https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20190125-OYT8T50003.html
領土交渉のカギ「第二次大戦の結果」とは
北方領土をめぐる日本とロシアの交渉から目が離せない日々が続いている。安倍首相とプーチン大統領の首脳会談は1月22日の会談で通算25回にのぼり、
早ければ6月に大筋合意を目指すというが、領土交渉の先行きは厳しいとの指摘も多い。
ロシア側はここにきて強硬な姿勢を示している。ラブロフ外相は平和条約締結の前提のひとつに「日本が第二次世界大戦の結果を受け入れること」をあげた。
旧ソ連が北方4島を獲得し、領土であることをまず認めよ、ということだろう。
だが、ソ連の最高指導者だったヨシフ・スターリン(1878〜1953)が最初に目指した「第二次世界大戦の結果」は、北方4島ではなく、北海道の北半分だった。
南樺太と千島列島でソ連軍と対峙たいじした第5方面軍司令官、樋口季一郎(1888〜1970)中将の決断がなければ、スターリンの北海道占領の野望は
実現していた可能性が高い。
「断乎反撃、撃滅すべし」樋口司令官の決断
1945年(昭和20年)8月9日未明、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻する。11日には南樺太でもソ連軍が日本領への攻撃を始めた。
スターリンはこの半年前に開かれたヤルタ会談でフランクリン・ルーズベルト米大統領(1882〜1945)、チャーチル英首相(1874〜1965)と秘密協定を結び、
日本に参戦する見返りとして南樺太とすべての千島列島を得る了承を得ていた。
14日、日本はポツダム宣言の受諾を決め、15日に終戦の詔書が出される。第5方面軍司令官だった樋口は16日、心を平静にし、軽挙妄動を慎んで
規律を乱さぬよう訓示している。大本営は同じ日、全部隊に「やむを得ない自衛行動を除き、戦闘を中止せよ。18日午後4時までに徹底するように」との命令を出した。
ところが、南樺太のソ連軍は戦いをやめず、さらに18日には千島列島でも占領作戦を開始する。千島列島北端の占守島しゅむしゅとうに上陸し、
戦車の砲門を外すなどして武装解除を進めていた日本軍を攻撃したのだ。
大本営の命令に従えば、18日の午後4時には完全に戦闘をやめなければならない。だが、それまでの自衛戦争は許されていた。樋口は大本営にはお伺いを立てず、
独断で島を守っていた第91師団の堤不夾貴師団長に「断乎反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と命じた。
樋口の『遺稿集』には、「すでに終戦の詔書が下り、私(樋口)には完全なる統帥権が無かった。しかし、自衛権の発動に関し堤師団長に要求したところ、彼等は勇敢にこの自衛戦闘を闘った」
との記述がある。濃霧で上陸に手間取っていたソ連軍を、砲火を波打ち際に集中してたたく作戦が奏功して、ソ連軍は大損害を被った。
だが、日本軍が戦闘停止期限の午後4時に攻撃の手を緩めたことで、ソ連軍は形勢を挽回する。現地の日本軍は18日午後4時でソ連側も戦いをやめると
思っていたが、大本営は戦闘停止について連合国軍と何ら合意しておらず、停戦期限は「命令を出してから2日もあれば全部隊に伝わるだろう」というだけのものだった。
双方の記録では、日本軍が600〜1000人、ソ連軍が1567〜3000人の死傷者を出す激戦が続いた。日本軍は終始優勢を保つが、最後は停戦協定によって武装解除に応じる。
降伏した日本兵は全員、シベリアに抑留され、多くの人が命を落とした。樋口は「勝者が敗者に武装解除されたのは何とも残念」と無念の思いを吐露している。
北海道をめぐる米ソの駆け引き
ソ連は1940年(昭和15年)の日ソ中立条約の締結交渉で、すでに樺太と千島列島を「回復すべき失地」と主張していたという(中山隆志『一九四五年夏 最後の日ソ戦』)。
だが、8月15日の時点でヤルタ協定で得た領土の占領は終わっていなかった。
スターリンは是が非でも、日本が降伏文書に署名する前に占領を終え、既成事実にしたかった。18日、マッカーサー連合国軍最高司令官(1880〜1964)は日本の要請を受けて
ソ連軍に戦闘中止を求めるが、スターリンの命令を受けていたソ連軍は要請を無視した。樋口はスターリンの野望を見抜き、独断で自衛戦争を指示したのだろう。
領土交渉のカギ「第二次大戦の結果」とは
北方領土をめぐる日本とロシアの交渉から目が離せない日々が続いている。安倍首相とプーチン大統領の首脳会談は1月22日の会談で通算25回にのぼり、
早ければ6月に大筋合意を目指すというが、領土交渉の先行きは厳しいとの指摘も多い。
ロシア側はここにきて強硬な姿勢を示している。ラブロフ外相は平和条約締結の前提のひとつに「日本が第二次世界大戦の結果を受け入れること」をあげた。
旧ソ連が北方4島を獲得し、領土であることをまず認めよ、ということだろう。
だが、ソ連の最高指導者だったヨシフ・スターリン(1878〜1953)が最初に目指した「第二次世界大戦の結果」は、北方4島ではなく、北海道の北半分だった。
南樺太と千島列島でソ連軍と対峙たいじした第5方面軍司令官、樋口季一郎(1888〜1970)中将の決断がなければ、スターリンの北海道占領の野望は
実現していた可能性が高い。
「断乎反撃、撃滅すべし」樋口司令官の決断
1945年(昭和20年)8月9日未明、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻する。11日には南樺太でもソ連軍が日本領への攻撃を始めた。
スターリンはこの半年前に開かれたヤルタ会談でフランクリン・ルーズベルト米大統領(1882〜1945)、チャーチル英首相(1874〜1965)と秘密協定を結び、
日本に参戦する見返りとして南樺太とすべての千島列島を得る了承を得ていた。
14日、日本はポツダム宣言の受諾を決め、15日に終戦の詔書が出される。第5方面軍司令官だった樋口は16日、心を平静にし、軽挙妄動を慎んで
規律を乱さぬよう訓示している。大本営は同じ日、全部隊に「やむを得ない自衛行動を除き、戦闘を中止せよ。18日午後4時までに徹底するように」との命令を出した。
ところが、南樺太のソ連軍は戦いをやめず、さらに18日には千島列島でも占領作戦を開始する。千島列島北端の占守島しゅむしゅとうに上陸し、
戦車の砲門を外すなどして武装解除を進めていた日本軍を攻撃したのだ。
大本営の命令に従えば、18日の午後4時には完全に戦闘をやめなければならない。だが、それまでの自衛戦争は許されていた。樋口は大本営にはお伺いを立てず、
独断で島を守っていた第91師団の堤不夾貴師団長に「断乎反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と命じた。
樋口の『遺稿集』には、「すでに終戦の詔書が下り、私(樋口)には完全なる統帥権が無かった。しかし、自衛権の発動に関し堤師団長に要求したところ、彼等は勇敢にこの自衛戦闘を闘った」
との記述がある。濃霧で上陸に手間取っていたソ連軍を、砲火を波打ち際に集中してたたく作戦が奏功して、ソ連軍は大損害を被った。
だが、日本軍が戦闘停止期限の午後4時に攻撃の手を緩めたことで、ソ連軍は形勢を挽回する。現地の日本軍は18日午後4時でソ連側も戦いをやめると
思っていたが、大本営は戦闘停止について連合国軍と何ら合意しておらず、停戦期限は「命令を出してから2日もあれば全部隊に伝わるだろう」というだけのものだった。
双方の記録では、日本軍が600〜1000人、ソ連軍が1567〜3000人の死傷者を出す激戦が続いた。日本軍は終始優勢を保つが、最後は停戦協定によって武装解除に応じる。
降伏した日本兵は全員、シベリアに抑留され、多くの人が命を落とした。樋口は「勝者が敗者に武装解除されたのは何とも残念」と無念の思いを吐露している。
北海道をめぐる米ソの駆け引き
ソ連は1940年(昭和15年)の日ソ中立条約の締結交渉で、すでに樺太と千島列島を「回復すべき失地」と主張していたという(中山隆志『一九四五年夏 最後の日ソ戦』)。
だが、8月15日の時点でヤルタ協定で得た領土の占領は終わっていなかった。
スターリンは是が非でも、日本が降伏文書に署名する前に占領を終え、既成事実にしたかった。18日、マッカーサー連合国軍最高司令官(1880〜1964)は日本の要請を受けて
ソ連軍に戦闘中止を求めるが、スターリンの命令を受けていたソ連軍は要請を無視した。樋口はスターリンの野望を見抜き、独断で自衛戦争を指示したのだろう。