【東奥日報】青森市大阪山で中世山城跡を発見 蝦夷蜂起がきっかけの「安藤氏の乱」の舞台、北に拡大 [みの★]
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青森市後潟地区の大阪山に曲輪(くるわ)(城の中心区画)や空堀のような壕道(ほりみち)(堀道)など中世の山城遺構があることが4日までに分かった。大阪山の南には外浜(そとのはま)安藤氏(のち十三湊(とさみなと)安藤氏)の山城跡・内真部(うちまんぺ)城館群が連なる。同城館群の山城のうち古いものは原形が鎌倉時代(約700〜800年前)に造られたとみられ、大阪山の山城も同時期に一体で機能した可能性が高い。「安藤氏の乱」の舞台である同城館群が北側に広がった。
内真部城館群には北から内真部館・同山城、湯ノ沢館、前田蝦夷館、瀬戸子館、飛鳥山館と中世城館が並ぶ。蝦夷蜂起をきっかけに一族の内紛に発展、鎌倉幕府が介入した安藤氏の乱(津軽大乱)=1320〜28年=で揺れた山城として知られる。
のちに十三湊(五所川原市・十三湖周辺)に進出し、日本海交易で栄えた十三湊安藤氏が初めに拠点を構えたのが内真部だった。
大阪山の山城遺構(仮称・大阪山館跡)は青森市生涯学習推進員の田中洋一さんが見つけ、五所川原市教育委員会の榊原滋高さん(中世考古学)が2日確認した。
…続きはソースで。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7231192dfd126aca1b01f40c759656a717c1c898
2021年11月5日 11時04分 アテルイが大和朝廷に反旗を翻して前九年の役で安倍氏が敗北して蝦夷の歴史は終わるんだが、その間に元慶の乱という非常に興味深い戦いがある。 >>57
東北人だけじゃ物足りないので、今度は45歳定年で雇われみんなを敵にしました 日本の中世ってヨーロッパの古代以下の文明しかないよね >>81
単純すぎる
在日の代名詞というべき金田姓だって土着日本人のほうが多いというのに https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=ko&tl=ja&text=%E5%BC%93%E6%9C%88&op=translate
弓月→クダラ? >>108
石の文化と木の文化の差、木の建築物は寿命短くて火に弱い
そこで失われていたリソースが近世に天下太平となって花開いた訳だがそれがたった400年前 >>77
三春は棚倉陥落以前から、新政府軍に
「自分たちは同調圧力で奥羽列藩同盟に加わってるだけです、
新政府軍がきたらそく離脱して新政府軍の先鋒をつとめます」
と伝えていた。
仙台藩云々かんけいなく最初からの裏切りもんだよ。 >>115
十三駅ってどこにあるの?
十三湖にはバスでしか行けないよ >>17
桃太郎は大陸に渡りジンギスカンになるのであります >>41
青森県では昭和30年頃までアイヌ語話せる人が残ってたんだけどそれ以降に皆殺しにされたのか? 戦国時代に南部だ津軽だと阿保な争いをしていないで
南部が北上して樺太まで制圧してくれればよかったのに。 >>110
だったらなんで、弓月と百済の臣民とで言い分けたんだ?
別グループだからわざわざ言い換えたんじゃ。 >>132
1番最初に確認出来るのが、
源頼朝が東国を安心にさせるって意味で安藤氏を安東って名のらしたしたケースだよ。
安積國造の安藤宮司は古代の何年から確認出来るのかちょっとわからないけど。 アイヌ縄文人が朝鮮系弥生人(日本人)に征伐されちゃったよ… >>126
それは結婚して青森に渡った北海道アイヌだろ
津軽アイヌは200年程前に同化して絶滅した
二風谷の奥のポロサルは同化を拒んだ津軽アイヌが移住した所だ >>110
また出鱈目な妄想病のチョンさん?
弓月氏はパルティアから新羅通って応仁の代に渡日だよね
百済は高句麗の分かれの扶余の穢族が伯斎たてたのが最初でしょう >>77
仙台は腰抜け
ドンゴリって言葉が残ってる
実際、現地の戦闘記録を調べてみたが、仙台がやる気なくて最悪の盟主 大間のマグロ漁師山本さんもだいぶアイヌっぽいけど
三厩にアイヌにしか見えないマグロ漁師が居て漁師番組に出てた >>143
仙台藩はやる気が無かったのではなくて、軍制改革が遅れてて戦える軍隊をもたなかった。
実戦経験がないだけでなく戦国時代と同じ思想で戦場に来たから戦場で何もできんかった。 >>138
『日本書紀』応神天皇条に,秦始皇帝(しんのしこうてい)子孫という伝承をもつ弓月君(ゆづきのきみ)が多数の百済民を率いて渡来した。
これ、弓月=百済だと
秦人=百済人になっちゃわないか?🤣
中国って百済人の王国だったの?
まあ、漢人と秦人は違うんだろうけど。 🇭🇺ハンガリー?🇩🇪ドイツ ?
アッティラ?
突厥文字=ルーン文字だよな 秦の始皇帝は、紅毛碧眼だったと云われているが、明確な根拠はない。だがその風貌は一般的な東洋人とは少し違っていたようだ。
「秦王為人,蜂准,長目,摯鳥膺,豺聲…」
(史記『秦始皇本紀』4)
・蜂准→鼻が高く尖っている
・長目→目は切れ長
・摯鳥膺→胸は鷹のように突き出ている
・豺聲→声は山犬のようである 大阪山って?
日本書紀の崇神記に出てくるのは大坂山だが。 >>1
奥州に住み着いたのは、
奥州征伐の安藤小太郎季俊、季信親子が
幕府から津軽の警護を命じられてからだよ。
(三河安藤氏の『安藤系図』)
当然千葉氏と仲良かったんだろうね。 陸奥の国には昔から悪路王という、アンチ・ヒーローの伝説が続いて存続してるんだが、悪路
といえば、大体は高地だわな。山賊の大手なんだろうが。
悪路王の伝説の伝わる領域が割に広いことからして、悪路王一味の健脚ぶりが伺えるような。
山岳地帯を遠距離移動するには山の尾根伝いを利用するのが一番なんだろうが、それには特に
坂での移動が得意でなければならない。
>>153
坂を正面から捉える名称だな。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase1911/37/12/37_12_426/_pdf/-char/ja
これによれば、其他鹿島地方の古るき土
俗に於て其紳事の故實と照慮するを認めらる、は七月十
日家々稻葉を以て人形を擬造し、竹を以て雨刀となし之
ナホスケ
を門前に置き呼ぴて大助といひ、
大助と大阪は訛った関係があったかも。
あるいは伊能嘉矩によれば、
大助は御援(おおすけ)で援軍のことであったという説もあるという。 つまり800年頃、自分たちは日本人だという認識はないんだよ。なぜ西の国の言うことに
従わなきゃならんのか。ということは天皇が治めた期間は1000年くらいの歴史しかないんだ。 この城あと付近から南側には
「アイヌが昭和初期まで住んでたよ」と現地の老人に聞いたことある。
江戸時代に津軽藩が街道を整備する土方やらせてた記録あることから
そのときに北海道から移り住んだ者たちの子孫だろう。
数百年も伝統伝えて存続なんてのは相当な未開の地か、財力や政治力でもなければあり得ない。
日本では景気のいい時代や場所があればその都度大陸からもいろんな民族が離合集散してきたのさ。 >>148
原因としてそれは感じた
古書店で入手した請西藩の記録『上総国請西藩主一文字大名林侯家関係資料集』『幕末郷土史上総義軍』(上野で彰義隊が負けた後、房総を南下した撒兵隊に巻き込まれる形で戊辰戦争に参戦し、南関東各地で戦い、榎本艦隊で北上して平潟で上陸、磐城の戦いを経て仙台で降伏した)を追って彼らが移動したルートを踏査したときに、沼津の明治史料館や福島・仙台の県立図書館で郷土史料や手記を調べてみたのだけれど、銃弾が飛び交う生々しい息遣いの中に、ろくに戦わずに退却する仙台藩の腰抜けっぷりが目に余った
請西藩の立場で見ていたから、そう感じたのかもしれないな 新田義隆の活躍が諸国に知れ渡ると、越後上野で息を潜めていた新田一族の残党が、義隆を頼って続々と奥州に集まって来た。名前を挙げると、一ノ井左京亮・堀口四郎・世良田美作守満氏・同七郎・鳥山弾正少弼・同三郎左衛門・羽河源蔵人・同彌三郎・田中兵庫助・船田長門二郎等である。
六月下旬、義隆の一族と信夫太郎が示し合わせ、混成軍を編成し、三千余騎をもって相馬へ押し寄せた。対する相馬顕胤も 打って出た。両軍は鳥鵜崎で衝突したが、双方とも死傷者を出すばかりで勝負がつかない。 三月、堀口四郎貞光(堀口貞満の三男)が密かに上野に向かい、残っていた新田一族を糾合して挙兵するべく工作した。世良田大炊介政義、桃井右京亮、同和泉守貞織らも貞光に協力して同志を募った。
だが、計画に応じようとする者はいなかった。当時の足利幕府は義満を将軍に迎え、その武威も安定に向かっていた。逆に、南朝は各地において苦境に立たされていた。個々の戦闘では勝利をおさめることもあったが、大軍を組織して京都を奪還することは、もはや夢でしかなかった。 >>138
日本に伝わった百済琴見ると
アッシリア系なのバレバレだよなw ここら辺の歴史も面白かったんだろうね、日本史から外れているけど >>23
本州アイヌは北海道アイヌとは別なんだよなあ >>157
そもそも日本人なんて意識が出たのはせいぜい江戸後期ぐらいじゃないの? >>138
秋田の殿様って今でも新羅三郎の直系の子孫なんじゃ? アイヌと蝦夷が別民族じゃなかったっけ?アイヌは鎌倉時代に大陸から南下してきたんだよね。 >>169
ヤマト政権に従わなかった東北以北の諸民族をひっくるめて蝦夷と言った。 >>169
現代では、
三内丸山遺跡の縄文人のDNAとアイヌ民族と
現代の沖縄人と青森人を比較した研究結果とか
縄文人の風土病であるATLの罹患率とかのデータが存在するのだろ?
http://kirara.pref.yamaguchi.lg.jp/mag/html/20050922/03omoshiro.html >>1
十三湊の読みは じゅうさんみなと なのか? じゅうそうみなと なのか 文治五年
奥州の泰衡を追討し訖。 彼の黨類を召し具し、今日〔廿四日〕鎌倉へ皈ら令め候也者り。
雜色此の書を帶び、飛脚と爲し上洛す。其の後、御家人等盃酒を献ず。是、豫め御所に儲ける所也。
出羽國の地檢を遂げる可し之由、留守所に仰せ置か被る。
御進發之後、地頭等愁ひ申して云はく、地檢之間、門田を顛ず可し之旨、留守張行之由と云々。
仍て今日件の事を停止可し之趣、御書を遣は被る所也。
當國檢注之間。所々の地頭の門田を倒被可之由の事。尤も驚き聞こし食す。
出羽陸奥に於て者、夷(×アイヌ)之地爲るに依て、度々の新制にも除き訖。偏に古風を守り、更に新儀無し。
然者、件の門田等、何ぞ停發被ん哉。限り有る公田之外の門田者、年來の如きにて、相違有る不可之旨。
鎌倉殿の仰せに依て、執逹件の如し。 >>174
奥州には鎌倉幕府の新制を適用していない >174
「 されば津軽の京役といふも、已に鎌府以前の世に始れり、安藤氏の管領亦其久しきを想ふべし。而て津軽の内三郡の鎌倉役となれるを考えれば、初め、津軽は内外を分たず、共に安藤氏に委任せられしが、文治六年へ大河兼任の乱に、宇佐美大兄の諸将津軽に戦死す。
此に於て、内三郡を割きて鎌倉家人を配置し、安藤氏は其北偏のみ治め、十三湊の名も起りけん。謂ふ所の藤崎を避けて十三に移れるは、鎌倉武士の入部と相待しや必せり」 安藤氏て…酷い誤植にもほどあんな
記者が最初から安藤にしてたのかも知れんけど >>57
俺は青森だけど今でも根に持ってるよ
我ながらしつこいとは思うが
多分サントリー商品は一生買わない >>183
安藤って偽物いっぱいいるでしょ?
https://www.hakone-ryokan.or.jp/hakopedia/?p=218
竹の下住人藤曲と云者しのび来り、応永10年4月25日
新田相模守入道行啓、底倉山中にて討死也。・・・其賞として藤曲に底倉木賀
を給はり、上杉禅助に属し安藤と改名す https://diycc.info/taki/n/n114_120.htm
元々は駿河が本貫地でしょ?安東荘
老中の安藤と同系統のはずだけど?
本当はw >>184
高松院蔵人の、安藤が村上氏らしいね。本当は。
村上義清とかの村上。 >>192
安藤じゃなくて、藤曲?藤田?が本名
影武者多いなw 俘囚の豪族が鎌倉武士の有力御家人に娘を差し出して種付けして貰って安藤を名乗ったとか? >>127
南部側からすりゃ、梟雄大浦(津軽)為信に掠め取られた津軽領に対する総力挙げての奪還作戦だから、全然阿呆な戦争じゃないだろ 幕末も南部×津軽、南部×佐竹で小競り合いしてたな。大局には影響なかったが
あのへんで温泉巡りしてるとその旧跡に出会うw >>195
南部氏が治めていたのは極一部の地域だけ。為信以前は浪岡北畠氏が津軽地方を治めていた。
津軽為信の戦いの殆どは浪岡北畠とその後ろ楯の安東愛季の息が掛かった者達。 ネイティブジャパニーズVS大陸からの渡来人の戦いか
コレで負けてネイティブジャパニーズ達は僻地へと追いやられたんやな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています