比較的部落數が少く且つ差別の甚しくない奧鋳n方の事例を擧げれば、s、會津、塔寺等の部落は何れも現に、新義眞言宗であるが、其の中會津祝町部落の墓地に就て觀るに、天明、享保、安永、寛政年代の墓碑中には、笠付三重臺の堂々たるものに、當時百姓町人には却々許されなかつた、院號居士號などが刻まれてゐるのがあり、尙近江彦根の浪人某とか、丹波浪人某などと配したものが其の間に交錯してゐるので、こゝにも亦武士の落魄者が部落に流れ込んだことを物語る證左をも得たのである。

東北地方の部落は槪して、新義眞言宗が多く、之に次ぐは臨濟宗であり、眞宗を信ずる者は唯米澤市內のそれのみのやうであつて、而もこの米澤市のも亦江戸時代に改宗したものであつたことを知り得たのである。

昭和五年調査を遂げた岐阜縣飛騨高山のそれは、戶數僅かに九十八戶の集團で、同一墓地內の石碑に、曹洞あり、臨濟あり、淨土あり、眞宗あり、日蓮宗ありといふ狀態であつた。明治九年の戶籍簿に就て總戶數七十戸の宗派別を見るに、法華宗三、眞宗西二十三、同東三十三、淨土四、曹洞二、臨濟五(計七十)で、此の信仰の區々たることが人爲的に何等の作爲を加へない部落成立の自然の姿を現してゐるもので、それ等の人々が此の地に土著した時代が同時でなかつたこと、其の部落に流入した徑路が異ること(卽ち出身地の異ること)等を示すものであり、更に又爲政者より何等信仰上の掣肘を受けなかつたことなどが窺はれる。

尙今後此の方面の硏究を進める上に於て留意すべきは、現在部落の信仰が必ずしも眞宗のみでなく、淨土宗あり、日蓮宗あり、臨濟宗あり、曹洞宗あり、時宗あり、眞言宗あり~道各派ありといふ實狀で、之を地理的に分類すれば、槪して愛知以西には、岡山縣の一部(元岡山藩下)に眞言宗及日蓮宗のあることゝ、飛騨の高山のそれが區々であるの外、殆ど皆、東西兩本願寺の門徒であると言つてもよい位、大多數が眞宗であり、三河以東は、日蓮、臨濟、曹洞、時宗、及新義眞言宗等であつて、眞宗門徒は極めて少いのである。

これ等地理的に著しく信仰の異る所以を究明することは、他面其の部落の起源沿革等をも倂せ知る資料ともなるのである。