昭和13年(1938年)2月、ナチス・ドイツの迫害から逃れた大量のユダヤ人難民の第一陣がシベリア鉄道に揺られて満州国の最北端の満州里駅に近いソ連側にあるオトポールに到着しました。その数は2万人にまで膨れ上がります。(※1) 
ソ連は難民の受け入れを拒否。難民は満州国へ入国することを強く望みます。しかし、満州国も拒否。
極東ハルビン・ユダヤ人協会の幹部らは関東軍の特務機関長の樋口季一郎少将と会い、ユダヤ難民を救うように懇請します。
樋口少将はハルビン特務機関長となってから満州のユダヤ人を助けて第一回極東ユダヤ人大会を開く支援を行っていました。
このときの同志に陸軍士官学校の同期である安江大佐がおり、陸軍きってのユダヤ専門家でした。樋口はユダヤ人難民を救う決断をします。
そして満州国外交部に働きかけ、満鉄総裁の松岡洋右とも折衝し、難民を特別列車でハルビンまで受け入れることを認めさせました。
樋口は関東軍の参謀長だった東條英機中将に「参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱いものいじめをすることは正しいと思われますか」といって説得しました。
東條英機は筋さえ通れば、話のわかる人でした。