師走の歓楽街・中洲(福岡市博多区)。一番の書き入れ時を迎え、スナックやクラブは連日、酔客でにぎわっている。この華やかなネオン街から来年初め、静かに出て行く人たちがいる。
中洲の横町、人形小路で営業するクラブ「シオンの娘」は30日、建物の老朽化を機に店を畳み、38年の歴史に幕を下ろす。赤いじゅうたんが敷き詰められた店内には馬てい形のカウンター席があり、ショータイムにはホステスがフラメンコやピアノ独演、歌謡ショー、剣舞を次々と披露する。閉店を知った常連客が引きも切らない。
店で働くホステスの多くは約40年前、社会の関心を集めた騒動の渦中にいた。
1970年代後半、東京で聖書の研究をしながら共同生活を送る信仰集団が大きな社会問題になった。家出同然で入会していた複数の若い女性の親が「娘を返せ」と迫り、メンバーは約2年間、西日本各地を漂流しながら逃避行を送った。メディアが「現代の神隠し」と騒ぎ立て、主宰する男性を「娘をかどわかすペテン師」などと糾弾した「イエスの方舟(はこぶね)」騒動。
ホステスはそのメンバーだった。
× ×
千石剛賢(たけよし)さん(故人)が主宰した「イエスの方舟」は、共同生活を送りつつ聖書を研究する信仰集団だった。親子関係などさまざまな事情で加わる若い女性が増え、その親とトラブルになった。
騒動が起きた1970年代は、核家族、単身赴任、ご近所関係の希薄化など、伝統的な家族のあり方が問われた時代でもあった。世間は「方舟」を、家族崩壊を助長する集団と見なし、糾弾した。会員から「おっちゃん」と慕われた千石さんは「家に戻されるぐらいなら自殺する」と懇願する女性をかばい、守ろうとした。
逃避行から2年が経過した80年夏。女性たちがメディアの前に登場し、自らの意志で「方舟」に参加していると表明。騒動は収束した。
当時からのメンバー、井上安子さんは「価値観の違う親と私の問題が大騒動になって。おっちゃんのおかげで今の幸せな人生がある」という。
騒動の当時、メディアから「ハーレム教団の教祖」とまで言われた千石氏だったが、実相は全く違ったという。いち早く方舟の真相をスクープしたサンデー毎日の元記者、瀬下恵介さん(81)=東京=は「千石さんから直接話を聞き、熱い信念を感じた。メンバーの誰もが信頼している様子だった」と振り返る。
人生を共にした妻のまさ子さん(87)は「おっちゃんは『汝(なんじ)の隣人を汝自身のごとく愛すべし』を実践し、来る人を抱き込む包容力があった」と語る。ある親から暴走族の息子の相談を受けた時は自らバイクを購入して、その息子とツーリングに出かけて諭した。見返りはなく「その人が幸せになればいい」が口癖だった。
◇ ◇
福岡に流れ着いたメンバーは就職を模索したが、世間の目は冷ややかだった。集団生活の糧を得るためには、「水商売しかなかった」(古参のメンバー)。支援者の協力を得て81年11月に「シオンの娘」を博多区・中洲に開業した。
多くは水割りの作り方さえ知らない素人。千石さんは「やるなら日本一の店にしなさい」と励ました。女性たちは酒の作り方や接客マナーを必死に学び、「楽しませる工夫」としてショーを取り入れるなどした。
「家出娘の店」「入ったら洗脳される」と陰口をたたく人もいたが、話題性もあり、繁盛店になった。大企業の経営者や大物歌手、映画監督らも来店した。
営業スタイルは他と違う。ホステスは同伴や飲酒をしない。客はみな平等がモットー。国民的人気力士が食事に誘ったが誰も行かなかった。
バブル崩壊、リーマン・ショック…。浮き沈みが激しい歓楽街で、飲酒も同伴もしないホステスのクラブがなぜ、長く営業できたのか。30年以上通う会社経営の男性(74)は「聖書を勉強しているからか、会話に愛がある。他の店にない和みがあった」。
全文はソース元で
2019/12/25 20:22 西日本新聞
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/571308/
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中洲の横町、人形小路で営業するクラブ「シオンの娘」は30日、建物の老朽化を機に店を畳み、38年の歴史に幕を下ろす。赤いじゅうたんが敷き詰められた店内には馬てい形のカウンター席があり、ショータイムにはホステスがフラメンコやピアノ独演、歌謡ショー、剣舞を次々と披露する。閉店を知った常連客が引きも切らない。
店で働くホステスの多くは約40年前、社会の関心を集めた騒動の渦中にいた。
1970年代後半、東京で聖書の研究をしながら共同生活を送る信仰集団が大きな社会問題になった。家出同然で入会していた複数の若い女性の親が「娘を返せ」と迫り、メンバーは約2年間、西日本各地を漂流しながら逃避行を送った。メディアが「現代の神隠し」と騒ぎ立て、主宰する男性を「娘をかどわかすペテン師」などと糾弾した「イエスの方舟(はこぶね)」騒動。
ホステスはそのメンバーだった。
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千石剛賢(たけよし)さん(故人)が主宰した「イエスの方舟」は、共同生活を送りつつ聖書を研究する信仰集団だった。親子関係などさまざまな事情で加わる若い女性が増え、その親とトラブルになった。
騒動が起きた1970年代は、核家族、単身赴任、ご近所関係の希薄化など、伝統的な家族のあり方が問われた時代でもあった。世間は「方舟」を、家族崩壊を助長する集団と見なし、糾弾した。会員から「おっちゃん」と慕われた千石さんは「家に戻されるぐらいなら自殺する」と懇願する女性をかばい、守ろうとした。
逃避行から2年が経過した80年夏。女性たちがメディアの前に登場し、自らの意志で「方舟」に参加していると表明。騒動は収束した。
当時からのメンバー、井上安子さんは「価値観の違う親と私の問題が大騒動になって。おっちゃんのおかげで今の幸せな人生がある」という。
騒動の当時、メディアから「ハーレム教団の教祖」とまで言われた千石氏だったが、実相は全く違ったという。いち早く方舟の真相をスクープしたサンデー毎日の元記者、瀬下恵介さん(81)=東京=は「千石さんから直接話を聞き、熱い信念を感じた。メンバーの誰もが信頼している様子だった」と振り返る。
人生を共にした妻のまさ子さん(87)は「おっちゃんは『汝(なんじ)の隣人を汝自身のごとく愛すべし』を実践し、来る人を抱き込む包容力があった」と語る。ある親から暴走族の息子の相談を受けた時は自らバイクを購入して、その息子とツーリングに出かけて諭した。見返りはなく「その人が幸せになればいい」が口癖だった。
◇ ◇
福岡に流れ着いたメンバーは就職を模索したが、世間の目は冷ややかだった。集団生活の糧を得るためには、「水商売しかなかった」(古参のメンバー)。支援者の協力を得て81年11月に「シオンの娘」を博多区・中洲に開業した。
多くは水割りの作り方さえ知らない素人。千石さんは「やるなら日本一の店にしなさい」と励ました。女性たちは酒の作り方や接客マナーを必死に学び、「楽しませる工夫」としてショーを取り入れるなどした。
「家出娘の店」「入ったら洗脳される」と陰口をたたく人もいたが、話題性もあり、繁盛店になった。大企業の経営者や大物歌手、映画監督らも来店した。
営業スタイルは他と違う。ホステスは同伴や飲酒をしない。客はみな平等がモットー。国民的人気力士が食事に誘ったが誰も行かなかった。
バブル崩壊、リーマン・ショック…。浮き沈みが激しい歓楽街で、飲酒も同伴もしないホステスのクラブがなぜ、長く営業できたのか。30年以上通う会社経営の男性(74)は「聖書を勉強しているからか、会話に愛がある。他の店にない和みがあった」。
全文はソース元で
2019/12/25 20:22 西日本新聞
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/571308/
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