役職が同じ同期入社40人を集めた新人研修。自己紹介した瀬下かおり(仮名)に、研修担当の上司が聞き返した。

「瀬下さん、大卒なの?」

気まずい気持ちでうつむいて「はい」と返事した。ところが、かおりの次に自己紹介した新入職員も四大卒だった。上司は「君も大卒? 今年は何だかすごいねえ」と感嘆の声を上げた。

1996年4月。かおりは郵政省国家三種の公務員として、社会人のスタートを切った。上司が驚いたのは、大卒は通常、幹部候補生として採用する国家一種、二種を目指し、国家三種は高卒人材の就職先と想定されているからだった。

「私が採用された地域の国家三種の同期は40人でしたが、そのうち20人が四大卒でした。私のように国公立大学出身者も結構いたので、研修を担当した上司たちは騒いでましたね。しかも数週間の研修の間に、10人は就職浪人組だと判明しました。私だけじゃなかったんだと、本当にほっとしたというか、心強かった。だからか、私たちの期はすごく結束が固いんです」

「就職氷河期」

今では普通に使われるこの言葉は、1992年に雑誌『就職ジャーナル』の誌面で初めて登場したという。歴史的に振り返ればバブルは1991年に崩壊したが、その認識はすぐには共有されず、1993年まで日本は好景気の空気が漂っていた。就職の専門誌だからこそ、いち早く異変を察知できたのだろう。1994年になると、バブル崩壊とそれに伴う新卒の就職難は社会問題として認識されるようになり、「就職氷河期」は同年の第11回「新語・流行語大賞」で審査員特選造語賞を受賞した。

かおりはその1994年に就職活動をし、どこからも内定を得られないまま翌1995年春に卒業した就職浪人組だった。氷河期の体験は、今なお彼女のトラウマになっている。
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■高卒採用枠に大卒が殺到

かおりは1991年4月、地方都市の公立大学商学部に入学。実家を出て一人暮らしを始めた。地方在住だったからかバブルの恩恵を受けた記憶はないものの、先輩たちが就職活動に苦労する様子は感じなかった。

4年生になる少し前、1994年2月ごろから就職活動を始めた。リクルートなどが送ってくる企業ガイドブックをめくり、興味のある企業に付録のはがきで資料請求したり、合同会社説明会に参加した。Windows95の発売前でインターネットはおろか、個人用パソコンも普及しておらず、エントリーシートという概念もなかった。21世紀からは想像もつかないアナログな就職活動。けれど、皆それで収まるべきところに収まっていった。1学年上の先輩までは。

■バブル崩壊が女子直撃、「私たちの何が悪いんだろう」

初夏に入ったころ、ようやく異変に気付いた。一次面接の連絡が来ても、次になかなか進めない。20社以上受けて、一度も最終面接に呼ばれなかった。周りも同じ状況だった。

「キャンパスで会った友達と『何で落ちるんだろう。私たちの何が悪いのかな』と途方に暮れました。その時はネットもないから日本全体で起こっていることと気づかず、自分に原因があると思いました」

リクルートワークス研究所の大卒求人倍率調査によると、バブル期の1991年3月卒の大卒求人倍率は2.86倍(求人総数84万4000人、民間企業就職希望者数29万3800人)。1993年3月卒で1.91倍と2倍を割り込むと1994年3月卒は1.55倍に低下。かおりの学年、1995年3月卒は1.20倍(求人総数40万400人、民間企業就職希望者数33万2800人)に落ち込んだ。団塊ジュニアの大学卒業期を迎え、新卒者数が増える一方で、求人総数はバブル期から半減していた。

就職氷河期はその後長く続き、リーマン・ショック後から東日本大震災後にも厳しい情勢が訪れたが、かおりの世代の特徴は、ネットがなく情報収集が困難だったことと、大学の就職課をはじめ就活支援サービスが未整備だったこと。そして、男女雇用機会均等法改正前で、採用での男女差別が「禁止」ではなく「努力義務」とされていた点だ。

朝日新聞は1992年8月の朝刊記事「92就職ノート 長引く終盤 女子学生受難、活動終わらず」で、以下のように記している。

リクルートリサーチの 調査によれば、大学男子の求人倍率が2倍台を維持したのに対し、大学と短大を合わせた女子学生は0.93倍と、「1」を割り込んだ。

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2/23(金) 17:41
BUSINESS INSIDER JAPAN
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