>>556
高麗史だと文永の役は
> その後、高麗軍は元軍諸軍と共に協力して日本軍と終日、激戦を展開した[175][191]。
ところが、元軍は激戦により損害が激しく軍が疲弊し、
左副都元帥・劉復亨が流れ矢を受け負傷して船へと退避するなど苦戦を強いられた[175]。
やがて、日が暮れたのを機に、戦闘を解した[175]。

弘安の役では南宋に船を造らせたが、
戦役で疲弊してて高麗の船よりレベルが低いものになってた
> その理由を弘安の役から11年後の第三次日本侵攻の是非に関する評議の際、中書省右丞の丁なる者が、
クビライに対して「江南の戦船は大きな船はとても大きいものの、(台風により)接触すればすぐに壊れた。
これは(第二次日本侵攻の)利を失する所以である。
高麗をして船を造らせて、再び日本に遠征し、日本を取ることがよろしい」[324] と発言しており、
高麗で造船された軍船に比べて、江南船は脆弱であったとしている。