ゾルゲ事件との関わり
1928年(昭和3年)6月から内務省警保局、拓務省管理局に勤務し、左翼運動の取締と国際共産主義運動の調査研究に従事した後、
衆議院議員となり中野正剛と共に東條内閣倒閣運動に加わった三田村武夫によれば、1941年(昭和16年)10月15日に
検挙された尾崎秀実と特別の関係にあった陸軍軍務局関係者は尾崎の検挙に反対であり、

特に新聞記者として駐日ドイツ大使オイゲン・オットの信頼を得ることに成功していたリヒャルト・ゾルゲとの関係において、陸軍は捜査打ち切りを要求したが、
第3次近衛内閣の総辞職後に首相に就任した東条英機は尾崎の取り調べによって彼と近衞との密接な関係が浮かび出てきたことを知り、
この事件によって一挙に近衞を抹殺することを考え、逆に徹底的な調査を命じた。

しかしその時点は日米開戦直後で、日本政治最上層部の責任者として重要な立場にあった近衞及びその周辺の人物を
この事件によって葬り去ることがいかに巨大な影響を国政に与えるかを考慮した検察当局は、
その捜査の範囲を国防保安法の線のみに限定せざるを得ず、彼等の謀略活動をできる限り回避すべく苦心したという。
B
1942年(昭和17年)11月18日、近衞は予審判事・中村光三から僅かな形式的訊問を受け、
「記憶しません」を連発し尾崎との親密な関係を隠蔽したが、
元アメリカ共産党員の宮城与徳は検事訊問(1942年3月17日)に対して、「近衛首相は防共連盟の顧問であるから反ソ的な人だと思って居たところ、
支那問題解決の為寧ろソ連と手を握ってもよいと考える程ソ連的であることが判りました」と証言した。

国家総動員法や大政翼賛会による立憲自由主義議会制デモクラシー破壊に猛反対した鳩山一郎は、これより前に日記(昭和十五年十一月一日の条)に、
「近衛時代に於ける政府の施設凡てコミンテルンのテーゼに基く。寔に怖るべし。
一身を犠牲にして御奉公すべき時期の近づくを痛感す」と書いていた。

海軍大将・井上成美は、近衞文麿については終始辛口だった。
「近衛という人は、ちょっとやってみて、いけなくなれば、すぐ自分はすねて引っ込んでしまう。
相手と相手を噛み合せておいて、自分の責任を回避する。

三国同盟の問題でも、対米開戦の問題でも、海軍にNOと言わせさえすれば、自分は楽で、責めはすべて海軍に押し付けられると考えていた。
開戦の責任問題で、人が常に挙げるのは東条の名であり、むろんそれには違いはないが、
順を追うてこれを見て行けば、其処に到る種を播いたのは、みな近衛公であった」

*補足 鳩山一郎の日記には、「贅沢は敵だ」がレーニンの敗戦革命スローガンであり、戦時右翼の正体が天皇尊重を偽装した
マルキストつまり左翼であったことなど、大東亜戦争の真実を穿つ貴重な記述が多い。