【朝日】邪馬台国の有力候補地・纒向遺跡の論集に、奈良県桜井市がカンパを求める 返礼品は現地ツアー [みの★]
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邪馬台国の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)。遺跡の研究成果を論集にまとめるために、市がクラウドファンディング(CF)を始めた。返礼品は、専門家による現地ツアーなど。考古学ファンにはたまらないプレゼントが待っている。
論集の刊行は、市纒向学研究センターが来年設立10周年を迎えるのを記念して計画された。さらに、今年は初めての発掘調査から50周年。調査回数も200回を超えた。節目を迎え、記念論集「纒向学の最前線(仮)」で、市は調査研究の成果をアピールしたい考えだ。
…続きはソースで。
https://www.asahi.com/articles/ASP7F46M5P72POMB00H.html
2021年7月13日 16時30分 >>413
曹操は死後に仕返しされることを怖がったから当時でも場所は伏せられた
大規模な墓は作れん >>425
お前はちゃんと見てるじゃね〜か。 わははははは @阿波 クラウドファンディングの話題のスレで、
邪馬台国論争するな!ジジイどもが。
そんな話は老人ホームでやれ。 >例えば鉄器についてにしても、九州北部だけじゃなく九州南部もあれば、吉備や出雲、淡路島なんかにもある訳だし
みごとに「阿波」を避けてるな。 そんなに「阿波」が怖いのか? わははははは @阿波 張政から貰った黄色い軍旗は、
大幡主命が倭姫命から授かった旗な。 魏と九州の繋がりといえば
魏志倭人伝で九州の国々が紹介されてることが一番大きい 畿内から見た邪馬台国 石野博信先生
庄内式土器
土器は日常の道具であり、土器の移動は人が移動したことをを示す。
庄内式土器は、畿内で作られた土器だが、畿内から西、とくに九州で大量に発見される。
これは畿内から九州への人が移動したことを意味する。
畿内からは、各地へ土器が移動している。厚甕とよばれる弥生時代の伝統的な土器は
東に広がり、薄甕と称する庄内式土器は、西に向かって九州まで移動した。
3世紀の九州の土器はほとんど畿内に入っていない。
3世紀の九州の人間は出不精で、そのかわり外のものを寛容に受け入れた。
畿内人はでしゃばりだった。
九州の庄内式土器は筑前型庄内甕といわれ、畿内の型式の土器を九州で製作したものである。
朝鮮半島南部で出土する日本列島の土器は九州や山陰タイプであり、
畿内の土器は半島に行っていない。
邪馬台国の時代に朝鮮半島と交流があったのは、九州であるといえる。
しかし、このことから邪馬台国が九州にあったと即断することはできない。
なぜなら、近畿の王が九州の人間に命令して半島に行かせたという解釈ができるから。 もう一回貼っておく
オモシロ九州説まとめ
Q:九州のどこに邪馬台国がありましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこから邪馬台国を示唆する遺跡がでましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこから魏との外交を示唆する物証がでましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:陸行1月だと九州からはみでませんか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに7万戸の大国が存在できるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに30国連合を示唆する物証があるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに径百余歩の墓があるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:本当に九州に邪馬台国があったんですか?
A:ありました(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:そんなの知らねぇ!! >>434
>庄内式土器は、畿内で作られた土器だが
その通り! しかし、作ったのは「忌部一族(阿波勢力)」であり、工法は「東阿波型土器」様式。 @阿波 阿波って割といろんなものが出てくるわりに、なんというか、どれをとってもパンチが足りないのよね。
いろんなメニューのある、街の定食屋みたいな感じ。
ただ、@阿波氏だけが、ここは五つ星レストランだ!って主張していて、周りからは相手にされないという・・・。 >>422
一例として地名を上げただけで、滋賀になかったと言ってるわけじゃないよ。
当時の鉄器や日本の製鉄の歴史を調べてみても、かなり興味深い事がわかるよと言う話しがしたかった。 >>439
>阿波って割といろんなものが出てくるわりに、なんというか、どれをとってもパンチが足りないのよね。
無理スンナ。 正直になれ! わははははは @阿波 >>434
モノが集まるのはそこに求心力があるからで
纏向に周辺土器が集まるようなものだ
九州に畿内のモノが流れてくるなら九州に求心力があったということでは 畿内説が逃げ回る畿内説の詰み
・帯方郡から12000里
・伊都国の南
・クヌ国の北
・東の海の向こうに倭種の国あり
・風習風俗が海洋民 >>442
>九州に畿内のモノが流れてくるなら九州に求心力があったということでは
「忌部一族(阿波勢力)」が進出しただけのことさ。 簡単な話 @阿波 邪馬台国の比定地
白鳳地震により海に沈んだ土佐国黒田郡 >>443
別に畿内説でもないけど、満二千里は信用ならないよ。
彼らが測量していないことは、魏志倭人伝よりも後の中国の史書を見ても明らかでしょ? >>445
土佐国黒田郡は、「投馬国」だな。 @阿波 >>445
土佐国黒田郡は、「投馬国」の領分だな。 @阿波 >>418
派閥って怖いね
九州説を取ったら学会でハブられるんだろう 当時の度量衡1里434mで計算すると倭人伝の里数は実際の5、6倍の数字になっている
5、6倍に計測ミスする事は考えられないのだから短里を否定するなら、あとは数字を意図的に誇張してると見るしかない
必然的にあらゆる数字が怪しくなる
さらに数字が怪しいならそのほかもとなる
九州説も畿内説も否定も肯定もできなくなる
論理的にはこの時点で邪馬台国論争はストップになるわな >>440
鉄は溶けやすいとかの阿保な畿内説
とか鉄の出土をだけをみて、鉄がなっかたという
阿保な九州説ではないならいいよ。 >>451
魏志倭人伝を無批判に全肯定するのをやめて、他の資料からも探ってみたり、やり方は色々あるよ。 >>446
まぁ概算だろうな
しかし九州まで比率にして大違いしてない
ちゃんと対馬→壱岐→九州本土に到着する
帰りにもう一度通ってるしな >>443
・帯方郡から12000里 → 九州も不一致
・伊都国の南 → 方角が正しいか日数が正しいか不明だと小学校で習ったはずだが
・クヌ国の北 → 方角が正しいか日数が正しいか不明だと小学校で習ったはずだが
・東の海の向こうに倭種の国あり → 伊豆諸島で解釈可能だが、そもそもその記述に信憑性なし
・風習風俗が海洋民 → 邪馬台国とは無関係の記述 >>451
>九州説も畿内説も否定も肯定もできなくなる
だから、短里を肯定できるのは「阿波」一択。 @阿波 >>456
通っていないと思う。
不弥国から西の海に出るコース。 >>455
3世紀以前の遺跡でしょ
あと邪馬台国以前からも大陸と交流してた証拠 >>457
それまでの行程の比率で分かる
はみ出したとしても、せいぜい福岡県の隣県
それに、太陽みれば分かる方角を間違えるなんてマヌケすぎる
そんな連中は、対馬にさえ上陸できない >>459
玄界灘の荒波を越えられるなら、来るときもそうするよ >>441
決定的に残念なのは、古い寺が全く残ってない点、ほとんどの古刹は、戦火に遭い、江戸時代以降の再建・再興ばっかり。
断絶してしまい、再興されなかった所も多数。 >>460
>3世紀以前の遺跡でしょ
>あと邪馬台国以前からも大陸と交流してた証拠
だから、「阿波」一択。 @阿波 >>1
返礼品は現地ツアーw
遠方からだとコロナで行けないし地元民はそんなツアー今更だろうし誰得なの >>451
中国魏晋南北朝史学会の教授は
女王国の東に海を渡るのは畿内は該当しないから九州と言ってるな >>460
唐古・鍵遺跡ぐらいだな。
卑弥呼の時代の遺跡て
纏向遺跡だな。 >>452
畿内って言ってしまうと、正直奈良盆地だけに目を向けるのも違うと思うけどね。
山城、大和、摂津、河内、和泉の5ヶ国を合わせて畿内と呼ぶ。
なんで奈良盆地の北川と南側に遺跡が多いのか?とか、疑問を持って調べてみると、大阪平野へ抜けるルートが奈良盆地の南北にある事に気が付く。
南側ルートの葛城山、二上山の辺りは何があるのか?
石器と宝石が取れた。うーん関係はあまりないかなぁ?
でも、過去から人がいた理由はこれかなぁ?とか
色々考えることが広がる。
邪馬台国解釈本だけ読んで他人の説を鵜呑みにしていても、本当のところにはたどり着けないと思うよ。 まあ、掘り出した部分は、
卑弥呼が生まれた前後かもしれないけど。 >>412
俺がまとめた九州の女酋長リストをあげよう
五馬媛(五馬・豊後国風土記)
八十女(杵島・肥前国風土記)
宇津羅姫
八女津姫(福岡県・景行紀)
田油津媛(山門郡・神功紀)
比佐津媛(日田郡・豊後国風土記)
大山田女
狭山田女
海松橿媛(松浦・肥前国風土記)
速来津姫(大分県・景行紀)
浮穴沫媛(彼杵・肥前国風土記)
諸縣君の泉媛(宮崎県・景行紀)
神夏磯媛(田川市 山口県・景行紀)
宇奈岐日女
與止日女(佐賀県)
阿蘇都媛(阿蘇・景行紀)
〇酋長以外
市乾鹿文(いちふかや) 熊襲梟帥(くまそたける)の娘
市鹿文(いちかや) ↑の姉
御刀媛(みはかしひめ) 日向国
髪長媛(かみながひめ) 日向国
松浦佐用姫 唐津 >>465
>決定的に残念なのは、古い寺が全く残ってない点
お前よ〜、白鳳寺院跡より古い寺あるか? 「阿波」をろくすっぽ知らんくせに知ったかぶりするな、アホンダラ。 @阿波 >>457
魏史(三国志)が倭国を重要視している背景を考えると邪馬台国が17,000里と遠方の理由が見えてくる。
三国時代に魏呉蜀で争っており不安定だった情勢もあるが、それ以上に魏内部における「魏を建国した曹操の一族」と「後に軍事クーデターにより実権を握り禅譲により魏から晋を建国した司馬懿の一族」の勢力争いに注目すべきである。
三国志が編纂されたのは晋建国後の260年以降であり、司馬一族が王位を簒奪したのでなく正当に禅譲されたと主張したいという思惑があった。
魏により「親魏〇王」の称号を受けた国は2つあり以下のようになっている。
229年 曹真 西方 大月氏国 16,370里 親魏大月氏王 10万戸
238年 司馬懿 東方 倭国 17,000里 親魏倭王 7万戸
曹真は西方諸国からの朝貢をうけており一番遠い大月氏国(クシャーナ朝)は首都から洛陽まで16,370里という遠方から来ている超大国であり親魏大月氏王の称号を贈っている(後漢書)。
一方で司馬懿は東方征伐での功績があり、呉と通じていた遼東・楽浪郡帯方郡の公孫淵を討ち東方諸国への道を開いた。
この翌年239年に卑弥呼の朝貢が訪れたのは偶然ではなく司馬懿による要請があったと思われ、
「大月氏国にも負けない規模の大国(7万戸)が大月氏国以上の遠方(17,000里)から訪れた。それは司馬懿による功績である」とする目的があり、後に三国志を編纂する時にも司馬の功績と皇帝としての正当性を表す必要があったのだろう。
〇TIPS
・三国志筆者の陳寿は皇帝曹髦殺害の経緯を隠匿し禅譲の正当化を図るなど晋のために筆を折っているとされる。
・後漢書など他の史書では東夷・北狄・西戎・南蛮の四夷それぞれの伝があるが三国志には東夷伝しか存在しない
西側(大月氏国)の功績は後漢書により確認できるが三国志では抹消されている
・魏志を読むと朝鮮半島北東部の濊については距離についての記述が一切なく、南部の韓(馬韓・辰韓・弁辰)は地域全体の大きさの記述や国名はあるが国々の方角や距離など詳細な部分は書かれておらず曖昧にされている。
また不弥国から邪馬台国までの距離も明記されず水行二十日・水行十日陸行一月と日数換算で首都までの距離を曖昧にした上で、まとめて「帯方郡から首都邪馬台国まで12,000里(∴洛陽から17,000里)」と首都までの距離を提示している。 >>469
実は奈良盆地にも纏向と唐古鍵以外のマイナーな遺跡が結構あったりする。
大きいからメジャーなのが2つあるだけで、中小のマイナーな遺跡がないようなイメージを持つのは危険。
うっかり奈良湖説に騙されたりする。 >>472
俺は伊勢、志摩も含むよ。
山に丹ありで阿波、宇田、三重 50年も調査して何一つわかってないんだからもうやめちまえよw
金の無駄だしその土地開発して商業施設作ったほうが今を生きる人のためになるよ
ホント考古学って無駄、歴史なんて200年前くらいで十分よ 畿内説論者は学会だの学者だのとバカの威を借りなきゃ何も言えない思考停止民族
半島人DNAむき出しだな 方角が正しいという立場の九州説にとって、末盧国から伊都国の方角、伊都国から奴国の方角が間違ってるのは大きな弱点だが
不弥国が奴国から東と書かれてるのももう一つの弱点
筑紫平野方面が自動的に否定されてしまい、大分方面や宮崎方面しか残らない >>476
司馬懿から要請があってから出発したのではスケジュールがキツすぎて無理だろう
たまたま公孫氏に朝貢しにいったら戦争中でステイさせられて
司馬懿が勝って連れて行かれただけなのでは
それ以外は同意 >>471
>邪馬台国の最有力候補地
纏向遺跡は、12年前のまだ5%しか調査していない段階で早々と、
古墳時代前期に消滅したと宣告されたのは何故なんだろうか?
よほど、ショボい遺跡なのだろう。 わははははは @阿波 >>484
その時送ったのって奴隷10人と布切れ数m
全然準備できてない >>3
もうこんなにはっきりしてるのに
九州だってやつが五月蝿いのはなんなん? >>474
まあ普通に考えたら卑弥呼は九州の女シャーマン酋長よね >>486
しょっちゅう送ってたうちの一回なんだろう >>477
>うっかり奈良湖説に騙されたりする。
笑ったw
奈良湖がどうたらって書いてたやつ実際にいたし >>480
>50年も調査して何一つわかってないんだからもうやめちまえよw
阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」
異論が有ればどうぞ。 わははははは @阿波 邪馬台国が近畿地方にあったとする畿内説を言っている奴は次の質問に答えて欲しい
・何故、朝鮮半島から海を渡って九州にくる船の技術がありながら、畿内までは対馬海流などの海路で陸づたいに近畿地方まで行くのではなく、他のクニや盗賊の襲撃の可能性がある陸路で貢ぎ物を運んで歩いたのか?
古代人は知識は無いが馬鹿じゃない
この質問の合理的答えが見つからない限り邪馬台国は間違いなく九州 >>492
>この質問の合理的答えが見つからない限り邪馬台国は間違いなく九州
「阿波」がいる限り、いくら連呼しても無駄。 @阿波 >>483
北極星が固定という観念外してみれば?
実際には円周運動、当時と現在では違う。 >>3
もうこんなにはっきりしてるのに
近畿だってやつが五月蝿いのはなんなん?
邪馬台国は御井
神武は王族でありながら、
いずれ自分の国と敵対することになるかも知れない国に寝返ったゴミクズのような人間で
近畿日本では志村のバカ殿みたいな存在だった
一方で、九州倭国の血を近畿日本に繋いだ人物でもある
こういうこと
九州倭国と近畿日本を繋いで居られるのは
ゴミクズ神武のおかげだと言うこと
事実は小説より奇なりそのもの
>>487
畿内説はFラン低偏差値学者の非論理的な想像説だから >>500
>事実は小説より奇なりそのもの
その通り! 実際は、「阿波」国内での話。 @阿波 >>489
確かに魏史韓伝にも「倭・韓も帯方に属した」ってあるから公孫氏への朝貢だったのかもな >決定的に残念なのは、古い寺が全く残ってない点
お前よ〜、白鳳寺院跡より古い寺あるか? 「阿波」をろくすっぽ知らんくせに知ったかぶりするな、アホンダラ。 @阿波 >>491
何が異論だよ どうでもいいわw考古学が無駄
遺跡跡にイオンでも建てたほうが地域住民は喜ぶよ
こんなことに金払ってツアー行くやつって逃げ切り世代の年寄りどもだろ
コロナに罹ってはよあの世へ旅立てよw少しでも現役世代の負担軽くするために ヤマト政権の始まりは東海山陰吉備勢によるヤマト征伐
それを九州になすりつけるとかタチが悪い
九州北部はヤマトと同じく吉備と東海の支配下
福岡の遺跡からも畿内ではなく吉備東海の土器が見つかっている >>492
魏志倭人伝は邪馬台国旅行記ではなく、簡単に言えば、複数資料をもとにして書いた倭国の調査報告書だからだよ
一般に行程記事と呼ばれている部分は、倭国内の国の配置を表した地理志
奈良までの実際の行程は、初期ヤマト政権の勢力範囲である瀬戸内海航路だろうな >>504
>跡やなくて現存の寺
現存の寺がいいのか? 今、近所で鐘楼建ててるお寺あるぞ。 これでもいいか? わははははは @阿波 纒向遺跡の箸墓古墳が卑弥呼の墓で邪馬台国が九州にあったと仮定すると、九州に
あった王家の墓から骨などが移葬されたことになる。
そうすると九州の遺跡の中で骨が見つかった場所は王家の陵ではないことになる。 箸墓はかなり後だろ。下手したら倭健くらいの年代だろ。 >>512
倭人伝には邪馬台国への行き方として九州に上陸したあとの通ったクニの名前を書いてんだぜ
来た船でそのまま海路で奈良に行くなら、その旨の記述があるはず >>518
魏志倭人伝は邪馬台国旅行記ではなく、簡単に言えば、複数資料をもとにして書いた倭国の調査報告書だからだ 畿内説ってかつての水素水みたいなもんだよ
相手にすんな 研究する為の調査に金が必要、とかなら解るが成果を纏めるのに何で金が必要なんだ? >>1
スレタイ紛らわしいわ
現地ツアー【のみ】って読んじゃう 考古学は正しい
論より証拠
ちなみに邪馬台国のあった考古学的証拠は畿内から見つかる >>519
倭人伝は当時の日本の状況だけ示していて邪馬台国への行き方の情報は失われていると?
ちなみに墓の埋葬品の出土とかの方が信じられないからな
当時勢力を誇ったクニでも、いずれ衰退し、墓に埋葬された宝剣や鏡とかの埋葬品は墓あらしとかで当時のままという証拠は何一つない >>525
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