【奈良】「ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代」 ヤマト王権、始まりは纒向 橿考研創立80周年記念講演会★2
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奈良県立橿原考古額研究所創立80周年記念の公開講演会で講演する石野博信さん=奈良県橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで、藤原弘撮影
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/12/01/20181201oog00m010061000p/9.jpg
県立橿原考古学研究所創立80周年記念の公開講演会「古代の王宮をさぐる」が11月25日、橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで開かれた。約530人が参加し、橿考研で発掘調査に長年携わった研究顧問で兵庫県立考古博物館名誉館長の石野博信さんら3人が講演した。【藤原弘】
石野さんのテーマは「ヤマト王権は纒向(まきむく)から始まった」。邪馬台国の有力候補地の纒向遺跡(桜井市)を巡り、「吉備、出雲、伊勢の人たちが連合で新しいまちを作り、大きな墓を作っていく。ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代ではないか」と説明した。
石野さんは、纒向遺跡の初期の調査で見つかった土器は、東海、山陰・北陸、河内、吉備の物の順に多く、箸墓古墳(同市)から吉備で見られる葬送儀礼用の土器「特殊器台」が見つかっていることを説明。「大王クラスの墓に吉備の葬儀用器台がある。葬られた人と吉備に強いつながりがある。吉備の人が巨大な墓を作ったことは、大いにあり得る」と話した。
続いて、橿考研特別指導研究員で奈良芸術短大教授の前園実知雄さんが「雄略天皇・泊瀬(はつせ)朝倉宮を求めて」と題して講演し、桜井市の脇本遺跡で携わった発掘調査の成果を紹介。5〜7世紀の掘っ立て柱建物跡などを検出し、「脇本を中心にしたところにまず雄略天皇が宮を築いた。(雄略天皇の)5世紀代の建物跡は一部確認されているが、下にあると思う」と話した。
講演の3人目は、橿考研特別指導研究員で公益財団法人「由良大和古代文化研究協会」業務執行理事の泉森皎(こう)さん。「藤原京の調査」をテーマに、橿考研が歴史的に注目される木簡を見つけたことなどを説明した。
毎日新聞 2018年12月1日
https://mainichi.jp/articles/20181201/ddl/k29/040/481000c?inb=ra
★1:2018/12/04(火) 23:59:00.16
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1543935540/ 有田芳生
認証済みアカウント @aritayoshifu
法務委員会関係の原稿を書く合間にネットを見たらこんな内容を見つけました。
いまの年齢と生まれた年(西暦)を足すと「2018」になるというのです。
ホントだ。1000年にいちどのことだともあります。
https://imgur.com/G5AAgV1.jpg これ、変態毎日新聞の学説だから、
文明のない朝鮮人がまとわりつくスレになっちゃったね。 有田ヨシフって甘えてるんだな。
半人前とわかると、何をほざいても聞く気がなくなるわ。 晋の崩壊→倭ヒャッハー
唐の崩壊→武士ヒャッハー
元の崩壊→倭寇ヒャッハー
清の崩壊→大日本帝国ヒャッハー エジプトでは紀元前1300年にツタンカーメンの黄金のマスクを作っていた ジャップ最古の文字記録は中国の魏志倭人伝という事実 しかし、古事記は卑弥呼に触れないよう触れないようにしてるじゃん。
継続性があるなら、それを強調すればいいはずなのに。 畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の、守山の伊勢遺跡
政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう
国作りが進み平和で豊かな時代が到来したんだろう
中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。
伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。
夜の食国を治めたのは月夜見
農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない
魏志倭人伝の魏略からの引用に女王国には暦がないという記述は興味深い
万葉集の奈良時代後半の歌を読むと、月やホトトギス時鳥の来訪の期待感が、次第に高まっていくのが感じられる
桓武朝で神代の王統が復活したのだろうか?
信長秀吉家康の例え話
ホトトギスは何を指すのだろうか? 古事記を読むと、ヤマト王権の、卑怯さ、卑劣さ、残酷さが浮き出てくる。
それを「俺ら頭いいだろう」と自慢してるところが、さらに酷い。 纒向の前には近畿地方に都市は
なかったのか。いかにも奈良盆地の
隅っこ、辺境の場所なんだが。 紀元前1300年 ツタンカーメンの黄金のマスクを作っていた
紀元前552年 孔子 誕生
紀元前323年 アレクサンダー大王の世界征服
紀元前44年 ジュリアス・シーザー 暗殺
イエス・キリスト 誕生
240年ごろ 卑弥呼 死去 邪馬台国はどこにあったのかわからず、日本人はロマンとか言ってる 唐古・鍵遺跡とかでかい遺跡がゴロゴロしているよ
唐古・鍵遺跡からは鉄鉱に納められた巨大勾玉も見つかっている
池上曽根遺跡は弥生時代最大級の神殿跡、巨大井戸、弥生時代最大級の勾玉が見つかっている 日本人が日本のアイデンティティとしているのは、縄文や弥生の文化であって、
たかだか5、6世紀に日本を支配したヤマト朝廷ではない。 縄文とのミキシング具合や上戸下戸アセトアルデヒド脱水素酵素活性不活性の具合といい
たぶん九州と関東はかなり似ている 渡来人の輝かしい偉業に嫉妬と羨望の念を抱いて逆恨みする、狗にも劣る恩知らずなクソJAP。 >>34
劣等民族が遥か上位の民族である日本人様をジャップと呼んでも
欧米人になって日本人と対等になれるわけじゃないよw 全員が焚書不比等の偽書記紀信者ども
この国の歴史学考古学の無惨 嘘に嘘を塗り固めた橿研の古代史、
今更間違いを認めたら、過去の全てがひっくり返るから
そりゃあ出来ないわな。安倍政治とまるで一緒です。 最近の研究で弥生時代がかなり遡ることがわかった結果、畿内以外ありえないことになったんだよ。
日本人の流れは縄文人、姜族を中心とした弥生人、朝鮮半島から流れてきた渡来人の3つ。
邪馬台国は弥生人を中心としたグループね。 >>29
紀元前3000年頃 火焔型土器を作っていた 中国の正史“隋書”いわく
「倭王のいる都は邪靡堆という。おそらく魏志倭人伝に出てくる邪馬台であろう。常に火を吹く阿蘇山という不思議な山がある」
さて、畿内かな?九州かな? 日本起源になるとチョンが湧いてでてくるよな
公園のハトみたいだわww >>40
実は伊勢の朝熊や富士山(淺間)もアソなんだな。 >>40
阿蘇はその記述と一緒には出てこない
捏造するな
倭国の説明の中で阿蘇が出てくる
もちろん阿蘇は九州にあり、この当時の倭国の都は大和 これはこれでOK
邪馬台国は九州とかその辺で奈良は別勢力で制覇した方 大和政権も畿内説も不自然なほど筑紫の勢力を無かったことにしようとしてるよねw 3世紀は日本史ではまだ先史時代
歴史を語るのは不可能
できるのは当時の暮らしぶりの推測まで 逆に邪馬台国のほうが畿内を滅ぼしたというか擦り寄ってきて簒奪した感じかなあ。 いつからヤマト王朝がヤマト王権に変わったんだ?
ころころ歴史を変えるなよ まあ、今は日韓併合らしいですし、それに比べりゃこのくらいの違いは良いんじゃねえの? そこらへんは明確に中国のがくろうぐんと阿智王だからな
@和は公孫氏に属州化と朝貢あるいは同盟を迫られたが公孫氏が魏に惨敗し、魏に服属した(属州より服属が正しい。領土ではないが和王は子分なりの礼の理解でいい)
Aところが普統一西安遷都で和という辺境の重要度が下がり外交関係は沈静化する。解消と言ってもいい
B西安が龍苑の乱で滅んだ直後、がくろうぐんが高句麗の襲撃にあい日本に阿智王が亡命し
遊牧対抗のための国家県立と軍隊県立を具申し、確立させる。阿智王は事実上大和の国体を作った貢献者といっていい
ここでチョンの馬鹿ルサンチマンはがくろうぐんを朝鮮族と強弁するが、がくろうぐん人種は明確な中国分度をもった中国人である
ここでなにかと執拗に「朝鮮」と強弁し、なすりつけるのは虚構であり
がくろうぐんは中国人種、文度の属州であり、かくたる中国領域であり
そこから文度が持ち込まれたが正しい
C阿智王の計は阿智王到来50年(2-3性の時代)に、身を結びがくろうぐんを奪還した。
ところがこのがくろうぐん奪還構想はどうも長いシーソーゲーム化して
360年から100年近いシーソーゲームで大和の半島派遣と百済属国体制が成立したのは雄略天皇の代でここに天皇王政の確立は
中国史書及び、日本考古視点上同率する
これが唯一正しい「証明される」古代史であり、ここで意味不明な朝鮮史観や匹夫の如く阿智王の到来
及び阿智王がきた理由がわからないのは馬鹿である。
龍苑の乱による西安陥落による北普崩壊並びに、高句麗襲撃をうけて阿智王は大和亡命したのである
阿智王らは
「中華は遊牧の侵略で滅亡した。やがてその食指はやまとに伸びるから武装防備
やがては橋頭堡、防波堤としてがくろうぐんを取り返さないといけない」
と外交政治と軍事をレクチャーした。だから大規模な銅剣開発は4世紀中頃におきた。
阿智王到来から20-40年後の事業成果である。 邪馬台国が機内としたばあい神武東遷はなんなのかってことだよな >>57
多分応神天皇あたりが邪馬台国出身者だと思うよ。 >>56
数年前に宇佐神宮はなんか修築をやってた(普段入れない中に入れた)が
その時に、下も掘ってしまえば良かったのになあ、、 >>59
以前の修理の時に石室らしいものが出たとか出なかったとかいう話があるそうな。 >>61
聞いた事ある
その時徹底的に発掘すれば良かったのに 中国の記録に阿蘇山あるの?
ならば九州しかないじゃん
奈良に向かうルートからは阿蘇山なんて見えないし >>56
宇佐は1000%掘らないよ
あそこは天武天皇ゆかりの地
現天智天皇系の皇室としては
おかしなものが出てきたら困るからね
ちなみに今の宇佐神社は本来の有ったところからの移築 >>32
こと、言語に関しては、違うっぽい。
列島に最後に渡ってきたのが、倭人(日本語話者)で、弥生人の亜種。
半島の弥生人に少数の北方民族が混ざって、それで日本語が出来た。
その新たな言語集団=倭人が九州に入った。そこに覇権国が出来た。
その影響で列島に日本語が広がった。倭人が広がったのではない。
列島人が「倭人化」した。 邪馬台国を強引に奈良にしたのは明治政府なんだよね
皇歴2600年とかいうハッタリのためさ
江戸時代までは普通に九州の扱いだった 阿蘇が出てくるのは隋書だからなあ
完全に飛鳥時代だし
使者の名前も隋書と日本書紀で一致してるし(ついでに半島の史書もw)
道のりも対馬壱岐筑紫まではっきりしてて、そっから東に向かってるしな 、、 これを狙ってるのが、、、、、、KKなのΣ(・ω・ノ)ノ >>58
神武東遷の前後で、スパッと人代と神代が分かれてる。
これは、何を意味するか?
奈良が滅ぼした出雲を神々の地に仕立て上げたのが参考になる。
邪馬台(やまと)を奈良が滅ぼし、その権威を奪ったということだな。
出雲と違い、邪馬台は、その名が欲しくなる程の歴史的権威だった。
それで邪馬台の人物を神々に祭り上げ東遷神話を作った。
邪馬台の地は(少なくとも王族は)皆殺しにあったということだな。 . - ― - ..
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i f ,.r='"-‐'つ !从 `ー゚一ヽ /ー゚一" ハ,}
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,i ,二ニー; .リ ヘ. | i 从リ
ノ il゙ ̄ ̄ 从 iヘ `'ー'" , '|リ乂 ヤマトの諸君 久しぶりだね
,イ「ト、 ,!,! 乂iヘ `二二´ / !〉、
/: :iトヾヽ_/ィ" /:.:`:.:ヽ、____ イ /:.:.{ __,rュ.__
r;: : : !\ヽi._jl _____ _ . イ:.:.:./〉/〉:.:`Y´:.:.:ヘ:.:ヘ:.:.;ヽ、、rくイハ小ハヽ、、
∧l : : \゙7'゙ .j!圭圭圭Y´:.: : : :ヽ:〈/〈/:.:/ \:.:.V:.:V:/ : : : : : :Y圭圭圭圭ミx、、_
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/: : : : : : : : :゙''y'圭圭圭圭圭圭冬、、 : : : : : : : ∨: /: : : : : : : : : : :/圭圭圭圭圭圭圭圭ヘ: : : :∧ >>67
上古音の評価にもよるけど
ja ma duu、ヤ(ジャ)マデュって感じ? >>75
欠史八代って知らん?神武で人代に入ったとは思えんけどな。
それこそ天智くらいまではけっこうごちゃごちゃになってるんだと
思うよ。あと天武でも王朝が変わってるぽいしな。 >>77
そのピンインだと、ツィアマトゥと推測する。 >>65
日本語の成立の事情も全然わかってないんだよな。
古墳時代はどういう言語が主流だったか。
日本語が独立した言語と言えるほど確立されたのは、そんなに昔じゃなく奈良時代とか。平安でやっとという説もある。
中国人のコロニーが倭国ができるころはかなりあったと考えるのが自然だし。
邪馬台国の時代、皇室の先祖は九州にいた。
神武東遷は邪馬台国以後のこと。 >>75(つづき)
昔の人は、東遷神話の真の意味を誰もが知っていたと思う。
だが、決して口にしてはいけないタブーだったんだろうな。
神話をそのまま受け入れなければならない。
「そ、そだね・・」 ガクガクブルブル(冷や汗・震え声) >>75
神代と人代の分かれ目は忍穂耳とニニギの間だろ
ニニギからは性交によって子をなして寿命が来て死ぬ 倭建(ヤマトタケル)の逸話で熊襲からタケルの名をもらったってあるけど、
本当はもらったのはヤマトの方の名だったんだろう。 >>84
僕が想像するところでは、
ユダヤ教にある昔世界の人々がしゃべってた共通言語の名残を多く残す言語が
日本語の元だと思ってる。 『後漢書』倭人伝 卑彌呼
女人は淫ではなく嫉妬もしない。また、風俗は盜みをせず、争訟は少ない。
一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。
ここにおいて(卑彌呼を)王に共立した。
『梁書』倭国伝 邪馬臺国
「邪馬臺国」に至る。すなわち倭王が居する所である。
『梁書』倭国伝 征東大将軍
土地は温暖、風俗は淫ではない。
魏の景初三年(239年)、卑彌呼は初めて遣使を以て朝貢し、魏は親魏王と為し、仮の金印紫綬を授けた。
正始中(240−249年)、卑彌呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺しあった
ので、再び卑彌呼の宗女「臺與」を王として立てた。倭王讃がいた。讃が死に、弟の彌が立った。彌が死に、
子の済が立った。済が死に、子の興が立った。興が死に、弟の武が立った。
斉の建元中(315−316年)、武を持節、督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍に除した。
高祖が即位すると、武の号を征東大将軍に進めた。
『北史』倭国伝 「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」
人はとても落ち着いており、争訟は稀で、盜賊も少ない。
大業三年(607年)、その王の多利思比孤が(使者を)遣わして朝貢。
使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。
国書に曰く「日出ずる所の天子、書を日沒する所の天子に致す。つつがなきや」云々。
帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ。」
『隋書』倭国伝
そこの俗では殺人、強盜および姦通はいずれも死罪、盜者は盗品の価値を計り、財物で弁償させ、財産のない者は身を没収して
奴隷となす。人はとても落ち着いており、争訟は稀で、盜賊も少ない。。婦人は淫行や嫉妬をしない。
新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。
『唐会要』倭国・日本国伝
咸享元年(670年)三月。遣使が高句麗平定を祝賀。以後は続いて朝貢に来る。
則天武后の時、自ら言うには、「その国は日の出る所に近い。故に日本国と号する。」
思うに、その名が雅でないことを憎み、これを改名したのであろう。 >>84
日本人の遺伝子分布を勘案すると、
大量に渡来した弥生人は、華北系で、
恐らくは半島でスンダランド系と混血してたと思うが、
純粋な華北系もいたかもしれん。
漢語使ってたのかもしれんよな。 杵築大社の天井図、八雲が一つ欠けて七つしかないだろ?
出雲地方で【オオナムチ】以前に信仰されていたのは【幸神】、【東!】から来て文物をもたらした【クナトの神】、そして二神の子【サルタヒコ】
追放されたんだろうな。八雲が欠けた理由
八雲を出た一族、出雲。
逃れたサルタヒコが見つかったのは、天の【八衢】
道が幾つにも分かれるところ、【方違】
堺に方違神社があって、方違【幸】大神が祀られている
畿内に逃れてきた幸神一族、出雲族と元々畿内にいたクナト族が一緒に国作りをしたんだろう
1世紀半ば〜2世紀後半の出来事
倭国大乱前に畿内にあったクニは、この二つの勢力が中心となってできたんだろうな 古代ならでは、私設の坊主が取り仕切っていたが、
これではまずいという事で、鑑真和上を招聘した。
ここから本格的な仏教が始まった。
呼んだのは天皇かな?飛鳥・唐招提寺だな。
和歌は、出雲で始まったという香具師もいるが、
どうなんだろうな? 【八衢】と延喜式祝詞にある道饗祭の神々との関係が興味深い
【八衢】彦、【八衢】姫、クナト
上記の神々は、高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。 >>8
麻生グループが宮崎駿にまで触手を伸ばしてたからなあ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています