>>973
皇帝の政権は、厳しい取り締まりを命令した。一人ずつ、殆どの猶太人が捕らえられ、裁判に掛けられた。これは、當然、正當化以前のことであったが、皇帝の猶太人暗殺者に対する報復は、いつもの様に「反猶太主義」や「迫害」と言う激しい抗議を生み、同様に「民族絶滅」の予言まで生み、これらの訴えは、國際猶太メディアによって大げさに吹聴された。ロシアの人々はとうとう、猶太人に愛想が尽き、猶太人が特に多いロシアの西南地域全域でポグロムの波が広がった。1881年だけで、その期間の長さと苛酷さは様々だが、250回ものポグロムが起きた。これらの殆どは、キリスト教徒のロシア人による自発的な猶太人への攻撃であって、皇帝の政権の手になるものではなかった。

これらのポグロムは、當時の國際猶太雑誌や新聞で、いつもの様に煽情的な誇張と民族虐殺の恐ろしい予言と共に、広範に報道された。國際猶太のロシアへの報復の渇望は、息つく暇もない誇張と、皇帝への攻撃の悪意に満ちた宣伝工作により、極端に増大した。事実は、ポグロムの背後にいたのは、皇帝の政権ではなく、ロシアの民衆自身であったのだ。皇帝の政権は、誰が背後にいるのか、捜査までしたし、予防するためにできるだけの事はした。捜査の結果は、ポグロムは、猶太人の金融による農民の搾取とその結果による積もり積もった農民の恨みの結果である、と言うことであった。