【古代】年代、DNA語るイネの中の「プラント・オパール」 稲作のルーツに迫る 宮崎大で研究40年 [樽悶★]
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イネのプラント・オパール。イチョウの葉のような形が特徴だ=宮崎大提供
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20210330001337_comm.jpg
植物の細胞壁に含まれる微小な石「プラント・オパール」から、日本の稲作のルーツに迫ろうという研究が、宮崎大学で40年以上にわたって続いている。最近は土から大量に抽出する方法が確立され、DNAを取り出して分析することや、年代を測定することも可能になりつつある。
プラント・オパールは植物の細胞壁にケイ酸が蓄積されてできる石で、穀物や竹などイネ科の植物を支える「骨格」の役割も果たす。形や大きさは植物の種類で異なり、イネはイチョウの葉のような形が特徴。1980年代に青森県の水田遺跡で次々と検出され、弥生時代の東北地方に稲作が到達していたことを示す資料として注目された。
その検出を手がけたのが、宮崎大学農学部の藤原宏志名誉教授だった。70年代からプラント・オパールを農耕史の解明に応用する研究を進め、80年代に研究法として確立。中国・長江流域の草鞋山(そうあいざん)遺跡などでも日中の考古学者らと共同調査を進めてきた。
藤原さんから研究を引き継いだ同学部の宇田津徹朗教授(地域農学)が15年ほど前から進めてきたのが、プラント・オパールによる年代測定法の開発だ。遺跡の年代は、出土した土器の形や、炭化米など有機物の放射性炭素(C14)を使った年代測定で判定されるが、水田遺跡ではこうした土器や有機物が出土しないケースも多い。プラント・オパールで年代が分かれば大きな手がかりになる。
「プラント・オパールは元々、米国で1960年代にC14年代測定の材料として注目されたが、当時の方法では100キロ単位の土からプラント・オパールを取り出す必要があり、あまり普及しなかった」と宇田津さんは話す。だが80年代以降に加速器を使って微量の試料からでも年代測定が可能になり、材料としてプラント・オパールが再び注目されることになった。
宇田津さんの研究チームが最初に注目したのは、海外にも報告例があった、プラント・オパールが形成される際に中に閉じ込められた細胞の有機物だった。測定に必要な有機物を得るには約0・3グラム、およそ400万個のプラント・オパールが必要。そこで、チームはまず土の中からイネのプラント・オパールを効率的に取り出す手法の開発に着手した。フィルターや薬品で特定の重さ、比重の粒子を選別する方法などで、100グラム単位の土から測定に必要なプラント・オパールを抽出する技術を確立した。
しかし、そのC14年代も考古学による推定と一致するケースと、より古くなるケースがあり、安定しなかった。宇田津さんは、プラント・オパール内の細胞には土中の古い有機物の炭素が取り込まれ、年代が古く出る場合があると判断。そこで現在、新たな測定対象として、プラント・オパールの表面に残った微小な植物繊維に注目し、それを大量に集めて年代を測定する研究に取り組んでいる。
一方、この年代測定の研究でプラント・オパールを大量に集める技術が確立できたことで、その内部に残されたDNAでイネの種類を見分けられる可能性が出てきた。宇田津さんは7年前から弘前大学の田中克典助教(植物遺伝学)と協力し、プラント・オパール内部のDNA抽出と解析を進めている。
これまでに長野県(平安時代)、愛媛県(古墳時代)、宮崎県(弥生時代末〜中世)の水田遺跡で耕作土を採取し、ほとんどの試料から葉緑体由来のDNAが得られたほか、一部は細胞核のDNAも取り出すことができた。
日本で作られてきたイネには、整備された水田に適した温帯ジャポニカと、より厳しい環境でも生育する熱帯ジャポニカがあり、プラント・オパールの形では、その水田で栽培された中心的なイネを見分けることしかできない。しかし、DNAなら複数種のイネの存在を見分けることが可能だ。長野県の遺跡で採取されたプラント・オパールは形状で熱帯ジャポニカと判定されたが、細胞核DNAからは温帯ジャポニカも存在したことがわかった。
昨年度からは文部科学省の科学研究費による5年間の研究プロジェクトを立ち上げ、実用化を目指して、より多くのデータの蓄積と、葉緑体DNAで種類を判別する研究などを進めている。宇田津さんは「水田跡探しに使われてきたプラントオパールから、さらに年代やDNAも調べることが国際的に一般化すれば、稲作が伝わったルートや、人々が環境変動にどう対応してきたかが見えてくるのでは」と話している。(今井邦彦)
朝日新聞デジタル 2021年3月31日 10時00分
https://www.asahi.com/articles/ASP3Z4443P35TIPE00V.html
2021/03/31 22:35
https://note.com/xanqo_10post_jgo/n/n4b4531092fe9 どのように詳しく調べても中国から来たと言う結論しかないでしょ 中国で真っ白な餅つきしてるとき日本人は木の実をこねて木の実ケーキ焼いてた
ものすごい差だわね 俺説では、稲は渡り鳥や台風で
有史以前に日本に運ばれて来ていたw >>2
その当時のDNAには毒は入ってなかっただろうからまあいいんじゃね >>2
中国の広さを知らんのか
北ルートか南ルートかで全く意味が違うぞ >>5
朝鮮半島も島国だろ?
飛び飛びでしか遺跡残ってないだろ?w
古代は支那大陸ではなくて
島国がたくさんあったんだろう。 チンチャ、チンチャカムサハムニダ。
大兄韓国のおかげで飢えることなく白い米を腹いっぱい食べられる、それなのに我々クソジャップは兄さんを侵略して虐殺やレ☆プしたよね(´・ω・`) >>1
日本の農業はほとんどが半島経由で伝わったと習ったけど? 中国は常に超先進国
そのうち家電や自動車も中国からの輸入が普通になるだろね
日本はまた土民暮らしに戻るよ >>2
直接来たのか、朝鮮経由なのか、フィリピン→台湾→琉球経由なのか
3パターン同時かがわかるだけでもすごいぞ 『山海経』海内北経に、「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕」という一節がある。
鉅燕とは春秋戦国時代(えん、紀元前1100年頃 - 紀元前222年)の燕。
蓋国とは今の北朝鮮地域をさし、その南(今の韓国地域)には倭がある。
倭は燕の属する。
建武中元二年(57年)『後漢書」に光武帝が倭奴国を「倭國の極南界なり」とある。
つまり、奴国(今の博多湾沿いに有った国)は倭国の南の端であると
倭国の本拠地は半島南部で海を渡った島の南端に奴国があると西暦57年の時点では。 高句麗は建国時より多数の部族により形成され、高句麗内の部族を5つ(五部)に再編された。
それが高句麗五部族制で、『新唐書』「東夷伝」高麗伝によれば、以下の5つである。
内部(桂婁部、黄部とも)
北部(絶奴部、後部とも)
東部(順奴部、左部とも)
南部(灌奴部、前部とも)
西部(消奴部とも)
この内南部(今の韓国地域)が(灌奴部かんのぶ、前部とも)
この(灌奴部かんのぶ、前部とも)が後の時代に灌→韓の字が当てられ韓奴部となった。
それらの国々を馬韓、辰韓、弁韓、と名付けられたのだ。 >>2
>どのように詳しく調べても中国から来たと言う結論しかないでしょ
稲作の伝播が朝鮮を経由していないという不都合な真実が明るみに そして、高句麗の「数詞」はヒフミ、ナナ、ト、と発音してた形跡がある
言語学の世界でも日本語族が半島を南下して日本列島に入ったと考えられてる。 >>2
海没した東南アジアのスンダランドが米の原産地って説がある
氷河期が終わりスンダランドが水没して北上したグループが日本に持ち込み
鬼界カルデラ噴火で日本から逃れたグループが中国南東部に持ち込み
弥生時代に逆輸入されたっぽい >>28
それは単純に多民族国家だっただけなんじゃ。 もっと大きな湖だったのかな?と思える地点や、
かつては海と繋がっていた?と思える湖や、
川が干上がった跡?と思える地点や、 万葉集にもある歌垣の風習
かつて長江流域にいたミャオ族等にも同じ風習がある 長江流域と畿内でしか見つかっていない石包丁のタイプがある
稲作民の一部は長江流域から直接近畿に渡来したんじゃないかな >>14
水稲栽培をするには朝鮮半島は気候的に適さないのと
朝鮮半島北部には水田遺跡がない
稲作麦作の境界である秦嶺・淮河ラインから半島南部が境界だから
北ルート(遼東半島経由)より南ルート(沖縄九州経由)の方が有力 >>1
>青森県の水田遺跡で次々と検出され
>弥生時代の東北地方に稲作が到達していたことを示す
稲作=水田 これ間違いだよ!
もともと稲は畑で作るものだから!
江戸時代まで稲の大半は畑で作られていました
水田が普及するのは明治以降のお話ですよ >>4
いまの若い日本人の祖父母世代が海外旅行してた頃に、シナチョン猿は年に一度しか肉を食えない最貧国だよw 古代日本からすると朝鮮半島は山東半島へ渡るための経由地でしょ
そう考えると中国南部から沖縄九州ルートと、中国沿岸→山東半島→朝鮮南部(倭国領域)の二つのルートが考えられる >>34
なんで「北部ルート」に限定するのか意味わからんが、
漢の楽浪郡には水田があり、
日本になかった水車を高句麗の曇徴が伝達してるとおり、
朝鮮半島中部にはまず間違いなく水利農法はあるぞ
中国から九州南部に伝わったのが早いにせよ、
漢の楽浪郡から南部三韓に伝わっていたものがほぼ同時の可能性は否定できない
あ、ごめん
おまえ北朝鮮系のペクチョンか
じゃNG >>35
全然違う
> 縄文晩期、北九州地方に伝来した水田稲作技術は、
その後、弥生時代になって急速に日本列島を東へと伝播し始めます。
現在まで、弥生時代の水田は全国で20か所以上見つかっています。
最も有名なのが(5)静 岡県の登呂遺跡(弥生後期)で、その遺跡から発見されたのが図1-2のような農具です。
前に述べた佐賀県の菜畑遺跡では、弥生時代前期の層から大型の水 路、堰(せき)、取排水口、木の杭や矢板を用いた畦畔(けいはん)といった大規模な水田遺構物が出土しています。
すなわち、この地域では縄文後期から引き つづいて水田稲作が行われていたと思います。
垂柳遺跡(青森県) まで到達してる
来日したんだから日本史を勉強しよう
てか祖国に帰れ 楽浪郡帯方郡が安定していた時代は半島南部を大陸の根拠地とした倭国との往来が特に盛んだったようで
海洋民族倭人の航海術恐るべし >>1
>土中の古い有機物の炭素が取り込まれ、年代が古く出る場合があると判断
判断と言うより「仮説を立てた」って感じではないかと思われますが もう3回くらい自分の分身があったら、こういう研究に携わってみたかったな (‘人’)
<丶`∀´>半島に肥沃な土地も無いのに稲作とか小麦とかバ力じゃネーの?(笑) 水稲(弥生人)の伝播ルートは学会では「長江 → 山東半島 → 遼東半島 → 朝鮮半島 → 北九州」でほぼ決着ついてる。
・日本には陸稲の痕跡はあっても農具が無かった
・その為に水田が現れた時に用いた農具はすべて外来のもの
・石包丁などの穂摘みの道具は朝鮮半島から伝わった
・日韓とも雑穀と稲との混合栽培であり、これが生まれたのは山東半島付近
・稲作伝来時、中国の江南はすでに鉄器時代で、鉄製の農具が一般化していた
・しかし、中国の鉄製の農具は日本に一つも伝わっていない
・弥生人が使っていたのは木製のクワであり、朝鮮半島の農具と同期している
プラントオパールは粘土の粒子よりも小さくて地層を潜っていってしまうため稲作開始の証拠に使えない。
稲作と馬は、縄文時代から持ち込まれていたと強弁する者もいるが
考古学では農具や馬具がいつごろ導入されたかが重要視される。
炭化米、土器、圧痕、山東半島で検索すれば論文がいくつか見つかる。
日本の研究者も現地に行って調査している。江南渡来説を唱える研究者はもういない。
このことから朝鮮半島を通って日本に伝わったという考えが定説になっている。
■ (佐藤洋一郎「DNAが語る稲作文明・稲作の伝播ルート」)
https://www.koreabang.com/wp-content/uploads/koreabang/2012/11/migration-route.jpg ドルメン(支石墓)の分布
http://4.bp.blogspot.com/-cJfnCZ72usU/U5VRy43i3NI/AAAAAAAABHQ/JchKHt5QTH4/s0/Dolmens_in_East_Asia.jpg
朝鮮において水稲作が開始した無文土器時代に支石墓が現れることなどから、支石墓の担い手は日本列島、朝鮮半島へ水稲栽培をもたらした(ハプログループO1b2)と推定される。
支石墓(ドルメン)も半島から伝来してるから、縄文時代から半島人は渡来してきてる。古代の王族、氏族はほぼ100%朝鮮渡来人。 >>17
半島で同年代のプラントオパールが見つかっていないからその説はどうかな? 司馬遼太郎
「平安時代までの日本文化は外国のもの。日本が日本らしくなったのは鎌倉時代以降であろう。」 >>2
朝鮮半島を経由していない伝播ルートが明確な証拠として判明する
さらに
中国→日本→朝鮮半島という伝播ルートが明確な証拠としても判明する
さらに
朝鮮半島南部は日本の一部だったという事実が上記の明確な証拠によって判明する
つい先月も前方後円墳を埋め戻し無かったことにしていたが、「ウリが稲作を教えてあげたニダ」などという妄言のまかり通る現代朝鮮半島が、いかにキチガイ民族だらけなのかという証明になる >>48
>佐藤洋一郎(69)
元京都府立大学、立命館
バリバリの共産サヨク学者だな
お仲間も共産系の学者ばかり >>52
なにが明確な証拠だよ。論文もないくせに
「江南人が船でどんぶらことやってきて日本に稲作を伝えたんだよ〜!」
なんてネトウヨのバカ脳内妄想ファンタジーを支持する学者、世界に一人もいねーよ
>>53
お得意の「サヨク学者の捏造!」か。都合が悪くなったら、反知性に逃げるネトウヨらしいな >>49
そのような遺跡のひとつを
1993年北朝鮮は檀君の墓と断定し
底面の一辺50メートル・九層構造の
巨大なコンクリートのピラミッドを建築
1994年檀君陵を完成させた
5,000年前に実在し世界最初の文明・朝鮮文明の開祖、檀君の墓が北朝鮮にある 何を言ったところで14世紀にエラチョンに民族が変わってるからな
李氏朝鮮の出来方
1385年 高麗の将の李成桂が海賊倭寇を撃退して調子に乗る
1388年 李成桂が32代王の明討伐命令に逆らい
高麗の都に兵を向かわせて軍事クーデターをおこし成功
李成桂が新たに9歳を33代王にする
1389年 李成桂が10歳王とその家族を殺害 高麗正統王家途絶える
李成桂が20代王の7代孫を34代王として擁立
1392年 34代王が李成桂に王位を禅譲(実際は簒奪)李氏朝鮮誕生
34代王はのちに家族とともに李成桂に殺される ちょいちょいウリナラファンタジーを書いてるけど
めんどくさいから突っ込まないけど通ったとは思うなよエラ 地理の時間で中国北東部はコーリャンや麦しか取れないって習ったわ
米が育たないからな、それを同じ社会の先生に朝鮮半島から米が渡るのはおかしいって告げたら、文科省の中枢にチョンがいるからだろうって言ってたわ
教える先生も知ってて言ってるみたいやな >>54
最古の米出土の年代がつながらないのは何でなんですかねぇ
半島だけ遅れてるから早く見つかるとイイネ 朝鮮半島伝来説が否定されると困る奴が多いから今後ニュースにはならなくなるな >>54
縄文人は海洋民族だとほぼ確定してるから
長江文明との交流(交易)はあったと考えるのが妥当
古代中国の文献に入墨をした縄文人の記述が残ってるしな >>58
その人、地理教えているくせに朝鮮半島と東北中国の区分もわからんのかよ・・ >>58
ネトウヨのテンプレ言説にありがちな「北部の寒冷な気候で稲作はムリ!」だが
そもそも田植えは5〜9月にするものなので、冬場にどれだけ冷え込もうが関係がない
山東半島と遼東半島は古来から密接な関係にあり、気候的にもほぼ同じ
山東で稲作が可能であったということは、遼東でも北朝鮮でも可能であったということ
冷害に見舞われ、不作に喘ぐ時期もあったろうが、
だからこそ稲作により適した温暖な気候を求めて、朝鮮南部、そして九州へと南下していったわけだ >>56
「そもそも昔の朝鮮人といまの朝鮮人は別物!」
でましたネトウヨのテンプレ言説
形態が入れ替わるほどの変化を起こしたのは韓国ではなく日本です
縄文時代から弥生時代にかけて完全に人種が入れ替わった
ネトウヨがこのようなロジックを中韓に対して多用するのは、自分たちのコンプレックスからくるものだろう >>61
ネトウヨのテンプレ言説の一つに、「ウリたちは海洋民族ニダ!泳げない半島チョンとは違うニダ!」というのがあるが
これは縄文人を海洋民族に設定することで、縄文人が半島から韓女を攫って混血してきたのだという
モテない独身おやじのレイピスト願望のようなことを仄めかしている
実際には、ムムン(無文土器時代朝鮮人)が勢力拡大する過程において、縄文人のD(隼人・熊襲)がノイズ的に混じったに過ぎず
人口移動は、半島→列島の否定できない流れがあり、その逆の半島←列島ではなかった 大陸でも人は大きく移動している
当時長江流域にいた人々はその後中国南部の山岳地帯や東南アジアに移ったり
一部は北上しただろうし
朝鮮半島にも日本列島の土器しか出ない弥生時代の鉄鉱石の採掘場も見つかっている
弥生時代の朝鮮半島は鉄鉱石を求めて中国本土や日本列島からたくさんの人々が侵入
朝鮮半島で製鉄まで行っていた
製鉄には莫大な木材を消費するから当時の朝鮮半島は何もない禿山だらけになっていたと推測できる 稲は熱帯の植物だから
寒い朝鮮半島から伝わるわけないって言い張る人おるけど
この記事でも弥生時代に東北で稲作をやっていて
青森まで到達してたってあるのにな >>66
縄文時代に一度朝鮮半島から人が居なくなって縄文文化が途絶えてる
その後弥生文化が南部に再上陸し
10世紀の白頭山噴火で朝鮮半島の人口が9割減
北から来た高麗が統一
縄文系も弥生系も断絶してるから今の朝鮮とは関係ない
一度完全に侵略された元(モンゴル)との遺伝子の繋がりが濃くても
日本とは殆ど関係性がないのは10世紀にリセットしてるから >>65,66
>>59の最古の米出土年代の疑問はなんで飛ばすの?答えてくれんの? >>64
古代に品種改良があったとは驚きw
東北ですら近世まで稲作は難しかったのに、緯度が同じの朝鮮半島が超技術で寒冷地仕様の稲を作ったんやな >>69
反知性ネトウヨが好きな「火山噴火で絶滅したから、いまの〜〜は別もの!」理論ね
これも分子人類学では、古代人をゲノム解析してPCA上でプロットすれば、簡単に答えを導き出せる
東大の研究チームが、とっくに「縄文人とアイヌは同クラスター」「日本人と韓国人は同クラスター」と結論を下したのだが
ネトウヨはサヨク学者の捏造だ!などと、やはり反知性まるだしで現実逃避しているようだ
https://image.prntscr.com/image/EYWB175LTyKBnlITTtj52A.png >>68
稲作は気温も重要だけど水も重要
半島南部は温帯湿潤気候だから稲作に適してるけど
半島北部は亜寒帯冬季少雨気候で麦作に適してる
東北は亜寒帯湿潤気候と温帯湿潤気候の境界でギリギリ稲作ができる
現代でもやませが吹くと東北の稲作は大打撃を食らうから
寒さに強い品種改良に余念がない >>71
遼東の水稲で栽培されていたのが早生品種だ
品種改良など紀元前から行われてることだが、何が驚きなんだ 日本のコメはそもそも
温帯に適応した米なのにな
どこで適応したんだよっていう GOOGLEでためしに調べたら
新潟と大連(遼寧省)は殆ど同じ気温じゃねーか
なにが寒冷地の中国北部で稲作は不可能だ
ネトウヨはほんとデマばっか広めるな
https://i.imgur.com/lquyBQa.png 最近の研究だと朝鮮半島経由ではなく揚子江から直接日本に伝わって
逆に日本から朝鮮半島に伝わったらしいな >>68
それは早稲
日本で出来た新種みたいなもので
瞬く間に九州か東北へと伝わったらしいよ この技術の登場で日本の稲作に朝鮮半島は関係ないってわかった
何よりの功績 自虐史観の学者にとってはDNAというものは厄介な科学だろうな
時代が進めば進むほど半島から伝わった説が遠退く 左翼はDNA鑑定を認めない
出自ロンダリングをしまくる日本ではDNA鑑定なんか基本的にさせない 「万世一系」や「単一民族」なんてクソトンデモ言い出した手前、ネトウヨはもう取り返しがつかなくなってるよな
ゲノム解析で朝鮮成分が90%とバラされた今、Y-DNAだけが最後の砦になっているが
それでも確率でいえば50%はY-Oになるので、ネトウヨの過半数は確実に廃人化することになる ゲノムゲノムといっても在日自身済州島だから鑑定から逃げるわけだがな >>2
鹿児島県の遺跡から出た稲のプラントオパールは
中国より古いことが判明済みやで(笑) 神話ですらどう読んでも支配層は朝鮮半島からやってきて日本を征服したとしか読めない
現実に日本の中心だった近畿地方は韓国人と遺伝子が大体同じ
文字も稲作も冶金も織物も全部朝鮮半島由来だし馬鹿じゃなきゃ何が起きたのかわかるな 🐴モンゴル軍はお米作れる人🌾🌾🌾
拉致したかったから🇯🇵日本へ攻め込んだ?
占領したかったわけではなくて。 >>88
と、いうのは🌾🌾🌾お米作らせる目的で
高麗人拉致された記録あるから 朝鮮半島で朝鮮語とは別に日本語が使われてた事が分かってきたしな
倭人経由で稲作が伝わったんだろうな >>81
仏教伝来は兎も角、寒冷地域を経由して稲作伝来は以前から不思議だった
縄文時代の海洋交易の証拠が山ほど出て
沖縄経由の南ルートが技術的に難しくなかったっぽいと知って納得
遣隋使や遣唐使の成功率が50%くらいだったから
中国本土との交易は技術的に難しいと思われてたけど
遣隋使や遣唐使は中国の式典スケジュールに合わせて
台風シーズンに決行してたから成功率が低かっただけ
南ルートが難しかったら沖縄人に縄文系DNAが多数でなく
中国船で渡来した中国系DNAが多数になってなきゃおかしい >>88
硫黄が目当てだったとか
日本は黒色火薬の原料である硫黄が採れる火山が沢山ある 弥生時代に人口爆発が起きた形跡があるのだが、これは水田による安定的な食料確保が可能になったからだろう
そうするとその技術と品種はどこからやってきたのかというお話 縄文と弥生は同じ文化圏
商の末裔が弥生人
当時は温暖だったから長江流域も南国の雰囲気
縄文人(アイヌも)も弥生人も商人も顔に入墨があり魚を食う文化
貝貨文明がオーストロネシアの方まで連なってた
ジャポニカ米のルーツはインドネシア→長江→日本
古墳時代にモンゴル高原から来た天皇家が鉄器製造技術を伝え独特な稲作文化に育った >>91
遣唐使は白村江以降、半島を経由せず直接中国を目指したから難破しまくった
それ以前は朝鮮半島西岸から山東半島を経由していたので比較的安全に行き来している >>6
たぶんそれを小さい集落で細々と栽培していたところに
中国か朝鮮から栽培技術が伝えられて規模が拡大していったんだと思ってる >>91
むしろ逆
南方ルートが難しくなかったら
沖縄のDNAは台湾から渡来してきた中国系と混ざる
宮古島で断絶がある
沖縄までは縄文土器と同系統が出るが
そこから以西にはでない
北と南に縄文のDNAが出るのは
どう考えても朝鮮半島からの日本のルートがメインだから 古代朝鮮の稲作文化も長江由来だろう
日本から朝鮮に伝わるのはずっと後で、日本から伝わった稲や稲作技術とはまた別だ
天皇家が朝鮮半島を通って鉄器製造技術を伝えたことで稲作技術が発展したけど
稲作自体は長江から伝わったものだ
元はインドネシア ジャポニカ米の稲は長江で作っていた物が日本に流れ着いた
大規模な稲作文化は長江から
更に改良したのが朝鮮半島を通ってきた天皇家
縄文人は大したことはやってない O2弥生人長江人が稲作
C2天皇家タタール人が鉄器
D縄文人は魚だから稲作文化はほぼ無い 稲作が伝播で問題となるのは、一緒に人も移動したかどうか・・・やね。
水稲稲作の場合、大規模な土木工事の技術も必要になるから、ある程度の人数がまとまって移動したと思うけど。 >>102
うp主の意見じゃん
縄文時代の稲作(陸稲)は1980年代くらいにあると考古学会で盛り上がって
実際、同時代の朝鮮半島では陸稲の痕跡があるから可能性はあるんだけど
その後いままで科学手法発達してずっと調査をしても確かな証拠が集まらず
近年ではちょっと後退してる状況だよ チンコロだらけじゃんこのスレ
まず日本には縄文弥生を通して中国大陸から渡来定着した証拠の痕跡遺構がない
まず日本には縄文弥生を通して中国大陸から渡来定着した証拠の痕跡遺構がない
稲作すでに朝鮮半島から伝来したと確定している >>106
確定はしてないだろ
稲のDNA型の多様性順が中国>日本>朝鮮で
日本にあって朝鮮半島にないDNA型はあっても
朝鮮半島にあって日本にないDNA型はない
伝来時期が古い方が多様性が多いのが普通 >>98
奈良盆地の鉄器使用(輸入鉄又はその加工品)は非常に遅い
九州と山陰は早い
こうかんがえると皇室と鉄器の関係はゼロだろうね 日本語族が朝鮮半島に稲作を伝えた、というのは確かにそのとおりだが
ネトウヨはなにか壮大な勘違いをしているよな
日本語族の移動ルートは 列島→半島 ではなく 半島→列島 だ
日本語族は半島の先住民で、列島の侵略者だ
半島で稲作をしていた日本語族が南下し、縄文語族の日本列島を侵略したということだ
東アジア言語地図 (オハイオ大学 J. Marshall UNGER が作成)
https://www.oeaw.ac.at/fileadmin/Institute/IKGA/IMG/events/Unger_2013_handout.jpg >>107
その間違いが恐ろしいわ
それって佐藤洋一郎のSSR多型の研究なんだろうが
多様性は中国>朝鮮>日本
中国は8種類全部
朝鮮には7種類
日本にはたった2種類しかない
佐藤洋一郎は朝鮮に唯一ないbが
中国から直接日本に伝わったのではないかっていう仮説をたてて
その部分だけが大きく広まってるだけ この分析は「現代の稲」の遺伝子分析だからな
農具を見れば朝鮮半島から稲作が伝わったのは明白な事実だから
佐藤洋一郎もその後のどこかの段階で中国から直接日本にきた
稲が広まったと著作で述べている >>111
>農具を見れば朝鮮半島から稲作が伝わったのは明白な事実だから
はいウソツキ発見。
朝鮮の伝統的農具は天水を利用して種子を直播するインドやシナの大陸内部と同類。
逆に水利前提の日本では使えないし、実際に農機具がまったく違う。 どの経路で来たにせよ中国という超大国の発明品
そのうち特許料を請求されそう >>113
ネトウヨこそ息を吐くように嘘をつく、ですね
歴博も半島の水田遺跡の灌漑施設を認めてますよ
「灌漑施設を備えた水田稲作に代表される生産 経済的な側面をはじめとして,
松菊里型住居や環濠集落,支石墓を含む墓制,煮沸容器と貯蔵容器 に使用した土器,
石製あるいは木製の農工具,磨製石剣・石鏃のような武器や武装具にいたるまで,
生と死の世界,全般にわたっている。」
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf
p64 はじめに >>114
その中国は南宋滅亡とともにモンゴルに破壊し尽かされて滅んだけどな
雪舟も明に渡ってがっかりしたレベル そう言えばコリアン米って聞いた事が無いなー
キムチ米でも検索出来ない・・・ あれ!
併合前の朝鮮人は粟・稗の粥を食ってたの? 古墳が日本全国に広まったのは大規模な稲作が始まってから
田んぼで灌漑を作るから一箇所に盛り土ができる。
大規模な稲作はそのうち国家事業になって盛り土をそのままその土地の王の墳墓にしたって説がある。
古墳が出現するのが3世紀からで朝鮮南部は6世紀
気候とか水田跡とか稲作の遺伝子とか色々な事から考えても
日本のが早く始めて後に半島南部に広まったと考える方が辻褄があう。 科学的な調査方法がより確実な物になって行けば考古学の発展にも寄与するだろうね 考古学からみた韓半島南部と山陰、そして勒島遺跡
https://image.prntscr.com/image/okuar-DkRhiReCyLx72Oqw.jpg
韓国国立釜山大学校考古学科 李昌熙(イチャンヒ)
無文土器とは 朝鮮・青銅器時代の土器文化
早期 (1500BC) 突帯文土器:I沙里式(系)
前期 (1200BC) 二重口縁土器:可楽洞式(系) 孔列文土器:駅三洞式(系) 複合文:欣岩里式(系)
中期 (900BC) 外反口縁壺:松菊里式(系)
後期 (500BC) 円形粘土帯土器 三角形粘土帯土器:勒島式
先史・古代出雲のなかの韓半島系文物
https://image.prntscr.com/image/YGZfve17RsiLDu09YYaecA.jpg
現在の国境とは異なる境界意識を解き明かすうえで出雲出土の韓半島系文物が持つ意義は大きい。 「光は朝鮮半島から」 兪弘濬 [著] ; 橋本繁訳
@ 吉野ヶ里遺跡
縄文人とは、現在の日本人とは異なるアイヌの祖先をいう。
髭が濃いが、その髭がエビのように長くて立派だということで蝦夷と毛人という名前で呼んだのである。
縄文人が狩猟・採集に満足して生活していたのに対して、朝鮮半島ではすでに紀元前一〇〇〇年から櫛目文土器の新石器時代を清算して青銅器時代に入って、新たな文明を開拓していた。
縄文人は、狩猟・採集した魚と実を盛ったり信仰を表したりする土器を作ることにのみ、優れた技術を発揮したのである。
自然の豊饒のために文明の発達が遅れたアメリカ先住民の没落過程と似ている。
紀元前三〇〇年頃に突然、弥生人が登場した。定住生活をしながら稲作を行って食糧を備蓄して生きていき、青銅器を使用して集団をなして力の結集が可能だった。
こうした弥生人に、縄文人は敵わなかった。一部の縄文人は、弥生人と血を分けて暮らしたが、結局、生活の場を奪われて環境が劣悪な北方に押しやられてしまったのである。
一八八四年、東京大学本郷キャンパス付近の弥生という場所で土器が発見された。
縄文土器とは全く異なるものであった。朝鮮半島の無紋土器と似た無紋の土器であった。
その後、こうした種類の土器が日本各地で出土した。おおよそ紀元後三世紀までの遺跡から出てきたために、この時期を弥生時代と呼ぶのである。
二三〇〇年前、ついに日本列島に文明の光が照らされました。稲作と青銅器文化が朝鮮半島から入ってきたのです。
弥生時代の遺跡からは、慶尚道の弁韓・辰韓時代のものと同じ細形銅剣、青銅鈴、無紋土器が出土しています。
朝鮮半島の三国時代のものと全く同じ半月型包丁が出土しています。鎌もでています。また、牧畜がなされました。
日本が文明の恵みを受けて弥生時代を開いていったことを証言する場所が、まさに吉野ヶ里遺跡です。 大分のは1万3前年前だっけ、日本から伝わった可能性 >>109
新大陸のアフリカ系遺伝子を持つ人たちは、アフリカ諸言語の特徴をほとんど受け継いでいないんじゃないか
言語と人種は必ずしも一致しない 中国の河北は小麦やとうもろこしの生産地
中国の河南は水稲の生産地
https://i.imgur.com/m6wMgR4.jpg
朝鮮半島に稲作が伝播するルートとして
北回りで陸地沿いに伝播するのは不自然極まりない
そのルートで食べられている穀物は米ではなく小麦なのだから
南周りで親潮→対馬海流に乗って朝鮮半島南部に水稲が伝播したと考えるのが自然
そうすると当然にして同じルートで日本にも水稲が伝播する
日本と半島とで同時期に水稲が伝播したということは考えられても
半島経由で日本に伝播したというのは理屈に合わない 半島経由と支那直接と両方入ってきただけだろ
半島経由は東北とか一部で役に立ち
支那直接は関東までの地域で役に立った
半島だって南の一部は支那直接だろ
気候が違うんだから、南北の動きってのは数百年数千年単位になる ほう
米が主食の日本人は毎日大量にオパールを摂取してるんだな
そして毎日宝石のようなうんこを >>127
日本国内で江南の農具や炊具が出土しないことから、長江流域から稲作が伝播したと考える考古学者は皆無
タダの一人もいない
水稲伝来時、中国はすでに鉄製の農具が一般化していた
しかし、それらは一つも伝わっておらず、弥生人が使っていたのは木製のクワやスキ
このクワの系譜は山東→朝鮮→九州であり、このことから稲作伝播は北回りルートでほぼ確実視されている
というかもう既に決着してる >>130
クワなんぞ水稲関係なく畑作で使うんじゃね?
それとも水稲栽培では鉄製のクワしか使ってはいけないという決まりごとでもあるの?
木製のクワがあったら水稲栽培には用が足りそうな気がするが
鉄製のクワと一緒に陸伝いに北周りで水稲も伝播してる証拠があるなら見てみたい >>132
別にクワだけじゃなくて
土器とか支石墓とか明らかに朝鮮半島からの
影響が明白だから
詳しい人ほどこれを否定することはできない 菜畑遺跡とかより
古い稲作の遺構が見つかって
それが朝鮮半島と関係なかったら
変わるけどな 1)江南地方から鉄製のクワと水稲が同時に伝播しないといけない
2)朝鮮半島から日本列島に水稲が伝播してる
3)半島から日本に水稲が伝播するときには鉄製のクワは一緒に伝播していない
1)と、2)3)では矛盾が起こってるように見える それにしたって結局弥生時代の稲作は
朝鮮半島の系譜であることは覆らない 弥生時代の製鉄の技術の低さから鉄製のクワの伝来が無いのは不自然ではないけどね ほぼ農業をやってなかった日本は大陸から農具を移入して使っているのだから、その点において稲作伝来の動きを半島に求めるのは別におかしな事ではない
ただ、水稲稲作のスタートは日本と殆ど同時期で確実な水田の遺跡は日本より古い物がないと言う状況になっている
つまり、稲作の先進性のようなものは半島になく、日本と同時期に外から持ち込まれた状況が見えてくる
伝来の背景を見るに単純な「先進的な水稲を行っていた半島から順番に来た」という姿でないのが注目されるべき部分だと言えるだろう そもそも半島は畑作が主体で水田は小規模で稚拙なものしかない
李氏朝鮮にいたるまでこの状況は変わらない
伝来当時となれば上で書いたように日本と同時期で規模も小さく「先進的な技術と経験があった」などととても言えない姿になっている
この事から日本と半島に殆ど同時期に水稲技術を伝播させるような出来事が起こっていたとみるのがポイントだろう
前1000年-前700ごろと言うと周王朝の成立と衰退の時期に当たるので大陸の事情がなにか大きくかかわっているのではないかと想像できる 少なくとも弥生中期には半島南部に倭人の痕跡があるんだよな
古代は山東半島-半島南部-日本本土の往来が盛んだっという
楽浪郡も然り >>132
>>139
またネトウヨがクソみたいな妄言吐いてるのか
稲作の伝播は、たんに栽培技術だけが伝わったのではない、稲作農耕に伴なう文化の全体が一気に半島から伝わった
農具も炊具も、磨製石器も、無文土器も、松菊里型住居も、支石墓も木棺も、青銅器も、それらのすべてが半島から伝わった
つまりプロト・ジャポニック・スピーキング・ムムンが朝鮮半島からやってきたということだ
そして弥生人になったということだ
もうネトウヨは発狂死する未来しかないんだよ。さっさと諦めろ 朝鮮半島から水稲と一緒に鉄製のクワが伝播しなかったのなんでだろ?
江南から北周りで鉄のクワと一緒に水稲が伝播してるはずなのにおかしいなあ 支石墓(ドルメン)の分布マップがスレの先頭に貼られてるだろ
稲作の伝播ルートはこれと同じなんだから、もう議論する必要すらない
ドルメン(支石墓)の分布
http://4.bp.blogspot.com/-cJfnCZ72usU/U5VRy43i3NI/AAAAAAAABHQ/JchKHt5QTH4/s0/Dolmens_in_East_Asia.jpg
>朝鮮において水稲作が開始した無文土器時代に支石墓が現れることなどから、
>支石墓の担い手は日本列島、朝鮮半島へ水稲栽培をもたらした(ハプログループO1b2)と推定される。 どこから来たにせよ中国から貰ったのは間違いない
飯くうときは中国様に感謝しないとな >>143
水稲作ってない地域じゃん
小麦の伝播ルートっていうなら分からんでもない
https://i.imgur.com/CAWybpM.jpg >>145
山東半島の沿岸と、遼河の下流が水色になってるじゃねーか
フシアナかおめー >>146
DNA解析の技術がどんどん進んでるから明らかになるといいねー そんな、科学的で反論の余地のない研究なんて
迷惑ニダ ふつうに満州で稲作やってるじゃねーか
息すればウソつくなバカウヨは
まじで死ねよ
>北方稲は黒龍江省、吉林省、遼寧省等の東北中国を中心に栽培されているが、
>これらの産地の中では黒龍江省における生産増加が際立っている。
>黒龍江省は中国における北方稲(ジャポニカ米)の最大の産地となり、世界的にも注目されるようになった。 しかし米って栽培方法が特殊なのによく育てようと思ったよな
水を張って育てるなんて普通思いつかねえよ >>140
っていうか、古墳時代まで日本の支配下だったからね
だから朝鮮半島にも日本の古墳がある
かなり最近まで日本領土なんよ >>150
>>150
稲作の起源 池橋宏
>縄文稲作はなかった。稲作のルーツは焼き畑農業ではない。サトイモなど
水辺の根菜栽培に起源を持つ、「株分け」栽培から生まれた。
イネ学最先端の知見から水田稲作という世界の農業上、最もユニークな
農耕発生のメカニズムを解明し、照葉樹林農耕論をはじめとする定説の書き直しを迫る。
(講談社選書メチエ)
この人がこの著作で、縄文土器から見つかったという籾の圧痕とされるものは
稲の専門家から見て疑問に思えるという指摘は、その後シリコンで圧痕の型を取って調べる手法が確立して
正しさが証明された(イネの籾にあるはずの形がなかった) >>152
比べてみればわかると思いますが、
半島の前方後円墳は日本のものとは全然にてません
「前方」と「後円」が一致するだけで、
日本に影響を受けた人々がいたのは確かというだけです コメは中華南方から徐々に北上
時期は変わらない
日本人は中華南方やスンダランドからやって来た 稲作は朝鮮半島経由では伝わっていないそうだ
気候的に稲は伝わらないんだと
大陸か南方から海を渡って直接らしい
日本の縄文人は超アクティブだったらしいわ 途中で半島から中華北方人がやって来て
倭国大乱があって北方南方になったんじゃないかな
大化の改新で朝貢しに来たシラ、クタラ、コマは既に違う民族 アジア稲でインディカ米とジャポニカ米
大半がインディカ米
韓国は気に入らなければインディカ米を食べればいい 当時の朝鮮半島は気候的に寒いから稲が育つ地域ではない
実際に稲作が行われて形跡もないそうだ
色んなことが嘘だらけ ↓現実はこう
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
日本に大きな影響を与えた朝鮮半島の水田稲作
>今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を作って、
そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも500年も前に、
本格的な農耕生活に入ったのです。
>紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。
本格的な穀物栽培が始まって約400年後のことになります。
>こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に位置する
蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。これらは一つ一つの区画が
数平米と小さい「小区画水田」と呼ばれるものです。谷筋を流れる水を使って、
水田稲作を行っていたことが分かります。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています