嘉麻市碓井平和祈念館から(1)

 終戦後5年近くが過ぎた1950(昭和25)年4月、28歳の元海軍一等兵曹が遺書をしたためた。21枚の便箋に残された両親、妻子らに宛てた約7千字の遺書は、BC級戦犯の藤中松夫がスガモプリズン(東京拘置所)で4月7日未明の処刑直前までの一昼夜をかけて書きつづったものだ。

 復員後、筑豊の炭鉱で働きながら妻の実家で農業を営み平穏に暮らしていた藤中は、45年4月、沖縄戦の最中に石垣島で起きた米兵3人の処刑事件の罪を問われ、47年4月に進駐軍に捕らえられた。上官の責任が曖昧なまま裁判は進み、斬首・刺突による処刑は多くの兵を含む共謀による殺害と断じられ、41人に絞首刑が言い渡された。

 石垣島事件はBC級戦犯を裁く横浜裁判でも注目を集めた事件であった。判決後2回の減刑があり、最終的に下士官2人を含む7人が極刑に処せられたのである。上官の命令は天皇の命令と言われた旧日本軍の中で、下級幹部である下士官が上官に従うしかなかったことは想像に難くない。連行前に福岡市で行われた事情聴取で、上官を思い命令であったと話さなかったことが藤中の命運を分けたとも考えられる。

 仏教徒であった藤中が、獄中で過ごした3年間で信仰を深めていく様子が残された手紙から読み取れる。一時期同じ房だった加藤哲太郎が著書「私は貝になりたい」で、故郷の自宅近くを流れる遠賀川の水音を懐かしみ就寝前に水洗便所の水を流していた藤中のエピソードを描いている。死刑囚棟を出られた加藤が、2回目の減刑の新聞記事を階下から読み上げた時、藤中は自分の名がないことに大きく落胆したという。

 処刑から2カ月後に朝鮮戦争が始まり、スガモプリズンではその後の戦犯処刑はなかった。「父は何故死んで逝(い)かねばならないか」。愛する息子たちに託した言葉は遺書にひときわ大きく記されている。「戦争絶対反対」を子にも孫にも叫んでいただくとともに「世界永遠の平和」のために貢献していただきたい、と。

(嘉麻市碓井平和祈念館学芸員 青山英子)

2020/5/22 7:00 西日本新聞 筑豊版
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