日本書紀には建国の詔が記されていますが、その中で神武天
皇は「恭みて寶位(たかみくら)に臨みて、元元(おおみたか
ら)を鎮むべし(謹んで皇位につき、大御宝、すなわち人民が
安寧に暮らせるようにしよう)」と即位の抱負を述べられ、さ
らに「六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめにし
た)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと、亦可からずや」
(国家をまとめて、都を作り、天地四方の人々が大きな一つ屋
根の下で仲良く暮らせるようにすることは、素晴らしい事では
ないか)」と語られています。


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亡命を視野に入れていたダライ・ラマ14世は16歳、法王を取り囲む僧たちの17条協定についての意見は分かれた。身ひとつで亡命する、過酷な運命の予兆におびえる者もいた。そして彼らは若き14世に説いた。
「われわれが中共を刺激さえしなければ、仏教が弾圧されることはない」と。
 51年9月、法王が開いた議会では、結局、毛沢東のチベット支配は象徴的支配にとどまり、僧院も仏教も、ダライ・ラマの神聖さも侵されはしないという希望的観測を結論とした。結果として、
法王は「チベット地方政府」の名において、毛沢東に17条協定承認の手紙を送ったのだ。