日米戦争を起こして不可解な政策、戦術、作戦を実行して日本を敗戦に追い込んだ国際金融資本、共産主義スパイ 1

◇風見章 wiki
は、日本の昭和期の政治家。立憲民政党、国民同盟、日本社会党に所属の衆議院議員。
第1次近衛内閣で内閣書記官長、第2次近衛内閣で司法大臣。
1954年1月には憲法擁護国民連合の代表委員となり、翌1955年1月に左派社会党に入党、10月の左右社会党統一時に党顧問となった。
日ソ協会副会長、日中国交回復国民会議理事長、アジア・アフリカ連帯委員会代表委員、世界平和評議会評議委員として活動。

1957年には訪中して周恩来と会談した。
また、岸信介内閣の台湾政権支持、長崎国旗事件に反発し、
1958年7月14日、中島健蔵、細川嘉六、伊藤武雄と連名で中国への「侵略」に対する「反省声明」を発表した。

ソ連国家保安委員会第一総局(現・ロシア連邦保安庁)の非公然情報戦(「積極工作」)
を研究している筑波大学名誉教授の中川八洋は、風見を「親ソ一辺倒で過激な共産主義者」と評している。

尾崎秀実をマルクス主義の殉教者と評し、「わが尾崎が、絞首台にはこべる足音は、天皇制政権にむかって、弔いの鐘の響きであり、
同時に、新しい時代へと、この民族を導くべき進軍ラッパではなかったか、どうか。
解答は急がずともよかろう。歴史がまもなく、正しい判決を下してくれるにちがいない」と述べている。

1938年7月、5・15事件で服役中の海軍中尉の古賀清志らが特赦で出獄し、山本五十六海軍次官と風見内閣書記官長のところへ挨拶に行って、
それぞれ千円(2018年現在の貨幣価値で500万円)ずつもらったという。

風見と米内光政とはとても親しい間柄でさかんに行き来や文通をしていた。風見が米内のもとへ出向くといつも山本五十六がいて、三人で策を練っていた。

長男の風見博太郎によると、風見は近衛文麿、山本五十六、米内光政と数多くの手紙のやり取りをしており、終戦後すぐにすべてを焼却した。.