日本へ帰還後の作戦研究会でも「屍に鞭打つ必要なし」として、大敗北の責任の追及や敗因研究が行われることはなかった。
7月12日、山本以下連合艦隊司令部参謀達(宇垣は参加せず)は料亭で宴会を行い、
着任したばかりの土肥一夫少佐によれば一同何事もなかったかのように陽気であったという。

また、9月初頭と爆撃前日に降り続いた雨により湿気があったためもあり、空襲による森林の延焼は本格的な消火活動が行われる前に自然消火するなど、
空襲による直接的な被害は大きなものではなかったが、アメリカ史上初の敵軍機による本土空襲を受けてアメリカ政府は、
太平洋戦線における日本軍に対する相次ぐアメリカ軍の敗北に意気消沈する国民に対する精神的ダメージを与えないために、
軍民に厳重な報道管制を敷き、この空襲があった事実を極秘扱いにした。
B
山本は、早期に航空戦力の有効性に気が付いて重視し、航空戦備を推進した先見性が評価される一方で、
南方作戦後は作戦の失敗が続き、航空戦力を消耗させており、航空戦力を本当に理解できていたのかなど、山本の戦略を疑問視する意見もある。

淵田美津雄大佐は、山本が戦艦「大和」を安全な戦線後方に温存し遊兵化したこと。
「い号作戦」で圧倒的物量を持つ米軍相手に航空消耗戦を挑み、再建したばかりの空母機動部隊搭乗員をさらに消耗させたことを批判して山本五十六は凡将だったと語っている。

中島親孝中佐は、日本戦艦として比較的高速の「大和」と金剛型戦艦を先頭に立たせれば戦艦の価値を発揮できたとし
「空母機動部隊の価値も、米軍のそれを見せつけられるまで、ほんとうには悟れなかったのではあるまいか」と語っている。

アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツは、山本に関し、米軍の侵攻への防衛戦となってからは戦況推移に沿った指揮ではなく、
真珠湾攻撃後の南雲機動部隊を西太平洋・インド洋方面に転用したことで、米軍に衝撃から立ち直る時間を与えており、この時間が最大の助けになったと語っている。

<交際関係>
大柄で重厚な米内光政とは容姿・性格双方で対照的だったが、親友となった。
東條英機をよく思っておらずニュースで名前を聞くと、よく皮肉の対象にしていた。

「長門」や「大和」には山本宛に大量の手紙が届いたが、「連合艦隊司令長官様」は公文書、
「山本五十六様」は私信で、私信は山本自ら返信を書いた。1日30通の郵便を出したが、ほとんど私信への返信である。.