マッカーサーが、日本に来て為そうとしたことは、
「復讐を実行しつつアメリカは正義で日本は不義だと世界と日本人に刷り込むこと」である。

その為に、彼が実施したのが東京裁判と他の多くの戦犯裁判だ。

そこで、これらの裁判では、起訴状は連合国側つまりマッカーサー側が提出するのであるが、
日本側からもその起訴状を補強し裏付ける文書が必要だと彼とその幕僚(コミンテルンのフロント達)は考えた。
そして、その為の文書として日本国憲法がつくられた。

彼は自分が屈辱を受けたフィリピンの二人の将軍に対して、襲いかかるように復讐する。
かつて緒戦でシンガポールを陥落させたマレーの虎といわれた猛将の山下奉文大将は、フィリピンで投降したが
この山下大将に対して、マッカーサーは
日本 に来た翌月の昭和二十年十月二十九日に裁判を開始し、
同十二月七日判決で翌昭和二十一年二月二十三日に軍服も着せずに絞首して殺している。

マッカーサーをコレヒドール島から追い出した昭和十七年の第十四軍司令官本間雅晴中将に対して、
昭和二十年十二月十九日に裁判を開始し、
翌二十一年二月十一日判決、
同四月三日午前0時五十三分死刑執行。
この本間中将に対する判決日は紀元節二月十一日である。