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■麻生鉱業の徴用  

戦前、納屋制度などがあり労働環境が劣悪だとして問題になることがあった。p  
筑豊地方において同社は三菱系についで朝鮮人炭鉱労働者、被差別部落民が多かった。
1932年7月25日には朝鮮人による労働争議が起き、これは筑豊全体に広がる大規模なものであった。
この背景としては以下のようなものが挙げられる。

・長時間労働で危険な仕事にもかかわらず他の炭鉱より安い賃金(他の炭鉱の二分の一ほどの給与)
・さらに朝鮮人労働者は給料が2割カットされていた。
・食事や住居等最悪の生活環境。
・日常茶飯事の暴力。
・朝鮮人労働者の休日が無いこと。
・場所によっては無給で働かされていたこと。

などが原因となった。この争議には全国水平社も朝鮮人側を支援。
対する炭鉱側は警察や暴力団員、特高を動員して争議は行われ、
9月3日には現職復帰109人、解雇191人をもってこの争議は終了した[3]。

1939年時点で麻生炭鉱には約1000人の朝鮮人労働者がおり、
労働環境は過酷でダイナマイトなどを使う危険な作業により1日に一人から二人は亡くなり、
1940年代以降、朝鮮人労働者が大きく増えたため朝鮮人寮が別途あったが、
自由のない収監所同然の生活だったと中央日報は主張している[4]。
 
さらに賃金がまともに支給されなかったり、日常的に暴力を振るわれたりするなどした結果、
1944年に福岡県が作成した「移入半島人(朝鮮人)労務者に関する調査表」によれば、
過酷な労働環境により麻生鉱業の全労働者7996人のうち61.5%にのぼる4919人が逃走したとされる[4]。