■襲ってくる罪の意識、背徳感

いつの間にか、腰のあたりから動きが変わっています。いすに座って操作しているのですが、上半身を曲げたりくねらせたり、
前に傾けたり、後ろに軽くのけぞったり…。事情を知らない家族や同僚が見たら、絶句するでしょう。

そう試行錯誤するうちに、決定的1枚のようなものが撮れたりするわけです。

「わ! これ、絶対かわいい!」

思わず声をあげるその口調はもはや半分女の子。それに気づいて、一瞬われに返ります。それは罪の意識、一種の背徳感でした。

■男という外見が束縛してきたもの

筆者の子ども時代は、「男尊女卑」という言葉がまだ生きていました。筆者の母親などは「男子、厨房に入るべからず」なんてセリフを本当に言っていて、
実際、子どものころ台所に立った記憶は、カップラーメンを作ったときくらいしかありません。

男の子の遊びと女の子の遊びも分かれていて、男児がおままごとをするなど、もちろんあり得ない。推奨される価値観も、
男は「強い」「たくましい」「わんぱく」、女は「かわいい」「ひかえめ」「愛らしい」。

幸いに、といいますか、進学した共学の中高一貫校が、女子の方が圧倒的に成績が上だったことに加え、かざらない男女平等の伝統が根付いていて、
男尊女卑の考え方など6年間の学校生活の中できれいにぬぐい去られました。

それでも、男が女の子のように愛らしく振る舞うとか、美しく着飾るといった習慣まではさすがにありませんでした。
ましてや自分を「かわいい」と感じる機会など人生の中で一切なし。当然、そんな願望や欲求など、そもそも存在すら気づきませんでした。

それが……かわいいポーズを取ることに、かわいい写真を撮られることに、喜々として胸弾ませているこの気持ちは、どう考えても少女のそれです。
半世紀以上生きてきて、文字通り初めての、そして驚天動地の発見でした。

■美少女、心の一部となる

自分の姿が美少女であるのなら、かわいく撮られたい、きれいに見られたいというのはたいへん自然な欲求として受け止められます。
このとき私ははっきりと、男という外見が自分の心をきつくきつく縛っていたことに気づいたのでした。

外見の制約が取り払われたとき、心の制約もまた解き放たれる、もはやその事実を認めないわけにはいきません。

おじさん、心の中に女の子がいたんだよ。それもとびっきりの美少女が……

気づいてしまった以上、それは間違いなく自分の心の一部。これを失うことは、半身をもがれるに等しい――そう感じるのです。