慶長の役も秀吉軍の連戦連勝だった
・漆川梁海戦
>敗北した朝鮮水軍は殆ど壊滅し、陸海で日本軍が西進する端緒となった。(日本側損害なし)

・南原城の戦い
>左軍と水軍による南原城攻略と同時期に、右軍も黄石山城を攻略する。両軍は共に全州に向かって進撃すると、
>ここを守っていた陳愚衷指揮下の明・朝鮮軍は恐れをなして逃亡し、明・朝鮮軍の当方面における防衛体制は瓦解した。
>これにより、日本軍は全州を占領する。
(明軍では李新芳・蒋表・毛承先らの副将が戦死、朝鮮軍では李福男(全羅兵使)・任鉉(南原府使)・金敬老(助防将)・
鄭期遠(接伴使)・申浩(別将)・李元春(求礼県監)・馬応房(鎮安県監)・呉応鼎(防禦使)・李徳恢(判官)・黄大中(義兵指揮官)
ら諸将が全員戦死し、ここに南原城は陥った。明・朝鮮軍は5000人が戦死した。)

・鳴梁海戦の真実
>根拠地および制海権を放棄し、遠方まで撤退している。これにより戦場の制海権は日本側のものとなったため、
>朝鮮水軍の基地である(全羅道)右水営や対岸の珍島の攻略を許し、結果として日本水軍の侵攻は成功している。
(奇襲しただけだった)

・蔚山城の戦い
>清正は急遽側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城した。毛利秀元や黒田長政等の援軍の到着まで明・朝鮮軍の攻撃に10日ほど耐え、
>この戦いを明・朝鮮軍に20,000人の損害を与える勝利へと導いた。
( 明軍の指揮官クラスでは、 遊撃楊万金戦死、 千総麻来戦死、 千総周道継戦死、 千総李洞賓戦死、
把総郭安民戦死、 千総王子和戦死、 哨総湯文?戦死、 千総銭応太戦死、 張応元戦死、陳観策戦死、
遊撃陳寅負傷、 遊撃陳愚沖負傷、 という損害を出している。明将楊鎬は日本軍の追撃を恐れ、漢城まで撤退した。)
>この当時の朝鮮における明軍の総司令官であった楊鎬は、勝利と偽って本国に報告したが、惨敗したことがばれ、解任された。

・順天城の戦い
>日本軍は防戦してこれを退け、明の遊撃李金が負傷し、 戦死した明兵も数知れずとある。
>城からの日本軍の鉄砲や大砲による反撃は激しく多くの死傷者を出した。
>劉?自身は富有まで撤退した。これにともない水軍も10月9日、海上封鎖を解いて古今島(莞島郡古今面)に撤退した。
>明軍の退路上には投棄された兵糧が散らばっており、この幾らかは日本軍が戦利品として入手した。
>こうして明、朝鮮の西路軍、水軍による順天城攻略作戦は失敗に終わった。
(明軍損害大 日本側軽微)

・泗川の戦い
>朝鮮半島の泗川で島津義弘率いる島津軍7千が明の武将董一元率いる数万(後述)の明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦い
>混乱した連合軍は疲労していたことも手伝って、壊滅的被害を受けた。島津軍は南江の右岸まで追撃を行い、
>混乱し壊走する連合軍は南江において無数の溺死者を出した。10月1日夜、島津軍は泗川の平原において勝鬨式を挙行し、
>戦闘は幕を閉じた。
(明の記録では明側「戦死者約8万人」とある。)

・第二次蔚山城の戦い
>加藤清正が守備する蔚山倭城を攻撃したが今回は篭城準備がなされており、
>明軍が城を攻撃しても日本軍の反撃により明軍の被害が増えるばかりで攻略の目処は立たなかった。
>麻貴は挑発などを行い日本軍を誘きだそうとしたが、城中の清正は守りを固めて出て来ない
>さらに中路軍が泗川の戦いで大敗したとの報告も届いたため、10月6日には蔚山倭城より撤退し、慶州へ帰還した。
(明軍損害大 日本側軽微)