日米戦争を策謀したのは誰だ!より (著)林千勝
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ルーズベルトの思惑を知っていたヒトラー率いるドイツ軍は、実質上大西洋でアメリカ海軍から攻撃を受けていましたが、
耐え難きを耐え、アメリカのどんな挑発にもすべて自重していたのです。このことはルーズベルトやフーバーに関する章で述べました。  

真珠湾攻撃が亡国の道であることを、豊富な情報を持つ近衛は熟知していました。近衛と山本はしばしば密に情報交換をしています。
昭和十六年(一九四一年)九月十二日にも、近衛は山本と秘密裏に会っています。

「真珠湾をやった場合、超大国アメリカを本気で立ち上がらせてしまうのだから、結局は日本に勝ち目がない」と山本も認識していました。
「最初の一年や一年半はともかくそれ以降は見こみがない」ことを山本は近衛に正確に伝えています。
彼が「対米英蘭?戦争終末促進に関する腹案」を徹底的に壊すのですから、見込みゼロです。
現に緒戦の勝利で人々が喜びに沸いていた時、近衛や風見は冷静でした。  

十二月 八日、風見は息子に「第一撃は立派だが、いずれ日本は負ける運命にある」と話しています。風見と山本も親密な仲でした。

風見は山本への手紙を新聞記者に感づかれないようにとの理由で、秘書ではなく長男の博太郎に持って行かせていました。
山本から風見への手紙は、風見自身が終戦後すぐにすべてを焼却します。長男はのちに次のように回想しています。

「親父は終戦後三日か四日、一週間もしないうちに手紙を全部焼いてしまった。
それは徹底していて、それまでのものを全部。他人に迷惑をかけるのが一番いかんというのが、親父の考えだった。
僕が見たら近衛さんの手紙、山本さんの手紙、米内さんの手紙だとか、いろいろな人の手紙がある。
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僕は焼くのはもったいないと思ったから、『こういう手紙は焼かずにしまっておいた方が、いいんではないか』と親父にいったらね、
『そんなことを言うな。もし万が一それがもとで迷惑をかけたらどうするんだ。米軍なんて何をやるかわからんのだから。間違いがない
ようにこういうふうにやるんだ』」

まず長男の目についたのは、近衛、山本、米内からの手紙だったのです。特に数が多かったということです。
「迷惑をかけたらどうするんだ」と言っていますが、山本は二年以上前に亡くなっています。

近衛、山本、米内からの手紙を終戦後すぐさま焼いたのは、絶対に残してはいけない真実が彼らとの手紙のやりとりに書かれているからです。  
また、山本、米内との手紙のやりとりの多さ自体も隠しておきたかったでしょう。

山本は左派の言論人や学者たちと親しい付き合いがありました。
昭和十六 年(一九四一年)四月には、なんと十二人の言論人学者グループが、
横須賀の連合艦隊旗艦長門に山本長官を艦船見学の名目で訪ねています。

東京朝日新聞論説委員で風見や尾崎と親しく昭和研究会の設立発起人であった関口泰を始め、
政治学の矢部貞治、経済学の大河内一男など昭和研究会の顔ぶれです。