新疆ウイグル自治区ウルムチ市にあるモスク
https://amd-pctr.c.yimg.jp/r/iwiz-amd/20210723-00085370-gendaibiz-000-1-view.jpg
※省略
また、宗教のありかたを決める基準は常に中共の側にあり、毛沢東時代には「宗教はアヘンだ」という発想のもと、イスラム信仰も厳しく制限され、さらには文化大革命で激しい批判にさらされた。
■改革開放で花開いたイスラム文化
1978年末からの改革開放は、毛沢東時代の愚昧に決別し、中国内外のあらゆる積極的な要素を動員することで「富強」を目指すもので、その中で中国のイスラム・「清真」文化も力強く息を吹き返した。
改革開放当初の胡耀邦政権は、長年苦境にあえいだ少数民族自身の積極性を引き出すために、まずは少数民族の文化と宗教信仰への管理・干渉を大幅に緩め、少数民族言語による学校教育に対し積極的な補助を行った。その結果、少数民族社会では若い担い手が大量に輩出され、大学進学者も増えた。
このような教育政策はひとえに、少数民族の中共党員や政府幹部を増やすためでもある。漢族の党員・幹部よりも少数民族の党員・幹部のほうが、はるかに少数民族をまとめやすいという実情がある。
いっぽう改革開放期には、宗教の名における学校教育も民間レベルで復活し、イスラム教徒は独自のマドラサ(イスラム系学校)や「清真女学」(イスラムの女子教育機関)を設けた。
共学で「中国の特色あるマルクス・レーニン主義」を刷り込む公教育ではなく、よりイスラム的な価値観に基づいた教育やアラビア語・ペルシャ語の教育を受ければ、イスラム信仰と一体になった少数民族の生活と文化を盛り上げることができるし、改革開放で接点が拡がった西の世界との貿易で活躍できるため、この手のイスラム学校は一定の人気を集めた。
以上のような教育面での変化に加え、イスラム教徒の少数民族には各種の優遇政策が加えられた。
「一人っ子政策」をめぐって、回族は多くの地域で2人の子を持つことが認められたし、ウイグル族やカザフ族などは、経済状況や居住地の自然環境に配慮して2〜3人の子を持つことが可能となった。
イスラム教徒の「清真」文化をめぐっては、豚肉を食べる漢族の側が配慮し、イスラム教徒が多い地域の学校や企業などの食堂は「清真」とすることが一般的となった。
また先述の通り、より多くの少数民族が大学に進学して、党員・幹部となることが望ましいため、「高考」と呼ばれる全国統一の大学入試において、少数民族の受験生に対し加点する政策がとられてきた。
※省略
しかしこれらの現象が、漢族社会の強い違和感や反発を招いてしまった。
今日の中国では、たとえ現実への不満や批判はあれども、中共による周到な愛国主義教育が浸透し、「近現代史の苦しみにあえぐバラバラな中国を中共が救った」という言説はかなり支持されている。そこで多くの漢族は、中国のイスラム教徒も当然中共に感謝し、中国社会に融け込むべきだと思っている。
しかし漢族からイスラム教徒を見ると、彼らはモスクを中心とした小さな社会を基盤に、独自の宗教教育を通じて団結し、「中国の特色ある社会主義」とは一線を画しているように見える。
さらに「高考」の加点政策では、どこまで中国を愛しているか分からない少数民族を優遇するために、一点の差に泣く漢族受験生が多数生じている。
食生活においても「清真」優先のもと、豚肉を欲する漢族が学校や企業の食堂で逆差別される場合が多々ある。ハラール認証を示すアラビア文字も、「清真」レストランだけでなく、食料品を購入すればしばしば目に入ることになり、常日頃から「清真」を意識せずにはいられない。
そこで気がつけば、総じて世俗的な雰囲気で、しかも唯物論を掲げる中共が指導するはずの中国社会で、何故か「清真」とイスラム教徒の存在感が増している。これは一体どういうことか。イスラム教徒は、漢人社会の拡大に圧迫されていると主張する。しかし、彼らの独自の世界や存在感の拡大に譲歩させられているのは、イスラム教徒の少数民族ではなくむしろ漢族ではないのか……?
※省略
「9.11」以来、イスラム原理主義に対する「テロとの闘い」が世界的課題であるとされる中、何故自分は「清真」な食品に対価を払い、イスラム教徒を潤す必要があるのか、もしかすると自分は「恐怖主義・分裂主義・宗教極端主義」のために金を払っているのではないか……?
こうして今や中国のネット上では、静かに「イスラム脅威・陰謀論」が拡がっている。(続きはソース)
7/23(金) 7:02配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20210723-00085370-gendaibiz-cn
https://amd-pctr.c.yimg.jp/r/iwiz-amd/20210723-00085370-gendaibiz-000-1-view.jpg
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また、宗教のありかたを決める基準は常に中共の側にあり、毛沢東時代には「宗教はアヘンだ」という発想のもと、イスラム信仰も厳しく制限され、さらには文化大革命で激しい批判にさらされた。
■改革開放で花開いたイスラム文化
1978年末からの改革開放は、毛沢東時代の愚昧に決別し、中国内外のあらゆる積極的な要素を動員することで「富強」を目指すもので、その中で中国のイスラム・「清真」文化も力強く息を吹き返した。
改革開放当初の胡耀邦政権は、長年苦境にあえいだ少数民族自身の積極性を引き出すために、まずは少数民族の文化と宗教信仰への管理・干渉を大幅に緩め、少数民族言語による学校教育に対し積極的な補助を行った。その結果、少数民族社会では若い担い手が大量に輩出され、大学進学者も増えた。
このような教育政策はひとえに、少数民族の中共党員や政府幹部を増やすためでもある。漢族の党員・幹部よりも少数民族の党員・幹部のほうが、はるかに少数民族をまとめやすいという実情がある。
いっぽう改革開放期には、宗教の名における学校教育も民間レベルで復活し、イスラム教徒は独自のマドラサ(イスラム系学校)や「清真女学」(イスラムの女子教育機関)を設けた。
共学で「中国の特色あるマルクス・レーニン主義」を刷り込む公教育ではなく、よりイスラム的な価値観に基づいた教育やアラビア語・ペルシャ語の教育を受ければ、イスラム信仰と一体になった少数民族の生活と文化を盛り上げることができるし、改革開放で接点が拡がった西の世界との貿易で活躍できるため、この手のイスラム学校は一定の人気を集めた。
以上のような教育面での変化に加え、イスラム教徒の少数民族には各種の優遇政策が加えられた。
「一人っ子政策」をめぐって、回族は多くの地域で2人の子を持つことが認められたし、ウイグル族やカザフ族などは、経済状況や居住地の自然環境に配慮して2〜3人の子を持つことが可能となった。
イスラム教徒の「清真」文化をめぐっては、豚肉を食べる漢族の側が配慮し、イスラム教徒が多い地域の学校や企業などの食堂は「清真」とすることが一般的となった。
また先述の通り、より多くの少数民族が大学に進学して、党員・幹部となることが望ましいため、「高考」と呼ばれる全国統一の大学入試において、少数民族の受験生に対し加点する政策がとられてきた。
※省略
しかしこれらの現象が、漢族社会の強い違和感や反発を招いてしまった。
今日の中国では、たとえ現実への不満や批判はあれども、中共による周到な愛国主義教育が浸透し、「近現代史の苦しみにあえぐバラバラな中国を中共が救った」という言説はかなり支持されている。そこで多くの漢族は、中国のイスラム教徒も当然中共に感謝し、中国社会に融け込むべきだと思っている。
しかし漢族からイスラム教徒を見ると、彼らはモスクを中心とした小さな社会を基盤に、独自の宗教教育を通じて団結し、「中国の特色ある社会主義」とは一線を画しているように見える。
さらに「高考」の加点政策では、どこまで中国を愛しているか分からない少数民族を優遇するために、一点の差に泣く漢族受験生が多数生じている。
食生活においても「清真」優先のもと、豚肉を欲する漢族が学校や企業の食堂で逆差別される場合が多々ある。ハラール認証を示すアラビア文字も、「清真」レストランだけでなく、食料品を購入すればしばしば目に入ることになり、常日頃から「清真」を意識せずにはいられない。
そこで気がつけば、総じて世俗的な雰囲気で、しかも唯物論を掲げる中共が指導するはずの中国社会で、何故か「清真」とイスラム教徒の存在感が増している。これは一体どういうことか。イスラム教徒は、漢人社会の拡大に圧迫されていると主張する。しかし、彼らの独自の世界や存在感の拡大に譲歩させられているのは、イスラム教徒の少数民族ではなくむしろ漢族ではないのか……?
※省略
「9.11」以来、イスラム原理主義に対する「テロとの闘い」が世界的課題であるとされる中、何故自分は「清真」な食品に対価を払い、イスラム教徒を潤す必要があるのか、もしかすると自分は「恐怖主義・分裂主義・宗教極端主義」のために金を払っているのではないか……?
こうして今や中国のネット上では、静かに「イスラム脅威・陰謀論」が拡がっている。(続きはソース)
7/23(金) 7:02配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20210723-00085370-gendaibiz-cn