長野・エムウェーブでの練習の帰りだった。バンクーバー五輪を1シーズン後に控えた2008年12月。駐車場を歩きながら、小平奈緒が少しおどけて切り出した。

 「朝日新聞で雇ってください。このままじゃ、ニートスケーターで……」

 小平は当時、信州大教育学部4年。将来は「先生になってスケートの楽しさを伝えたい」という夢はあったが、師事する結城匡啓(まさひろ)コーチのもとで、まだ競技を続けたかった。だが、4年生の冬になっても就職先が決まらない。4カ月前の北京五輪で有名になったフェンシング・太田雄貴の「ニート剣士」をもじって自虐的に笑った。

 長野の地元紙には、スケルトンで五輪に出場した記者がいた。そんなことも話題にしながら、小平は言った。「私、自分で滑って自分で記事を書きます」

 本気で記者になりたかったわけではないだろう。ただただ、競技への一途な思いが伝わってきた。

 彼女の希望は長野で競技を続けること。私は地元放送局の関係者に相談はしてみたものの、結局力になれなかった。卒業時も就職は決まらず、小平の両親は「1年ぐらいは面倒を見ようと思った」。治療やリハビリをした縁もあって、松本市の相沢病院に採用されたのは4月半ばだった。小平は「初任給で家族を食事に連れていけました」とうれしそうに話していた。

 何よりもスケートが大好きで純粋だ。卒論のテーマもスケートの動作解析。「何時間でも滑っていたい。映像もすり切れるほど見る」。その情熱を受け止めてくれる職場が見つかり、才能が開花した。バンクーバーでは団体追い抜きで銀メダル。ソチ五輪はメダルを逃し、涙を流した。単身オランダに留学し、力をつけた。

 好きな言葉は「勇往邁進(ゆうおうまいしん)」。強豪校ではなく、スケート部のない高校に進んで同好会で活動し、実業団の誘いを断って大学へ進んだ。選手生命の危機でもあきらめず、決めた道を真っすぐ進んできた。その先に、金色に輝くメダルが待っていた。(稲崎航一)

韓国に到着し、現地の報道陣の取材を受けるスピードスケート日本代表の小平奈緒主将=4日午後3時8分、韓国・江原道の襄陽国際空港
https://www.asahicom.jp/articles/images/c_AS20180213005462_comm.jpg
バンクーバー五輪女子団体追い抜きで2位になり、銀メダルを手にする(左から)田畑真紀、小平奈緒、穂積雅子=2010年2月
https://www.asahicom.jp/articles/images/c_AS20180213005455_comm.jpg
全日本距離別選手権女子1000メートルで優勝した信州大・小平奈緒選手=2006年
https://www.asahicom.jp/articles/images/c_AS20180213005452_comm.jpg
ソチ五輪女子1000メートルで13位に終わった小平奈緒=2014年
https://www.asahicom.jp/articles/images/c_AS20180213005459_comm.jpg

2018年2月18日22時05分
朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASL2F5HCSL2FUTQP02K.html

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