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支那事変解決と日米戦争の回避に向けた模索
8月頃には北進論は、アメリカによる石油禁輸による影響から完全に影を潜めた。
陸軍は年内の北進を実行に移すことを諦め、外交交渉の可能性も言及しつつも、来年の北進に備えて南方資源地帯の確保を視野に入れはじめた。

これに対し、永野は、日米両国間の最大の懸案となっている日華事変の早期解決を実現するため、
援蒋補給路遮断を目的とした昆明封鎖作戦を昭和天皇に上奏するが、海軍の一連の動きを知った
陸軍参謀総長・杉山元と内大臣・木戸幸一の働きによって3日で葬られてしまった。
昆明を封鎖することで、日本の外交優位を作り、支那事変講和のための糸口を作ろうとしたのではないかと推察している。

1939年(昭和14年)以来、アメリカからの経済的制裁を受けるようになっていた日本は石油などの不足資源の多くを蘭印からの輸入に頼っていた。
6月5日に海軍省で算定した結果によると日本国内には1年半〜2年分しか石油備蓄がなく、このことは海軍の軍令を司る立場にあった永野にとって死活問題だった。
また、一部報道では過激な開戦派によるクーデターとそれに伴う国家の暴走を警戒していたともいわれている。

7月30日、ABCD包囲網について昭和天皇から意見を求められた際には、海軍としては対米戦を決断するならば早期に開戦をした方が有利と奉答している。
その手段として、日米交渉が決裂した場合に備え、連合艦隊司令長官だった山本五十六が進めていた真珠湾攻撃作戦を採用した。
山本のハワイ作戦については、その投機性の高さから軍令部内では反対する意見が根強くあった。

当初、永野自身もアメリカとの戦いについては南方資源地帯の確保と本土防衛を主軸とした漸減邀撃作戦を構想しており、
太平洋まで出てアメリカと直接対決する想定しておらず、「余りにも博打すぎる」と慎重な態度を示した。
しかし、山本が本作戦が通らなければ連合艦隊司令部一同が総辞職すると強く詰め寄ったため、11月5日、最終的に永野が折れる形で決着した。
C
太平洋戦争開戦劈頭は12月8日の真珠湾攻撃から帰還した兵士達の戦果を労ったり、訓示した際には涙を見せたという。
それを見た反戦派軍人は「軍令部総長は年を取りすぎた」と嘆く者もいたが、永野がどういう意味で涙を見せたのかはわかっていない。
大戦に突入後、連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将は自らの主張が叶わなかったこともあり、強く中央に反発、独断的な態度をとるようになった。

このため、永野は、山本を諭すのは難しいと判断、現状をよく理解していた山本連合艦隊司令長官と伊藤整一軍令部次長以下に任せ、
戦死者の墓碑銘を書く日が多かったと言われている。

東京裁判
米国戦略爆撃調査団が永野に質問を行なった際、その中には、なぜ日本海軍は無差別潜水艦作戦を実施しなかったのかという潜水艦の用兵に関する質問があった。
永野は戦争中海軍の軍令の最高責任者を長く務めたにもかかわらず「残念ですが、私は潜水艦については詳しく知りません」と陳述した

裁判途中の1947年(昭和22年)1月2日に寒さのため急性肺炎にかかり巣鴨プリズンから聖路加国際病院へ移送後同病院内で1月5日に死去した。
*補足 実際は1月5日11時50分に両国の米陸軍第361野戦病院で死去。

また、最終的に開戦を覚悟した原因については日本国内の事情だけではなく、アメリカ側も既に日米開戦を決意しており、
アメリカ政府主導のもと日本本土への先制攻撃(空襲)を計画していた。

・永野は大の親米派で、駐米勤務時代には「軍人でなければ、(アメリカに)住み続けたい」と話していたという。
・極東国際軍事裁判(東京裁判)においても他の多くの被告達が自らの弁明をする中、一切を語らず、
戦争を防止できなかった責任は自らにもあるとして敗戦の将らしく潔く裁判を受け入れたが、
この永野の態度に感銘を受けたアメリカの将官が永野に賛辞を送ったエピソードが残されている。.