◆司令官の資質に欠ける

1941年12月8日、フィリピンの指揮官となっていた
ダクラス・マッカーサーは真珠湾攻撃の報を受ける。
側近は先制攻撃を具申するも反応が無く、
爆撃機を安全地帯に避難させるとの意見にも答えず、
「彼は9時間、ただうろつくだけだった」

クラークフィールドの戦闘機や爆撃機は空中で待機することとなったが、
燃料が尽きて飛行場に降りたところで200機の日本機がやってきて、地上にて壊滅した。

◆十余万人の兵を残して脱出

1942年3月11日、
コレヒドールを攻めあぐねる日本軍は攻撃を中断していたが、
その最中、マッカーサーは腹心の部下と妻子を伴ってオーストラリアに脱出。

4月9日、日本軍がバターン半島を制圧すると、米比の将兵7万人が降伏。

◆「死の行進」への疑問

マッカーサーは卑怯者と呼ばれ、
「ダグアウト ダグ」(ベンチに籠もったまま出てこないダグラス)とあだ名されていた。

「彼は・・・バターン降伏後の出来事を日本軍の虐殺行為に仕立て、
誇大に騒ぎ立て・・・、
自身への非難を矮小化しようとし、それは成功した。」

この”死の行進”のルートを歩いた、ジャーナリストの笹幸恵氏は、
「全行程はたった約120キロ。うち半分は貨車輸送で、
米兵はそれを4,5日掛かりで歩かせられたことにしている。
笹氏は貨車輸送の区間も含めて
その道を4日間でちゃんと歩き通して見せた。」