)に苦戦を強いられて魏に使者を送る
(´・ω・`)アリエヘン 三国志の時代に方角ミスったり、朝鮮半島からスタートするとかありえる?
アホすぎるやん 邪馬台国当時の中国の占星術って発達してた?
星見て方角がサクサク分かるほど? >>801
畿内説論者がこれに対してどう反応してるか知りたいな煽りとかじゃなくね >>822
外国行くとき、天体観測して方角確認って当時もやってたのかな >>815の続き
廣志から分かることはたくさんある。
廣志と魏志倭人伝の作りはよく似ている。
・東南陸行500里で伊都国が同じ
・邪馬嘉国の説明を終えると、女王国以北はその詳細を〜が全く同じ
・次に斯馬国が魏志倭人伝と同じ
すなわち、邪馬台国は伊都国の南に存在した。 >>795
榎一雄の放射説の亜流
結論ありきだから陸行一月で矛盾が出てくるんだよな どっちにしても方角か距離か少なくともどっちかは間違ってんだろ?魏志倭人伝 >>823
学者が何言ってるかなんて知らない
金儲けに無縁の学者だけ信じなさい >>827
まあ両方とも(戸数も含めて)適当だと思う >>827
水行は船で移動するという意味だけではなく
海岸沿いを行く、川筋に沿って移動するという意味
川を船で遡れない時は歩いて行くけどそれも水行
それを踏まえれば間違いは無 やっぱ太陽が昇る方角を東と考えてそこから方角割り出すとか? >>814
つまり、呼子を経由するのだから大陸への出発地は呼子という事になる >>817
敵が和歌山か鹿児島なら薩摩隼人ヤベーつって中国に支援を頼みそうではある
熊襲も強そうだし >>801
坂靖は前から九州説だよ
九州説の人に師事して頑なに変えてないんだよ 記紀の編年を妄信すると
邪馬台国も纏向も全部ヤマト王権の一部になっちゃうけど
実際にはほとんど関係ないんだろなw 大航海時代の経度問題見りゃわかるように
方位よりも距離の方がはるかに測定しづらいし
間違えやすいのよね 邪馬台国は九州にあって大和政権によって滅ぼされたのではないのですか >>838
畿内説の洗脳を受けてない人は、みんなそう考えます >>834
>>839
世界的に見て南方系の海人族は白兵戦が強い 牛馬はいなくて、人力でもらった物を担いで運ぶ場合、結構時間かかかったかもね
街道整備なんてあり得ない時代だし
細いくねくね道だった気がする >>825の続き
さらに、郭義恭の廣志から分かることがある。
廣志には、水行20日投馬国や、水行10日陸行一月で邪馬台国という日数表記が登場しない。
では、なぜ陳寿は、投馬国や水行陸行部分を加えたのか?
陳寿の目の前には、「南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸」の竹簡と、「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」があった。
不弥国までですでに10700里使ってる。
残り1300里しかない。
それなのに、この2つの竹簡が目の前にある。
困った陳寿は、この2つの竹簡を不弥国の後ろに付け加えた。
すなわち、陳寿自身どのように読むべきか分からなかった。
分からなかったので、間違えたつぎはぎをしてしまった。 中国の使節も歩いて移動?
それとも輿か何かに乗れたのだろうか >>733
東京と大阪の比ではないくらい邪馬台国が飛び抜けてますね 中国の使節が乗ってきた船ってどんな船だろう
日本に着いてから利用なし?
それともそれのって国内移動? 北部九州連合vs隼人熊襲連合なら明らかに北部九州のほうが弱そうではある >>835
他にもいるよ
関川 尚功
1971年(昭和46年)から奈良県立橿原考古学研究所の所員として奈良県桜井市の纒向遺跡の調査に携わった。石野博信とともに報告書『纒向』(1976年)を著したが、とくに外部から搬入された土器の分析と整理は関川がおこない、古墳時代の考古学的な研究において、きわめて重要で画期的な資料となった。
著者『考古学から見た邪馬台国大和説: 畿内ではありえぬ邪馬台国』
結論「邪馬台国の存在を大和地域に認めることは出来ない」 >>838
まぁ朝廷の元が九州で大和勢力乗っ取った東征は否定は出来ないが(神功皇后にしても九州だし)
明らかに九州の記述を畿内は無理あり過ぎ、万世一系のイデオロギー無しには成り立たん
というかそれを傘に白を黒と言わせる事で悦に入りたい奴しか主張してないだろ 山の道って結構細いよね
海沿いの道もそう広くはないはず
団体が重い荷物持ってぞろぞろ移動するのにどれくらい時間がかかるんだろう
まあ昔の人は今より健脚か >>844
間違えたというよりも文字数を稼ぐために意図的に情報を付け足したんだと思う
東夷伝序文には公孫氏が倒されたお陰で東夷のことがわかる様になったので判明したことを記すとあるのに陳寿は大昔の記述でもお構いなしに集めてきて盛り込みまくってる 誰一人として吉野ケ里の石棺の話しないでおれ邪馬台国論を叫んでるのが笑うw >>853
まあ、俺もどちらかと言えば盛ってる説を支持している。
戸数は盛ってるし、里数は100%盛ってる。
大月氏の記述と比較すれば分かる。
陽関(敦煌)→カーブルまで9283里(直線距離で約2300キロ)
1里は約247m。実際には直線には進めないので400mになると言われている。
他方、倭国の場合、
帯方郡→末盧國まで約700キロ、末盧國→大分県まで約130キロ。
不弥国を大分県と仮定しても、狗邪韓国→不弥国まで830キロ(1万700里)
倭国の1里は約77mになる。
里数を4倍以上も盛ってる >>823
ちなみに、九州説の東大が、なぜ纒向遺を圧倒的と言うのかというと
現在、纒向遺跡としている範囲は
北は烏田川、南は五味原川、東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区の範囲。
JR巻向駅を中心に東西約2km・南北約1.5kmに及び
その面積は3km2(300万m2)に達する。
なのに
発掘しても、発掘しても、土木工事用の工具は出るが
農耕具が殆ど出土しない
他の一般的な集落とは異なり農作業などする必要が無い人々の遺跡で
「都市」「王都宮」だから
だそうだ >>854
九州説派でも吉野ヶ里が女王国は無いというか
吉野ヶ里町が何年か前に「卑弥呼が居た可能性は低いが町おこしに活用する」みたいな事言ってんだもの >>857
そういう勢力が居たという証明にはなるけど
なんでそれが邪馬台国だという証明になるのか意味不明だよね
大きくて立派だから?w
アカデミズムでもなんでもないわな 確かに吉野ヶ里じゃ、農民が
「えっ、卑弥呼んち?、あー俺んちの隣だよ」
って話しになっちまう >>857
もう可哀想な纏向遺跡には触れないであげてw ちなみに、九州説の東大が、なぜ纒向遺を圧倒的で邪馬台国だろうと薄々思っているのかというと
現在、纒向遺跡としている範囲は
北は烏田川、南は五味原川、東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区の範囲。
JR巻向駅を中心に東西約2km・南北約1.5kmに及び
その面積は3km2(300万m2)に達する。
なのに
発掘しても、発掘しても、土木工事用の工具は出るが
農耕具が殆ど出土しない
他の一般的な集落とは異なり農作業などする必要が無い人々の遺跡で
「都市」「王都宮」だから
だそうだ
確かに吉野ヶ里じゃ、農民が
「えっ、親魏倭王の卑弥呼んち?、あー俺んちの隣だよ」
って話しになっちまう >>860
死亡年代が合う、畿内信者の中で同時期に複数の人間は死ねないらしい バカじゃねーの?
「卑彌呼之墓」の石碑でも出てこない限り邪馬台国の特定は出来ませんからw >>857
纏向遺跡は異次元の遺跡なのか 知らなかった >>863
纏向遺跡が邪馬台国なんて誰も思ってないよ
君以外 >>844
中国側の使者が帯方郡を出発して伊都国まで来た
女王国は伊都国の南で、帯方郡からの距離はトータル12000里
帯方郡から12000里の行程が水行10日陸行1月
書いてることそのまま読むだけで何も矛盾がない >>865
ホンモノの卑弥呼の墓には、「卑彌呼之墓」なんて絶対に書いてない >>195
日本書紀が混乱の元になってると思うわ
皇室辺りが本当のところ書いたもんを代々保存してたりしないのかね >>857
城柵がなく、魏志倭人伝の記述と一致しない
倭国大乱の跡も全くない
狗奴国と争った跡も皆無
まさに、巻向が邪馬台国ではあり得ない理由 >>868
伊都国までで10500里だがら残りは1500里だよ >>860
邪馬台国の定義が願望だからね。
威信材豊富とか、立派な建物が立ち並び
とか、先端をいくとか?
お花畑だからね。
邪馬台国て開拓地や復興地
霊場とか修験地だろうな。 >>870
記紀は今更どうしようもないけど
宮内庁が天皇陵発掘を許可したら、色々とひっくり返るとおもうよ
だから決して許可しないけど 狗奴国が邪馬台国連合を撃破、
東征して長脛彦の纒向国を倒して西日本を平定、その後橿原に都を置く
まぁこれだと年代が合わないから無理だなw、仮に邪馬台国が東征したとしても
やはり邪馬台国連合とは別に畿内に出雲、吉備を従えた政権があったと思われる >>869
書いてあれば、学者達が戸惑うだろうな これはフェイクだと まあここまでのスレで参考にしてもいいかなと思ったのは
投馬国が狗邪韓国にあると比定してることだな >>857
元々纏向は大市と呼ばれていたんだから、デカイ市場だよ
搬入土器も千点程が出てる
残りの未発掘8割からも出てくるだろうし、下手したら1万点の搬入土器とかになりかねない
それとは別に畿内の土器も出てる
ちゃんと出てきてる発掘調査を調べたら、圧倒的な遺跡だと考えても当たり前 >>877
そもそも、卑彌呼と刻んだ線を見て、自分とこととは夢にも思わないだろう >>866
俺も今日の「昼おび」で、東大のおもろい教授が
東大は九州説
京大は畿内説
しかし、纒向遺跡があまりにも圧倒的で
東大も薄々畿内だろうと思い始めてる
と言ってるまで知らなかった >>868
「帯方郡から水行十日陸行一月で邪馬台国」と書かれた竹簡は実際存在したかもしれない。
が、魏志倭人伝にはそういう記述は出てこない。
その竹簡が存在し、かつそれを魏志倭人伝に加えていれば、邪馬台国論争は起こらなかっただろう。
すなわち、九州説で盤石だった。 >>875
魏から銘文の彫られた鉄剣でも貰ってたら、名前と被葬者の確率は上がる
硯が出てるんだから、木簡に文字が書かれてる可能性だってあるさ
想像するだけならいろんなケースが考えられる >>879
広いけど
他国を支配とかはないと思うけど?
経済基盤が弱いよ。もうちょっと後の話では? 皇居が遺跡になったとしても纏向遺跡の広さには及ばないのか 九州説の東大がなぜ邪馬台国論争から撤退したかというと
史書の解読だけで邪馬台国の特定するのは限界があり考古学を取り入れたところで九州には邪馬台国かもしれないという遺跡が一切出てこないから
東大が撤退したことにより九州説の学者は激減して邪馬台国論争も一応決着がついた(新たに有力な遺跡が九州で見つかれば論争は再燃する) >>386
>>394
デマじゃないだろ
ソースもあるじゃん
クリックしろよ >>882
圧倒的だから邪馬台国って
およそ学者とは思えない発想だよね 邪馬台国はどうでもよくて、纏向遺跡に興味が移りました スレを読んでよかった >>394
されてるに決まってるじゃんw
世界中の人が調べてる >>885
古代史は判明すればするほど多元王朝説が現実味を帯びていってルーツは不鮮明になっていく気がしなくもない >>888
今の九州説の学者は畿内説にケチをつけるだけで九州説の補強はできてないからな >>434
慎重に泥を削らんと遺物が破損しちゃうんだぜ? >>886
支配って具体的にどんな意味なのか?
経済基盤って意味なら、交易の中継ぎで儲かったと思うけどね >>896
畿内説が圧倒的高!という布教活動には、なぜか絶対に情報ソースは出てこない
まるでカルト宗教 >>882
毎日TBSは昔から畿内派だから、その御用学者だ
ひるおびw >>903
足してるよ
足して1万2千「余」里だから >>897
抑、今の日本語って日本語なのか??
違くね?みたいなツッコミを 畿内説はまだスタートラインにも立ってませんでした
論争に入る為の下地が成立していませんから
畿内説の主張は韓国式霊感商法詐欺
①箸墓古墳の年代は卑弥呼の墓にピッタリなのだ!
実際には周濠から出土した土器の炭化した付着物の年代測定であり、古墳の年代ではありません。
同じ周濠から4世紀の土器や馬具も出土していますし。
②纒向の大型建物は卑弥呼の宮殿なのだ!
これも建物とは無関係な遺構で発見された桃の種の年代をもとにしており、関連性も確認できません。
そもそも建物自体も魏志倭人伝に描かれた宮殿の様相とはまるで仕様が違います。 >>902
地上波と衛星波でTBSって間逆なのか? >>867
九州説信者とかアンチ畿内説のソースが個人ブログだとかトンデモ本だというのがわかるレスだね
大多数の考古学者の見解と正反対のことばかり >>904
対馬400里四方、壱岐300里四方だから、700里足さないと 石棺内に大量の土砂が堆積しても人骨は残存するんかな >>905
促音化してないし。
明らかにウラル語系民族と交流して現代日本語になった。
ウラル語系だろう >>909
島見物は滞在中でいいだろ
港を出たら、次の港を目指さなくちゃな 考古学的研究も発掘場所が増え、出土品が増えるに連れて
逆に訳わかめ状態になってると
定型化やカテゴライズが研究の態様だから、はみ出すと対応できない
牽強付会に自説を語るのみ とにかく邪馬台国を卑下したい
ただし畿内にあることにしたい
お気づきだろうか?この朝鮮人特有の思考回路 >>233
海岸線を1時間歩けば余裕で着くような所に一日掛けてる土佐には流石に参考文献には使えない >>888
白鳥庫吉や内藤湖南の時代から文献資料の研究はし尽くされて埒が明かない状態だったしな
その後のアマチュアの邪馬台国論争なんて学問の世界ではとうに通り越したものでしかない 畿内説だと3世紀半ばまでは畿内から九州に至る大連合国が存在したことになり
3世紀後半か4世紀初めには畿内で勢力を確立したと思われる大和朝廷との関係を説明しなくちゃならなくなるような だってレンホウ(こんにちは)
いうんでしょ?😂🙊🤣 >>905
上海は新羅領土だった可能性あるんじゃないの? 九州説が畿内説に言ってくる事はすでに解決済みがほとんどなんだけど
それを見なかった事にして延々と悪意を持ってくり返して
まるでいまだに論争が続いてるかのように周りに印象付けようというのが九州説の手口
史学や考古学ではとっくに邪馬台国は大和国で確定済み >>916
天候無視して毎日同じ距離を移動するわけでもあるまいに >>918
纏向遺跡も
考古学的には埒があいてないですが。
邪馬台国につながる発掘品は皆無なので。
むしろそれを否定する馬具とかが出てくる始末w >>922
史学や考古学では、邪馬台国の場所jは分からないというのが定説だよ
大和国にあったとか言ってるのは学者ではない >>919
おじいちゃん、知識が古いよ
今の高校生はヤマト政権の成立を3世紀中頃か後半と習ってるんだよ >>919
伊都国は一大卒に支配されてたとあるし
邪馬台国は大和国で何の問題もなし >>926
その根拠はなんなんだろね
決定的な考古学的発見でもあったのかな
聞いたことないけど >>922
史学(文献)から畿内を示す文章は一字もない
考古学からわかったことは畿内に邪馬台国の痕跡はなかった
もう諦めろよw >>921
ヤバすぎでしょ?
無かったことにw
だって公式記録でも中央アジアの商人が自治してたことになってるんでしょ?海岸線 邪馬台国は畿内
吉野ヶ里遺跡は町おこし
仲良くしな >>919
卑弥呼の100年後に富雄丸山古墳を作った奴らがいるんだぜ?
いきなりやって、いきなり日本最大の円墳を創り出したのか?
ヨッポドの墓マニアなんだな >>925
これも九州説の嘘または印象操作
学者は畿内説一色で九州説の学者は絶滅状態 >>924
それでも他と比べたら有力なのだろう
九州に学者を引き戻したいなら自分でもっと有力な遺跡を見つけてくればいい >>908
大多数の考古学者が畿内派とかいう無根拠なデマにすがるしかないんだよな >>933
前方後円墳体制のど真ん中に体制に真っ向から歯向かうデカい勢力が! 畿内つうか纏向遺跡からは、魏志倭人伝に書かれた
鉄器がでない
絹製品が出ない
何故か書かれていない馬具は出るw 天候とか不確定要素が混ざってる土佐日記では距離は測れないよな >>934
まともな史料が魏志倭人伝しかない邪馬台国の事をまともに研究できないのは常識なんだよ
本来はほかの文献と比較していくものだ
だが他の文献がない
そんな事すら知らないのに畿内説を唱えてるのは学者じゃないんだよ 破綻した畿内説論者の叫びは、、、気持ちいいね。
散々、ゴッドハンドをして歴史をねじ曲げたその罪に怯えて眠れ。 まあ畿内説はあり得ないけど
北九州の城野遺跡は気になる
あの朱塗りの子供用石棺はすごいわ
邪馬台国配下の国だよね >>941
史料に書いてる事と考古学の一致で邪馬台国は大和国 >>936
九州は少なくとも魏志倭人伝と整合性がとれる
考古学的にも3世紀の遺跡がたくさんあり、倭人伝の記述とも整合性がとれている >>948
そんなこと言ってるから学者じゃないんだよ >>936
もう都合のいい事柄しか見えない現状じゃん
馬具が出た?アーアー聞こえない!
そんなんでまともな思考してると自分で思ってる? >>937
国立歴史民俗博物館
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c >>946
4世紀始めに馬はないな
応神天皇の時代に導入されたから後半か5世紀前半ごろが妥当 >>948
その畿内説の考古学的根拠とやらを
一つでもいいから出してみろやw 箸墓って邪馬台国にしたいから無理やり3世紀の古墳にした感があるよな。畿内説はいつも強引 実は🇧🇬ブルガリアも近いみたいなんだよな。
遺伝子見ると。 >>949
魏志倭人伝と整合性が取れてちゃ邪馬台国じゃないよ
魏志倭人伝には邪馬台国までの道のりなんて書いてないんだから
書いてるのは会稽東冶の東という仮想の倭の極南界までの道のり >>955
そもそも応神天皇って実在が証明されてるの?
根拠は? 大和朝廷は朝鮮だろう。邪馬台国はシナであり、そもそもが別物なんだよね
幻の邪馬台国が売れたからお金になると踏んで大和朝廷と邪馬台国をイコールにしようとしてるんだろうw >>956
もう何度も出てるからね
過去ログでも見て来な >>685
日本の歴史書なんだから記紀で倭国の存在書かないとおかしいでしょ?でも何も書いてなくて存在すらしなかった
事になってるのはおかしい。中国の歴史書では倭国はいろいろ書かれてるのに。 >>952
任那が滅んでヴォルガブルガールになったのか?? 邪馬台国が畿内であると仮定した場合、倭王卑弥呼=天皇である。
ところが、記紀には卑弥呼は登場しない。
日本書紀によると、最初の女帝は推古天皇であるという。
つまり、遅くとも2世紀後半から日本書紀を書き始める8世紀まで連続した王朝でありながら、卑弥呼の伝承は全く残っていなかったことになる >>960
応神天皇の曾孫の都紀女加王墓が吉野ヶ里にあるね >>934
消去法で畿内説が大多数となっているだけで畿内にあったとは断定できる状態ではない >>964
何度言っても理解しない九州説に
わざわざ出してやるのも時間の無駄だし
せいぜい邪馬台国は九州にあったと周りを騙せてると思い込んで自分を慰めてたら >>971
天皇陵や皇室陵って
発掘調査すら出来ないのに
なんで被葬者を断定してるの? >>874
これ言うやつよくいるけど何が出たらひっくり返るのかわからん
歴史書なんか入れないだろうし 倭国大乱を経て、2世紀前半には瀬戸内近畿連合が日本の主導的役割を担うってのが学会におけるおおむねの合意だけど、邪馬台国マニアにとって学会は左翼の陰謀扱いなんだよな >>975
それが応神天皇の墓だとする
考古学的根拠は? >>970
推古天皇と摂政の聖徳太子がおkなら卑弥呼と摂政の誰かで良いだろうにな 石棺墓の赤が丹だと確認をされたらほぼ決まるんだよ。
畿内説論者、、、残念無能w >>977
副葬品見れば色んな事が分かるんだよ
ヤマト王権とは別の文化圏のものが出て来たりなw 魏志倭人伝には、邪馬台国にはカササギはいないと書かれている
佐賀県にはカササギがいる 故に邪馬台国は佐賀県ではない >>979
なら逆に何があったら応神天皇が実在したと断定できると思う? >>973
ちゃんと答えろよw
906:新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで:2023/06/06(火) 17:19:29.59 ID:K0Sr14Dx0
畿内説はまだスタートラインにも立ってませんでした
論争に入る為の下地が成立していませんから
畿内説の主張は韓国式霊感商法詐欺
①箸墓古墳の年代は卑弥呼の墓にピッタリなのだ!
実際には周濠から出土した土器の炭化した付着物の年代測定であり、古墳の年代ではありません。
同じ周濠から4世紀の土器や馬具も出土していますし。
②纒向の大型建物は卑弥呼の宮殿なのだ!
これも建物とは無関係な遺構で発見された桃の種の年代をもとにしており、関連性も確認できません。
そもそも建物自体も魏志倭人伝に描かれた宮殿の様相とはまるで仕様が違います。 気付いてる人は気付いてるし継体天皇以前の実在性とか公に突っ込まれてるし
何が出てもやっぱそうだよねくらいの反応な気がする >>983
魏志倭人伝には、邪馬台国には馬はいないと書かれている
箸墓からは馬具が出てきた
故に邪馬台国は纏向ではない
みたいな感じ? >>983
釣り針がでか過ぎw
奈良に馬がいまくりやんw >>985
論争が続いてる体でいるのは九州説だけだけだからね
史学や考古学ではとっくに九州説は空気 圧倒的だから邪馬台国って理屈が分からない
戦乱に塗れて狗奴国に苦戦してるんじゃないの? 水行が古代中国の言葉だと船で行くって意味じゃないって説をyoutubeで見たぞ >>984
副葬品の文字とか碑文だろ
中国ではよく出てるし >>990
だから学者ちゃんと回答しないから霊感商法詐欺って言われてるんだろ?
真面目に答えろよ >>981
魏志倭人伝では倭地に丹があるってだけだから決まらねーよ 世界中の学者で邪馬台国を畿内と言っているのは日本の学者だけw
世界的に邪馬台国は九州とされている >>981
水銀朱の成分分析しないと分かりません、
国産かも知れないし、大陸産かも知れない、
国産の場合、九州産か、紀伊半島か、四国産か、などなど、検討すべき項目が増えます。 >>993
果たしてそれが本当に本人特定に繋がるのか?
何らかの事情があって改葬があったりするのでは? このスレッドは1000を超えました。
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