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東京の中でも音楽を中心にしたカルチャーの街で知られる高円寺。混沌とした街には音楽やサブカルチャー、古着の店や飲み屋街が広がり、夏には阿波踊りが行われる。
市民の活気があふれるイメージが強く、市民運動やパレードをはじめとしたイベントも多く行われている。

そんなどことなく「変わった」街、「高円寺」。歴史を振り返りつつ、この先どうなっていくのかを追ってみた。

方向によって特徴が変わる駅周辺
高円寺駅は1964年に高架化されており、駅から北側にも南側にも抜けることができる。

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尖ったファッションの古着を販売している「キタコレビル」(筆者撮影)

駅周辺には10の商店街があり、北側には、詩人で直木賞作家のねじめ正一氏の小説の舞台にもなった「高円寺純情商店街」(高円寺銀座商店会)や「庚申(こうしん)通り商店街」がある。

南側にはアーケードが特徴的な「パル商店街」や「ルック商店街」(新高円寺通商店会)、西側には「高円寺中通り商店街」や中央線高架下の「高円寺ストリート」がある。

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高円寺駅周辺の地図(OpenStreetMapを基に筆者作成)

3方向それぞれに特色がある。北は八百屋やスーパー、電気店といった生活用品の店が多く立ち並び、南はスナックや古着屋が交じり合うエリアがあり、アーケード商店街にはさまざまな業態のチェーン店が目立つ。

特徴的なのは西で、高架下や高架横は居酒屋をはじめとする飲食店が多いが、奥に入ればレディー・ガガ氏のスタイリストが来たという「キタコレビル」、
活動家の松本哉氏が経営するリサイクルショップ「素人の乱」をはじめ、ゲストハウス、古本屋、トークライブハウスといった個性的な店が立ち並ぶ。

このような高円寺の街並みはいつ頃生まれたのだろうか。高円寺が栄え始めたのは、大正時代に青梅街道沿いの路面電車(現在の地下鉄丸ノ内線)と国鉄中央線高円寺駅が相次いで開業したことがきっかけだ。
それまでは東京郊外の農村で、江戸時代に開かれた寺院「高円寺」から一帯を「高円寺」地区として扱うようになっていった。

1922(大正11)年に国鉄中央線高円寺駅が開業し、その8カ月後に住宅地化を進める目的で高円寺耕地整理組合が設立され、桃園川の流路を直線化するなど宅地化に向けた取り組みが行われ始めた。

しかし、組合設立のわずか半年後、関東大震災が東京を襲った。幸いにして被害は大きくなかったが、高円寺の姿を変貌させるきっかけとなる。

人口が急増した
関東大震災をきっかけに郊外への人口転出の受け皿として、大きく人口を増やしたのだ。増加率は近隣地域で最も高く、1922年に約4000人だった高円寺地区の人口は、3年後の1925年には4倍以上の約1万8000人にまで増えた。
転入者の多くは東京都心へ勤める人で、東京出身者が多かったことが当時の資料からわかる。

また、そうした転出者相手に商売をしようとする自営業者も多く移り住み、商店街が大いににぎわうことになった。1930年代には高円寺の商店街が強い集客力を持つようになる。
近隣における一大商店街を形成し、1940年頃には隣駅の阿佐ヶ谷はもとより、現在では杉並区内最大の駅である荻窪よりも乗降客数が多かった。

続きはソースで
http://news.livedoor.com/article/detail/15985438/
2019年2月7日 5時10分 東洋経済オンライン