0001かわる ★2021/02/14(日) 15:15:32.88ID:q5zBMOAv9
煉獄の示した正義については、すでにこの連載で考察した。物語を読む鍵は、強さのみを希求する醜い鬼が元は人間であったという設定だ。鬼はこの社会の悲惨さと理不尽に晒され、結果として利己感情に支配された人間そのものなのだ。煉獄はその悲しさを引き受けた上で「いかなる理由があっても、守るべきものを見失い、強くあることが自己目的化した『鬼』は悪だ」という燃える正義を貫いてみせた。
体をボロボロにしながら鬼と戦い、後輩の剣士らを守る姿は自己犠牲そのものだったではないか。キュアグレースとはむしろ対極的では?――そう感じただろうか。実際、煉獄をめぐってはさまざまなメディアの記事などで、「自己犠牲を美化している」とか「皆でこれに飛びついて感動するのは危うい」とか、批判的論評も目についた。
しかし、その論はあまりに短絡的だ。社会学者の宮台真司氏の視点が参考になる(『マル激トーク・オン・ディマンド』2020年10月31日放送回)。宮台氏は、煉獄を支えているのは、今や多くの人間が行動指針としてしまっている打算や計算を「それがどうした」とはね返せるほどに強い、内から湧き上がる倫理観だと指摘している。
鬼は煉獄の強さを認めると何度も「鬼になれ」と誘うが、その理屈は「鬼になれば強くなれるし、死なない(=鬼にならなければ弱いまま、死ぬぞ)」という、打算と計算にまみれたものだ。煉獄は、「それがどうした」という顔でひたすら拒絶し続け、自分が自分であり続けるために選んだ正義を貫いた。対決したその鬼も、壮絶な過去を持つことが後の展開で明かされるが、煉獄はたとえそれを知っても、シンパシーを抱くことなどなかっただろう。
そもそも「自己犠牲がよくない」とされるのは、他の誰かによって設定された目的や利益のために、自分自身の心や体を軽んじる行為だからだ。「私が犠牲になれば、他者や世界を救える」というある種のヒロイズムと結び付く「自己犠牲」は、どこか甘やかな打算と計算の匂いさえする。結果的に命を落としたとはいえ、そういう論理に決してなびくことなく、「私」を生かすために戦い抜いた彼の横顔は、むしろ古臭い自己犠牲とは無縁のキュアグレースのそれと重なる。
「ヒーロー」を形づくる価値の根幹には今も昔も、「利他」の精神がある。だが、キュアグレースと煉獄に共通していたのは、自分自身をないがしろにしなかったことだ。他人を守りたいなら、自分を守ることも両立させないといけない。『鬼滅の刃』に登場する有名な台詞にもある通り、生殺与奪の権を他人に握らせていては、正解の見えにくい時代に「あるべき世界」の姿を思い浮かべたり、複雑な状況を引き受けながら守るべきものを熟慮したりする「私」を保てない。そのことを直感するからこそ、私たちはもはや、自分自身をたやすく放り出す「ヒーロー」には心を動かされないのだ。
ちょうどこの原稿を書いていたら、どこかの国の元首相が「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」「(女性は)わきまえて」といった趣旨の差別発言で批判を浴び、「わきまえない」というワードがTwitterでトレンド入りしていた。「わきまえろ」とはつまるところ、自分を殺せということだ。そんな発言をする人間に、現代のリーダーもヒーローも務まらない。
「滅私」で正義は成立しない。何かの、誰かの奴隷になることを拒絶しなければ、私がなるべき私も、見えてこない。そんな、新しい正義の時代が始まっている。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_60238466c5b6c56a89a56506?ncid=other_trending_qeesnbnu0l8&utm_campaign=trending
体をボロボロにしながら鬼と戦い、後輩の剣士らを守る姿は自己犠牲そのものだったではないか。キュアグレースとはむしろ対極的では?――そう感じただろうか。実際、煉獄をめぐってはさまざまなメディアの記事などで、「自己犠牲を美化している」とか「皆でこれに飛びついて感動するのは危うい」とか、批判的論評も目についた。
しかし、その論はあまりに短絡的だ。社会学者の宮台真司氏の視点が参考になる(『マル激トーク・オン・ディマンド』2020年10月31日放送回)。宮台氏は、煉獄を支えているのは、今や多くの人間が行動指針としてしまっている打算や計算を「それがどうした」とはね返せるほどに強い、内から湧き上がる倫理観だと指摘している。
鬼は煉獄の強さを認めると何度も「鬼になれ」と誘うが、その理屈は「鬼になれば強くなれるし、死なない(=鬼にならなければ弱いまま、死ぬぞ)」という、打算と計算にまみれたものだ。煉獄は、「それがどうした」という顔でひたすら拒絶し続け、自分が自分であり続けるために選んだ正義を貫いた。対決したその鬼も、壮絶な過去を持つことが後の展開で明かされるが、煉獄はたとえそれを知っても、シンパシーを抱くことなどなかっただろう。
そもそも「自己犠牲がよくない」とされるのは、他の誰かによって設定された目的や利益のために、自分自身の心や体を軽んじる行為だからだ。「私が犠牲になれば、他者や世界を救える」というある種のヒロイズムと結び付く「自己犠牲」は、どこか甘やかな打算と計算の匂いさえする。結果的に命を落としたとはいえ、そういう論理に決してなびくことなく、「私」を生かすために戦い抜いた彼の横顔は、むしろ古臭い自己犠牲とは無縁のキュアグレースのそれと重なる。
「ヒーロー」を形づくる価値の根幹には今も昔も、「利他」の精神がある。だが、キュアグレースと煉獄に共通していたのは、自分自身をないがしろにしなかったことだ。他人を守りたいなら、自分を守ることも両立させないといけない。『鬼滅の刃』に登場する有名な台詞にもある通り、生殺与奪の権を他人に握らせていては、正解の見えにくい時代に「あるべき世界」の姿を思い浮かべたり、複雑な状況を引き受けながら守るべきものを熟慮したりする「私」を保てない。そのことを直感するからこそ、私たちはもはや、自分自身をたやすく放り出す「ヒーロー」には心を動かされないのだ。
ちょうどこの原稿を書いていたら、どこかの国の元首相が「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」「(女性は)わきまえて」といった趣旨の差別発言で批判を浴び、「わきまえない」というワードがTwitterでトレンド入りしていた。「わきまえろ」とはつまるところ、自分を殺せということだ。そんな発言をする人間に、現代のリーダーもヒーローも務まらない。
「滅私」で正義は成立しない。何かの、誰かの奴隷になることを拒絶しなければ、私がなるべき私も、見えてこない。そんな、新しい正義の時代が始まっている。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_60238466c5b6c56a89a56506?ncid=other_trending_qeesnbnu0l8&utm_campaign=trending