豪州人のアボリジニ虐殺行為酷すぎ
https://engawa.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1352040207/
1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2012/11/04(日) 23:43:27.72 ID:qdb4SvbQ0 ?2BP(1000)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0

オーストラリア人による人間のスポーツハンティング

サフル大陸(オーストラリア大陸)では、1788年よりイギリスによる植民地化がはじまるにつれ、動物のみならず、
原住民であるアボリジニをスポーツハンティングするようになる。
組織的なアボリジニー襲撃隊も編成され[4]、島を一列で縦断し島民をすべて虐殺した。
このようなアボリジニへのスポーツハンティングの背景には、アボリジニを人類以前の類人猿とみなす人種差別的な
当時の考え方があった。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%83%8B

西洋人がオーストラリアを「発見」した段階では、50万人から100万人ほどのアボリジニがオーストラリア内に
生活していた[7]。言語だけでも250、部族数に至っては、700を超えていた。
しかし、1788年よりイギリスによる植民地化によって、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハン
ティングとして多くのアボリジニを殺害した。「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記が
サウスウエールズ州の図書館に残されている[8]。

1803年にはタスマニアへの植民が始まる。入植当時3000〜7000人の人口であったが、1830年までには約300にまで
減少した[9]。虐殺の手段は、同じくスポーツハンティングや毒殺、組織的なアボリジニー襲撃隊も編成されたと
いう[10]。数千の集団を離島に置き去りにして餓死させたり、水場に毒を流したりするといったことなども
行われた[11]。また、1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を
与える法律が施行された。捕らえられたアボリジニ達は、ブルーニー島のキャンプに収容され、食糧事情が悪かった
事や病気が流行した事から、多くの死者が出た。

これによりアボリジニ人口は90%以上減少し、ヴィクトリアとニューサウスウェールズのアボリジナルの人口は、
10分の1以下になった[12]。さらに1876年には、タスマニア・アボリジナル最後の生存者である女性のトルガニニ
が死亡して、多い時期で約3万7千人ほどいた純血のタスマニアン・アボリジニが絶滅した[13]。